第2話 逃げ出す魔女

 土手の上へと続く階段を駆け上がりながら、槇志は脳裏に強く焼きついた魔女の姿を思い浮かべる。滅びゆく世界の中で彼を嘲笑う冷酷な魔女。

 その魔女に――天咲空色は瓜二つだった。

 顔立ちは言うに及ばず、瞳の色や髪型まで同じで、背丈やプロポーションまで酷似している。もはや似ているというレベルを通り越し、はっきり同じだと言い切ってもいいほどだ。

 この春の入学式で、はじめて彼女と出会ったとき、槇志は仰天せずにはいられなかった。ずっと単なる夢の住人だと思い込んでいた魔女が、現実の世界に現れたのだ。

 彼は考えざるを得なかった。あの悪夢は、自分の前世の記憶ではないのか。だとすれば再び現れた魔女の目的が、世界の破滅であることは想像に難くない。

 その一方で、理性は常に主張している。いくら似ていようが、しょせん夢は夢であり、空色はただの女子高生に過ぎないと。

 しかし、いかに理性が常識的判断を下しても、恐怖を払拭するにはいたらず、槇志はこの日、とうとうあからさまに逃げ出してしまったのだ。

 土手の上でいったん足を止めると、槇志は息を荒げつつ後ろを振り返った。空色が追ってくる様子はない。


「た、助かった……」


 九死に一生を得たかのように、深々と安堵の息を吐く。だが、すぐに新たな問題に思いあたり、頭を抱えるはめになった。


「明日からどうすんだよ、俺……」


 冷静になって考えてみると、空色は槇志のひとりごとを聞き咎めたのではなく、たんに学校の用事で声をかけてきただけかもしれない。あんな場所でわざわざ待っていたのだから、むしろそう考えた方が自然ではないだろうか。

 だが、ここまであからさまに逃げ出してしまっては、さすがに不審に思われたことだろう。彼女が真実魔女ならば、こちらがその正体に気づいていることを教えてやったようなものだ。ついでに言えば、空色が魔女などではなく普通の女子高生だった場合、彼はただの変な男子生徒である。

 しかし後悔しても後の祭りだ。まさかいまさら引き返すわけにも行かず、槇志は肩を落としたまま、ゆっくりと歩きはじめた。

 土手の横手にある学校のグラウンドからは、運動部員たちのかけ声が響いてきている。


「世界は平和だ」


 なんとはなしに思ったことを口にした、その途端。


「笠間くんは意地悪だけどね」


 横手から聞こえた声に、槇志は再び凍りついたかのように足を止めた。恐怖に引きつった表情のまま、視線だけをゆっくりと動かすと、すぐ目の前の木陰から、見間違いようのない人物が歩み出てくる。

 夢の中の魔女同様、長い黒髪を風に揺らしながら、緑の瞳で槇志を見据えていた。明確に違っているのは手にした学生カバンと、衣装ぐらいのものだろう。


「て、天咲空色……ど、どうして……」


 槇志の声は恐怖でかすれていた。確実に振り切ったはずだった。途中で追い抜かれた記憶もなければ、あとを追ってきていた気配もない。そもそも進行方向に現れたことこそが考えられない異常事態だ。


「し、瞬間移動か……」


 思わず口をついた言葉に対し、空色は心底呆れたような顔を見せた。


「はぁ?」


 眉根を寄せたまま小首を傾げると、彼女は片手で校庭のフェンスを指差した。


「テニスコートの横を抜けてきたに決まってるでしょ」


 見れば、そこには学校のテニスコートへと通じる、小さな通用門が設けられている。


「なんだ……」


 槇志はほっと胸をなで下ろした。タネがわかればなんのことはない。彼が正門を通って大回りしている間に、空色はグラウンドを横切り、最短ルートで移動してきたのだ。実に単純なカラクリで、魔法でもなんでもなかった。


「なんだじゃないわよ。笠間くんってどうして、わたしに意地悪なの? 教室でも隣の席だっていうのに目を合わせようともしないし、話しかけてもろくに答えてくれないし、何か恨みでもあるわけ?」


 空色は拗ねたように唇を尖らせている。


「い、いや、それは……」


 もちろんある――などと言うわけにはいかない。あれがただの夢なら、槇志は頭のおかしなやつだし、逆に空色が魔女ならば、それを機に正体を現して、彼を割れたガラス細工のように粉々にしてしまうかもしれない。


「それは、なんなの?」


 空色は言いよどむ槇志の瞳を、じっと覗き込んでくる。


「それは――君が悪いんだ」


 深く考えがまとまらないうちに口走ってしまった。焦る槇志だったが、空色はそれ以上に動揺した。


「き、気味が悪い!?」


 ショックのあまり声が裏返っている。


「気持ち悪いっていうの、わたしが!?」


 悲痛な声を上げる空色に、慌てて槇志は解説した。


「いや、じゃなくて。つまり、ユー!」

「あ、ああ、なるほどね」


 納得して笑みを浮かべる空色。だが当然のように、すぐに怒りの表情へと一変する。


「どうして、わたしが悪いことになるのよ!?」


 上目遣いに見据えながら、噛みつきそうな勢いで詰め寄ってくる。なにか適当な言葉で誤魔化さなければ命が危ない気がした。意を決して槇志は告げる。


「ほら昔から美人薄命って言うだろ。あれは何も短命って意味じゃなくて、美人は不幸せになりやすいってことなんだ」

「は?」

「つまり君がいやな目に遭うのは君が美人だからさ。よって美人に生まれた君が悪い」

「うーん、褒められてるのか、けなされてるのか、わからないわ」


 空色は複雑な表情で首を傾げた。とりあえず誤魔化せたようだ。


「とにかくそういうことで他意はないんだ。じゃあまた明日な」


 早口で言って、再びダッシュをかけようとする槇志。だが一瞬早く、空色の手が彼の襟首をつかんでいた。


「だからどうして逃げるのよ!?」

「ビ、ビデオの再放送に遅れるんだ」

「ビデオが再放送するわけ無いでしょ!」


 もっともなことを言い返すと、空色は目尻を吊り上げて冷たい声を発した。


「いい、笠間くん? 今度逃げたら呪うわよ」


 その言葉に槇志はさあっと青ざめた。


「うわあああっ!」


 腰を抜かしたように尻餅をつくと、恐怖に顔を歪めながら後ずさる。

 が、その様子を空色はぽかんとした顔で見おろしていた。


「……案外ノリがいいのね、笠間くんって」


 意外そうなその声で、槇志はようやく、いまの言葉が冗談なのだと悟った。素早く立ち上がると、さり気なさを装って前髪をかきあげる。


「いや、実は子供の頃から、お笑い芸人に憧れててさ」

「だからって、あそこまでしなくてもいいと思うけど」

「オーバーアクションこそが、笑いを取る秘訣なのさ」

「ふぅん」


 曖昧な返事を返す空色。槇志はぼろが出ないうちに、さっさと話題を変えることにした。


「それよりも天咲はなんで俺を待ってたんだ?」

「ああ、そうだった」


 空色はぽんと手を叩くと、カバンを開けて横長の白い封筒を取り出してくる。


「これなんだけど……」

「ラ、ラブレター!?」


 思いもよらぬ人物から思いもよらぬ物を手渡されて、槇志は強い衝撃を受けた。


「それにこれとこれも――」


 しかも空色は次々に同じような手紙を差し出してくる。


「こ、こんなにたくさん!?」


 全部、自分へのラブレターなのか――などと一瞬考えないでもなかったが、常識的に考えてひとりの相手に、同時に複数のラブレターを差し出す人間はいない。戸惑いつつも、槇志はとりあえず封筒を一枚ずつ確認してみた。筆跡の違う字で、それぞれに同じ宛名が書かれている。そのすべてが〝天咲空色さま〟になっていた。


「なんだよこれ、みんなおまえ宛じゃないか」

「そうなのよ」

「いや、意味わかんねーんだけど?」


 困惑する槇志に、空色は真面目くさった顔を向けてくる。


「実はね、笠間くん。わたしって、もの凄くモテるの」


 自慢しているのかとも思ったが、そんな様子ではない。ただ事実を述べただけのようだ。


「入学以来、もう何回も、こういうの貰ってるんだけど、断るのって結構たいへんなの。中にはこちらの予定も無視して、どこそこで待ってますって書いてくる人もいるし、一番ひどいときは呼び出しの場所と時間が、二通でかち合ってたわ。どうしてみんな校庭の木の下に呼び出そうとするのかしら?」

「たぶんゲームの影響だよ」

「なにそれ? 恋愛をゲームと同じように考えてるってこと?」

「いや、そういう言いかたをされると、身も蓋もないけどさ」


 槇志は思った。自分が誰かに告白するときは他の場所に呼び出そう。ゲームと同列に考えていると思われてはたまらない。


「とにかく、ふたりまとめてごめんなさいなんて言ったのは、生まれてはじめてだったわよ」


 空色はうんざりしたように肩をすくめた。

 たしかに言ったほうも気まずかったのかもしれないが、言われたほうは、もはや悲劇だろう。槇志は顔も名前も知らないそのふたりに同情した。


「一方通行だもんな、手紙なんてものは。そういうトラブルも起きるときには起きるさ。OKする気がないときは、いっそ無視したって構わないと思うぜ」

「うーん……。でも無下にするのは悪い気がするし」


 困り顔でつぶやく。その様子を見る限り、とても恐ろしい魔女には見えない。実際こうして会話していても、意外なほどに話しやすく、恐怖は微塵も感じなかった。


「まあ、なんだかたいへんそうなのは、わかったけどさ、俺に言われたってどうにもできないぞ。まさか俺が代わりに断りに行くってわけにもいかないしさ」

「当たり前よ。笠間くんには相談に乗ってもらいたいだけ」

「相談?」


 槇志は首をひねる。この手のことで自分が役に立つとは思えない。


「わたし思うのよ。せめて真摯な想いが感じられる手紙だけでも、ちゃんと返事をしてあげたいって」

「ああ、それでいいと思うぜ。けど、それと俺になんの関係があるんだ?」

「笠間くんに教えて欲しいの。なるべく相手が傷つかない、男の子のふりかたを」

「…………」


 槇志はますます混乱して、しばし言葉を失った。


「待て、人選の基準がわからん。当然ながら俺は男をふった経験なんてないぞ」


 槇志はその手の世界とは縁遠い人間だ。男とつき合うぐらいなら、世界を滅ぼす魔女に愛を告げた方がマシだと言い切れるほどにノーマルである。


「それくらいわかってるわよ。笠間くんが本屋でいかがわしい本を手に取るところは、もう何度も目にしてるんだから」


 空色はさらりと、とんでもないことを言った。


「ち、ちょっと待て、それはどこの店での話だ!?」


 慌てて問い質すと、空色は意地の悪い笑みを浮かべる。


「へえ、本当に買ってるんだ。そんないやらしい本」


 その言葉に槇志は一瞬、自分が誘導尋問に引っかかったのかと思ったのだが、そうではなかった。


「綾子から聞かされたときは、冗談かと思ったんだけど……」

「どこの店だぁぁぁ!?」


 空色が口にしたのは彼女の無二の親友であり、槇志にとっても同級生にあたる女生徒の名前だ。基本的に明るく真面目な少女だが、槇志を見る目はなぜか冷たい。その謎がいまここで氷解した気がした。


「そんなことはどうでもいいのよ」

「どうでもよくねえよっ」


 食い下がる槇志。


「聞いてどうするのよ?」

「どうするってそりゃあ……」

「これからはもっと人目につかない店を選んで買うのかしら?」


 空色のからかうような視線に、色んな意味でプレッシャーを感じて、槇志は冷や汗をかきつつ視線を逸らした。


「ま、まあ、たしかにどうでもいい話だな。はははは」


 乾いた笑みで誤魔化そうと試みる。


「これだから男の子っていやよね。頭の中は女の子の裸でいっぱいなんだから」

「へっ、おまえの裸もつまってるぜ」


 やけくそでチンピラっぽく告げると、空色は笑みを引きつらせたあと、きれいに回れ右をして、そのまま走り出した。


「あれ……?」


 唖然と見送る槇志の視線の先で空色は脱兎のごとく遠ざかっていく。どう見ても彼から逃げようとしているようだった。


「ま、待て、こんなくだらねえ冗談を真に受けるなーっ!」


 槇志は大声を張りあげると、慌ててあとを追いかけはじめた。

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