第8話 魔女には関わるな

 教室の窓の外に広がる群青色の空を、槇志は机に突っ伏したまま見上げていた。陽射しは強く、こうしているだけでも外の熱気が伝わってくるようだ。

 制服はすでに夏服に替わっていたが、そんなものは気休め程度にしかなっていない。そもそも冷却能力ひとつ無いくせに、生地を減らしただけで夏服などとは片腹痛いというものだ。

 夏が近いとはいえ、実際にはまだ六月半ばを過ぎたところだ。気象情報によれば梅雨の真っ最中のはずだったが、ここ一週間、快晴がつづいており、新聞の降水確率など見るのもバカバカしい気分だった。

 ただでさえ暑さを苦手とする槇志にとっては、こんな日にグラウンドで元気よく走り回っている運動部員たちの気が知れない。自分とは違う生き物のようにさえ思えてくる。

 授業はとっくに終わっており、放課後がはじまって四十分近く経つが、槇志はこのエアコンの効いた校舎から出る気になれず、ただひとり教室に残っていた。

 私立星輪高校は全校舎冷暖房完備である。べつに近くに鉄道が走っているわけでも、空港があるわけでもなかったが、この素晴らしい機能は校内のあらゆる施設に当たり前のように備わっている。実のところ槇志がこの学校を選んだ決め手となったのがこれだった。

 中学時代、エアコンは職員室にのみ存在し、彼は夏と冬が来るたびに腹立たしい思いをしたものだが、今年も母校では後輩たちが似たような思いを抱いていることだろう。

 隣の席に顔を向けると、そこには空色の手荷物だけが残されている。彼女は六時間目の終了と同時に教室を出て行ったまま、未だに戻ってきていない。おそらく、またラブレターで呼び出されたのだろう。


「けど、不用心なヤツだなぁ。荷物をみんな置いていきやがって」


 さすがに財布ぐらいは持って出かけたのだろうが、残されたスポーツバッグには彼女の体操服やスクール水着が入っているはずだ。


「水着……」


 一瞬、邪な考えが脳裏をよぎり、槇志は慌てて頭を振った。いくらエロ本読者とはいえ、ホンモノの変態になりたいとは思わない。


「まあいいか、とりあえず帰ってきたら、注意してやろう」


 アクビまじりにつぶやくと、だんだん眠気が込み上げてくる。ごく自然に瞼が下がり、うとうとと微睡みかけていると、教室のドアがそっと開くのを感じた。

 そのまま眠ったふりをしたのは、それほど深い意味はなく、半分は本当に眠いからで、残る半分は空色ならば、ちょっと驚かせてやろうと思ったからだ。

 入ってきたのは案の定、空色だったらしく、足音は彼の後ろを通り抜けて隣の席で止まった。タヌキ寝入りのまま、しばらく様子を窺っていると、ごそごそとカバンを漁るような音が聞こえてくる。なにか探し物でもしているのだろう。

 とくに不審に思うこともなく、こっそり息を吸い込むと、槇志は突然顔を上げて、


「わっ」


 と叫んだ。


「きゃあぁぁぁっ!」


 大げさな悲鳴が響き、赤い髪の少女が机やイスを弾き飛ばしながら後ずさっていく。


「あれ……?」


 それはどう見ても空色ではなかった。長い髪をポニーテールにした見知らぬ少女だ。星輪高校の制服を着ているが、見覚えのない顔であり、そのくせどこかで会ったような気がしなくもない。

 床の上には空色のカバンとスポーツバッグが転がっており、中の荷物が一部散乱していた。


「…………」


 槇志はしばし無言で少女を見据えたあと、ポツリとつぶやく。


「こそ泥?」

「ち、違いますっ!」


 赤毛の少女は顔を真っ赤に染めながら否定した。


「じゃあ、何をしてたんだよ?」


 槇志がやや険悪に問うと、彼女はゆっくりと身を起こしてから、凛とした表情を作り直して、彼の顔を真っ直ぐに見つめ返してきた。いや見据えてきたというべきだろうか。


「最近、彼女と仲がいいようですね、笠間槇志くん」


 質問に答えようともせずに言ってくる。


「なんで俺の名前を知ってるんだ。どこかで会ったか?」


 問いかける槇志には構わず、少女は倒れた机やイスを直し、床の上に散乱した荷物を適当に空色のカバンに詰め込んだ。


「ひとつだけ忠告しておきます」


 ようやく口を開いたものの、それはやはり質問に対する答えではない。


「天咲空色には関わらないほうが身のためです」

「あのなぁ――」


 一方的な少女の態度に腹を立てる槇志だったが、彼の言葉を遮るようにして、少女はさらに言葉をつづけた。


「彼女は世界の一つや二つ、たやすく滅ぼしてしまえるような魔女なのですから」

「――っ!?」


 槇志は愕然とした。忘れかけていた悪夢が脳裏をかすめ、戦慄が全身を泡立たせる。いましがたまで感じていた眠気は一瞬で吹き飛び、しばらくの間息をすることさえ忘れていた。


「おまえはいったい……」


 強張った表情のまま、槇志は震える声で問いかける。その言葉を今度は無視することなく、少女はにこりともせずに告げてきた。


「わたしは世界を守る者。あなたの敵ではありません」

「世界を守るって……」


 当惑する槇志。当惑せざるを得ない。かつて望んだときには現れなかった天からの使者が、いまさらながらに現れたとでもいうのだろうか。


「どうか、わたしのことはご内密に」


 勝手なことを言うと、少女は長いポニーテールを翻して、教室の出口へと歩いていく。


「お、おい……」


 呼び止める声に振り向きもせず、少女は背を向けたまま扉を閉めてしまった。

 ひとり取り残された槇志は、ただひたすら混乱していた。空色に対する不信感を、ほぼ完全に払拭できた今になって、突然現れた謎の少女。しかも彼女は空色が魔女であることを知っていたばかりか、世界さえ滅ぼす力があると明言した。そんなことは空色が魔法使いであるという秘密を共有している、綺理華や夏生でさえ知らないことだというのに。


「まさか天咲は本当に……」

「わたしがどうかしたの?」


 ふいに教室の入口からかけられた声に、槇志は危うく跳び上がりそうになった。いつのまに戻ってきたのか、空色が不思議そうにこちらを見つめてきている。


「て、天咲……」


 槇志が慌てて作り笑いを浮かべると、空色は足早に近づいてきて、どこか心配そうに彼の顔を覗き込んできた。


「顔色悪いわよ。どうかしたの?」

「い、いや、なんでもないんだ」


 誤魔化すように視線を逸らす。すると、開いたままになっている空色のスポーツバッグが目に入った。釣られるように視線を追った彼女もそれに気づき、表情を強張らせた。


「か、笠間くん……!?」

「いや、これは――」


 慌てて事情を説明しかけたものの、赤毛の少女が残した言葉が脳裏をよぎる。

『どうか、わたしのことはご内密に』

 勝手な注文ではあったが、無視していいものかどうか判断がつかない。いまの槇志にとって空色は決して恐ろしい存在ではなかったが、もしあの悪夢がただの夢だというのなら、先ほどの少女の言葉はどう説明すればいいのだろうか。ここで事実を告げて、万が一にも空色に隠された本性があった場合、槇志は最大の味方を失うことになりかねない。

 迷った末に槇志は少女の言葉に従う道を選んだ。


「――これは、俺がやったんだ」


 思わず言ってしまった。


「なんで!?」


 当然のように狼狽える空色だが、槇志はそれ以上に混乱していた。他に言い逃れはいくらでもあったはずなのに、第一声が大失敗だったからだ。


「た、他意はないんだよ。ただ、天咲はやっぱり……胸が大きいんだなーっと」


 慌ててつじつま合わせの言葉を紡ぎながら、槇志は胸中で自分にツッコミを入れる。


(うわーっ、なに言ってんだ俺は!?)


 焦る彼の眼前で、空色はわなわなと震え出した。顔は耳まで真っ赤になり、目尻には涙の粒を浮かべている。


「笠間くんの……笠間くんのエッチバカー!」


 空色は叫ぶと同時に、自分のカバンとスポーツバッグを両手で抱きかかえるようにして、走り出してしまった。

 両手が塞がっていては扉の開閉はできないはずだったが、魔法を使ったのか、扉は自動ドアのように開き、彼女が通り過ぎるとともにピシャリと閉ざされてしまう。


「て、天咲!」


 槇志は慌てて追いかけようとしたが、扉がまったく動かない。どうやら空色が何かしたようだ。それをなんとか開こうと散々無駄な努力をした末に、彼がようやく反対側の扉を使うことを思いついたときには、空色はとっくに走り去ってしまったあとだった。


(俺って、ひょっとして世界一のアホなんじゃ……)


 両手で自分の頭を抱えこむようにしてしゃがみ込むと、槇志は結構本気でそんなことを考えたのだった。

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