第3話 失恋大魔王

 恐怖の対象を追いかけるなど、なんだかあべこべな気もしたが、このまま逃げられてしまえば、明日の朝、教室でどんな噂が流れるか知れたものではない。

 だが空色は見かけによらず俊足で、足には自信のある槇志でさえ、簡単には追いつけなかった。


「止まれーっ、天咲ーっ!」


 聞こえてないはずもないのだが、彼女は振り向くことなく土手の上を疾走していく。長い黒髪がほうき星のように棚引いていた。

 緑の木々に彩られた土手の上を突き進むと、前方に水色に塗られた水道橋が見えてくる。二列になった太いパイプの上は歩行者兼自転車用の通路が設けられており、槇志や空色をはじめ、何人もの生徒が通学に利用していた。その長い橋を三分の二以上渡り終えたところで、槇志はなんとか空色に追いすがると、腕をつかんで強引に振り向かせた。


「誤解だ! 俺の話を聞いてくれ!」


 焦った声をあげる槇志だが、ようやく振り向いた空色はこともあろうに、必死で笑いを堪えていた。


「おまえ……」


 唖然とする槇志に向かって、空色はくすくすと笑いながら、感心したように言う。


「笠間くんって意外に足が速いのね」

「からかったのか……」

「さっきのお返しよ」


 平然と答えると、空色は懐から小さなブラシを取り出して、乱れた髪を軽く整えはじめた。


「でも本当に驚いたわ。この橋くらいは、じゅうぶんに渡りきる自信があったのに」

「おまえなぁ……」


 槇志はガックリと肩を落とした。


「男心をもてあそんで楽しいか?」

「変なこと訊くのね、笠間くん。男の子の心をもてあそんで楽しくない女なんているはずないじゃない」


 さらりと、とんでもないことを言ってくる。ある意味、魔女らしい台詞かもしれない。


「じゃあ訊くけどさ、女心をもてあそぶ男は?」

「そんな鬼畜は死んだほうがいいわ」


 空色はやはりあっさりと言い切った。


「いい性格してんなぁ……」

「ありがとう」

「おめでとう」


 皮肉が通じなかったので、もうひとつ皮肉を重ねた後、槇志はなげやりな口調でつづけた。


「けど、男心をもてあそぶのが好きなら、ラブレターの返事なんてどうでもいいんじゃねえか?」

「それはダメ。わたしの良心が許さないわ」

「随分と臨機応変な良心だな」


 槇志が正直な感想を述べても、空色は気に留める様子もない。


「そんなことはどうでもいいから、早く男の子のふりかたを教えてよ」

「だからなんで俺が知ってると思うんだよ?」

「八条くんから聞いたの。中学時代、笠間くんは失恋大魔王って呼ばれてて、通算三十回ふられてるって。そんなにふられてるなら、当然いろんなふられかたをしてるでしょ。だから、その中で一番傷つかなかったふられかたっていうのを教えてくれればいいのよ」


 空色は自分の知識に何の疑いも持っていないらしく、どこか得意気な表情さえ浮かべている。しかし槇志には身に覚えのない話だ。彼はこれまで誰にもふられた記憶はない。そもそも告白したことすらないのだから当然だ。


「天咲……俺ってそんなにモテないように見えるか?」


 なんだか悲しくなりながら訊くと、空色はまじまじと彼の全身を眺め回した。


「うーん、身長はまずまずね。体格も悪くないし、顔立ちも引き締まってていい感じだわ。こうやってみた限り、容姿には何の問題もないから、これで三十回もふられてるなんて、よっぽど性格が悪いのね」

「一度もふられてねえよ!」


 槇志が言うと、空色は目を丸くした。


「え!? ――じゃあ笠間くんって二十九人も愛人がいるの!?」

「ひとりもいねえよ!」

「それじゃあ計算が合わないじゃない! まさかみんな多額の保険金を残して、事故死したとか言うんじゃないでしょうね!?」

「言うか――っ!!」


 槇志はとうとう絶叫をあげた。


「何で理解できねえんだ!? おまえが聞いた話はまったくのデタラメだって言ってるだけだろ!」

「…………」


 空色は不思議そうな顔で槇志を見つめた。


「それなら最初っからそう言えばいいじゃない。ミステリーかと思って焦っちゃったわよ」


 迷惑そうな顔をする空色を前にして、槇志は本気で頭を抱えたくなった。だが、考えてみれば悪いのは空色ではなく、そのデマを流した本人――クラスメイトの八条夏生なつおだ。彼は一見すると線の細い美少年だが、性格はひょうひょうとしており、何を考えているのか理解しがたいところがある。中学以来のつき合いで、実際に仲はいいほうだが、それでも断じて認めたくない事実があった。


「あれは悪友であって、親友じゃねえっ」

「でも彼は、あなたのことを心のマブダチだって言ってたわよ」

「本当にそうだったら、そんなわけのわからんデマを流すはずねえだろ」

「うーん……。それもそうね」


 ようやく納得してくれたのか、空色は両手でカバンを抱きしめるようにしながら頷きを繰り返した。


「でも、そうなると相談は無理か」

「悪いけどな」

「そっか……」


 空色はとくに気落ちした様子でもなかったが、しばし口をつぐんで遠くの空を見つめた。その横顔を眺めながら槇志はしみじみと思う。


(どう見ても普通の女の子だよな。やっぱ夢はしょせん夢か……。どうかしてたぜ俺も)


 心の中で結論づけると、槇志はごく自然に空色と肩を並べて歩きはじめた。すでに恐怖心も警戒心も消え失せており、いまは一緒にいることに、なんの抵抗も感じない。なんとなく力になってやりたいような気さえしてきて、槇志は思いついたことを口にしてみた。


「さっさと恋人をつくっちまうってのはどうだ? そうすれば誰も言い寄ってこなくなると思うぞ」

「それは無理よ」


 空色はあっさりと首を横に振る。


「どうして?」

「笠間くんは突然言われたからって、今日明日に恋人をつくれるの?」

「いや……。たしかに無理な話だったな」


 納得して頷く。そもそも邪魔な異性を遠ざけるための恋など恋ではない。かといって他に妙案も浮かばず、槇志はしばらく黙考しながら歩きつづけた。

 水道橋を越えて反対側の土手を進むと、やがてコンクリートの階段が見えてくる。そこを下れば住宅街に囲まれた児童公園があり、様々な遊具が整然と並んでいた。


「グローブジャングルか……ここにはまだあるのよね」


 球形をした回転遊具を、空色はどこか懐かしげに見つめる。


「どっかで無くなったのか?」

「遠いところでね」


 いまひとつ要領を得ない。彼女の田舎かどこかの話だろうか。そこまで考えたところで、槇志は自分が彼女について、まだ何も知らないことに気がついた。まともに話をするのが初めてなのだから、当たり前だが、それでもせめて、どこに住んでいるのかくらいは訊いてみよう。そう思って口を開きかけたそのとき、前方から明るい声が響き渡ってきた。

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