第5話 ダイイングメッセージは間に合わない

「あれ……?」


 夏生は眼前に迫ったスポーツカーを見て間の抜けた声をあげた。遅ればせながらブレーキ音が響いたが、このスピードでは間に合うはずがない。

 迫り来る死の影を前に、彼が考えたのは、いかにしてダイイングメッセージを残すかということだった。もちろん、『犯人は槇志です』といった、あからさまな手がかりを残すわけにはいかない。せいぜい名探偵が頭をひねるような難解なものでなくては。しかし、あまりこりすぎて、名探偵でさえ解明不能になってしまっては本末転倒だ。冷静かつ慎重に考える必要があった。

 そして考えている間に、夏生は何か硬い物が背中にのしかかってくるのを感じた。どうやら考えている暇など、微塵も無かったようだ。

 夏生は目を閉じて、自らの運命を受け入れながらも、なぜか少しだけ幸せな感じがした。背中をグリグリとされるような感触が妙に背徳的で新鮮なのだ。これが車に轢かれるという感覚なのだろうか。


「うーん、クセになりそうだ」


 思わず声に出ていた。


「あら、ごめんなさい」


 すぐ頭上から少女の声が響き、彼の体にのしかかっていた重みが忽然と消える。


「あれ?」


 怪訝な思いで身を起こすと、なぜかすぐそばに綺理華に匹敵する美少女が立っていた。

 綺理華を太陽にたとえるならば、こちらは月華のイメージを持つ少女だ。しかしその名は、この日のような晴天を連想させる〈空色〉である。

 首を横に向ければ、少し離れたところで茫然と立ちつくす綺理華と槇志。反対側には、つい先ほどまで夏生を押し潰さんとしていた真っ赤なスポーツカーが、嘘のようにピタリと静止している。


「ホワーイ?」


 夏生は怪しい英語を口走って首を傾げた。どうにも状況が理解できない。

 混乱する彼の目の前で車のドアが乱暴に開いた。車内から厳めしい面構えをした大学生風の男が降りてくる。


「おい、死にてえのかてめえらは!」


 開口一番、男は怒声を張りあげた。


「乗ってんのが俺だったから良かったようなものの、並のドラテクだったら、とっくにぺしゃんこだぞ!」


 夏生の記憶では、決して止まれるはずのない勢いだったのだが、男は目の前で起きた異常事態をそう解釈したらしい。なかなかに独創的な解釈だと夏生は感心した。ちょっと常人ではできない発想だろう。


「ドラテクってなに?」


 空色は意味がわからなかったらしく小首を傾げている。愛らしいその仕草にときめきを感じながら、夏生は自らの憶測を口にした。


「きっと働かないでのらくらするテクニックだよ」

「なるほど、どら息子のどらね」

「バカか、おまえらは!? ドラテクっつったら、ドライビング・テクニックに決まってんだろうが!」


 男はつばをまき散らしながらわめいてくる。空色は一歩下がってそれを避けると、目を細めて冷ややかな声を発した。


「つまり、あの下手くそなコーナリングを自慢したいのね」

「へ、下手くそだと!?」

「無茶苦茶に突っ込んで、適当にハンドルを切ってるだけじゃない。だいたい自分で止まったのか、止められたのかもわからないなんて、お話にならないわよ」

「止められたぁ!? 誰がどうやって止めたって言うんだよ」

「わたしが魔法で止めたのよ」


 空色はさらりと言った。

 男は一瞬何を言われたのかわからなかったらしく、ポカンと間の抜けた顔を浮かべている。

 しかし夏生はひとり得心していた。


「なるほど、魔法ならできて当然だね!」


 どう考えてもあれは科学では説明のつかない現象だった。ならば超常の力がそこに介入したと考えたほうがだ。

 夏生は至極当然のように思ったのだが、赤いスポーツカーの男は違ったようだ。失礼にも心底、人をバカにしたような顔で、空色を睨みつけている。


「魔法だぁ? バカか、おまえは! んなものあるんなら――」

「見せてあげるわ」


 空色は静かな声音で男の言葉を遮った。その口調に反して、瞳にはどこか剣呑な光が宿っている。夏生にはなんとなく見覚えのある目つきだ。本気で暴れ出す前の綺理華が、よくあんな目をしている。男もどこか本能的な危険を感じたのか、一瞬身をすくませたようだったが、愚かにもすぐに眉を吊り上げて、唸るような声を発した。


「面白え、見せられるってんなら見せてもらおうじゃねえか」


 男が言った瞬間だった。突然誰も乗っていないはずの車のドアが、ひとりでにバタンと閉まる。


「なっ!?」


 ぎょっとして振り向く男。その眼前でエンジンが再始動していた。


「だ、誰だ、こらぁっ!」


 男は慌ててドアに駆け寄ったが、当然ながら中には誰も乗っていない。


「ど、どうなってんだよ、こりゃあ!?」


 必死でドアを開けようとするものの、鍵がかかっているのかビクともしないようだ。


「ち、ちくしょう!」


 頭に血が上った男は、とうとうサイドウィンドウめがけて拳を振り下ろした。それを彼の愛車は突然バックして見事にかわす。対してパンチを避けられた男は、勢い余って無様にすっ転んでいた。どうやら運動神経はあまり良くないようだ。たぶん普通に殴り合ったら、夏生が勝つだろう。

 車はそのまま後退をつづけ、もと来た角まで下がると、ご丁寧にウインカーを点滅させながら、ゆっくりと旋回をはじめた。ドライバーよりも、よほどマナーというものを理解しているらしい。


「お、おい、待て! 待ってくれーっ!」


 男は半泣きになって追いかけるが、自律行動をはじめた車は素知らぬ様子で遠ざかっていく。


「さよーならー」


 遠ざかる一台と、それを必死で追いかけていくひとりに、夏生は大きく手を振ってやった。

 ようやく一段落したところで、空色がやさしく声をかけてくる。


「怪我はない? 八条くん」

「うん、ありがとう天咲さん。君のおかげだ」


 爽やかな笑みで夏生は応えた。

 そこに、いまのいままで茫然と立ち尽くしていた綺理華が、小走りに駆け寄ってくる。


「ハチ、良かった。もうダメかと思ったよ!」


 目尻に涙を浮かべながら思いっきり抱きついてきた。極めてめずらしい反応だ。やわらかな感触とリンスの香りが実に心地よい。


「全部、天咲さんのおかげだよ。凄いよね魔法って、ビバ魔法!」


 空色と魔法を讃える夏生。超常現象を目の当たりにして動揺するような正常な神経など、もとより彼は持ち合わせてはいない。それは綺理華も同じなのか、彼女はまったく気後れすることなく、空色に向かって深々と頭を下げた。


「ありがとう、空ちゃん。こんなバカでも、大事な友だちだから、助けてくれて本当に嬉しいよ」

「気にしないで、できることをしただけだから」


 空色は笑みを返してから、少し離れた場所で立ちつくしている槇志へと視線を向けた。

 その瞬間、槇志は強張った顔で、よろめくように後ずさった。


「槇志?」


 夏生が怪訝な顔で呼びかけるが、彼はそれにも気づかないようだ。


「笠間くん……」


 空色が当惑したように名を呼ぶと、とうとう槇志は悲鳴をあげた。


「うわぁぁぁぁぁぁっ!」


 弾かれたように背を向けると、もつれそうになる足を引きずるようにして逃げていく。いかに超常現象を目の当たりにしたとはいえ、普段の彼からは想像もつかない醜態だった。


「なにあれ?」


 唖然と綺理華がつぶやく。


「笠間くん……」


 空色は悲しげにうつむいた。

 そんな表情さえも美しく思えて、夏生はひとりドギマギとしていた。

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