空色魔法使い
五五五 五(ごごもり いつつ)
第1話 世界の終わり
緩やかな曲線を描きながら市内を北から南西へと流れる茜川。その大きな川の土手沿いに、ブロック状の模様に覆われたシックな建造物が並んでいる。
外観同様に落ち着いた内装を備えたこれらの建物は、それ単体では、なんの施設か判断し辛いところだが、周囲に広がるグラウンドや各種設備が、学校であることを雄弁に物語っている。
校名は私立星輪高校。何やら壮大なスケールを連想させる名称だが、べつに宇宙飛行士の養成学校でもなければ、特別に天文に力を入れているわけでもない。授業内容も平均的な公立高校レベルで、運動部がインターハイの常連ということもない。
特徴があるとすれば清潔感漂う冷暖房完備の校舎と自由で穏やかな校風で、それこそが在校生やOBから愛される要因になっていた。
本年度の新入生のひとり
五月の放課後、掃除当番の務めを終えた槇志は、部活に向かう級友たちと別れ、帰り支度を整えて校庭に出た。
澄み渡った青空と、爽やかな微風が彼を出迎える。呆れるほど、のどかで平和な光景がそこに広がっていた。
「とても世界の危機が迫っているようには思えないな」
陰鬱な表情で槇志は呟いた。べつにふざけて言ったわけではない。おそらく誰に話しても信じてもらえないだろうが、彼は本気でそれを危惧していた。
しかし、もしその危惧が当たっていたとしても、普通の高校生でしかない槇志には、それを食い止める手段はない。
「なにせ相手は魔女だからな……」
肩を落として呟くと、その声が消えるかどうかというタイミングで、突然背後から澄んだ声が聞こえてきた。
「待っていたわ、笠間くん」
凍りついたかのように槇志は動きを止める。
どこか音楽的にも思える、その美しい声の主が誰かなんてことは考えるまでもない。間違いなくクラスメイトの、それも隣の席の女生徒の声だ。
おそらくは昇降口の扉の横にでも、もたれかかっていたのだろう。背後から近づいてくる小さな足音に、槇志の心音は急速に乱れはじめていた。
(聞かれたのか? 今のひとりごとを!)
だとしたら最悪のタイミングで、その言葉を発してしまったことになる。冷たい手で心臓をわしづかみにされたかのような思いで、槇志は青ざめたまま、振り向くことさえできずに立ちつくしていた。
そんな槇志の様子になど気づいたふうもなく、空色はいつも通りの明るい声音で言葉をつづけてくる。
「ねえ、これから少しつき合ってちょうだい」
言葉とともに空色の手が、軽く肩に触れるのを感じ――一瞬、槇志の意識は真っ白になった。あるいは本当に瞬間的に気絶していたのかもしれない。それでも生存本能は肉体を突き動かし、気がついたときには槇志はもう、弾かれたバネのように猛然と走り出していた。
「ちょっ――どうして!?」
背後で空色が驚きの声をあげたが、今度は自分の意志で加速していく。こうなった以上、もう止まるわけにはいかなかった。
(捕まったら、殺される!)
胸中で悲鳴を上げながら、正門を飛び出し、アスファルトを駆け抜け、土手の上へと続く石段をがむしゃらに駆け上がっていく。その脳裏には、昨夜も夢に見たばかりの、世界の終わりの光景が甦っていた。
その奇妙な夢を最初に見たのがいつだったのか、槇志にはもう思い出せない。おそらくは物心ついて間もなく、いや、あるいはそれ以前から見てきただろう。
夢の繰り返しは不定期で、三日連続見ることもあれば、一ヶ月以上見なかったこともある。ただ最近は頻度が増しており、週に一度は必ずその夢を見ていた。
それはいつも決まって、眩い西日に目がかすむところからはじまる。槇志は現実には絶対に見覚えがないと言い切れる豪華な洋館のテラスに立っていた。
精緻な装飾を施された手すりの内側には、白い円テーブルと、お揃いのイスが二つ並び、開け放されたガラス扉の向こうでは、真っ白なカーテンが風に揺れている。
館はかなりの高所にあるらしく、見おろした街並みは段々畑にも似た傾斜の上に広がり、そのさらに遠方には海が顔を覗かせていた。もっとも、すべては夏の陽射しの中で淡く霞み、陰影ばかりが濃く浮き彫りになっている。
槇志の対面には少女がひとり。腰より長く伸ばした黒髪を風に躍らせながら、じっと彼を見つめていた。
一目見れば二度とは忘れられないような、そんな美しい少女だ。驚くほど端整な顔立ち、肌は雪のように白く、エメラルドのように輝く瞳が印象的だった。
魅入られたように槇志が見つめる先で、少女はその薄い唇を動かして、何事か言葉を紡ぐ。
だが、その声はいつまで経っても聞こえてこない。
いや、少女の声だけではない。この夢の中には一切の音が存在していなかった。そのため槇志には彼女の言葉はもちろんのこと、彼女に対する自分の言葉さえも聞き取ることができない。
まるで無声映画を見ているかのような、ひどく客観的な夢の中、たしかに槇志は何度となく少女と言葉を交わしていた。しかし、その内容はどうしても理解できない。
やがて何度目かの会話の後、槇志の言葉に対して、少女ははっきりと首を横に振った。指を突きつけるようにしながら、槇志はなおも何事か言いつのるが、彼女は突然、さぞおかしげに笑うと、スカートのポケットから真っ黒な石を取り出した。
どこか尋常ならざる存在感を持った不気味な石だ。光沢を放つどころか、逆に濃い闇が滲み出しており、とてもこの世のものには見えない。
立ちつくす槇志の眼前で、少女はその石を握りしめる。さして力を入れたようには見えなかったが、ただそれだけで、石は呆気なく砕け散っていた。白い指の隙間から、こぼれ落ちた破片は砂のように崩れ去り、一片のカケラも残すことなく、すべてが風にさらわれて消えていく。
それが合図であるかのように、一瞬の後、穏やかだった世界に、劇的な変化が起きる。
不気味な赤光が、黄昏の空を稲妻のように斬り裂き、そこを起点として生まれた、さらなる細かい光が、まるでひび割れのように世界の果てまで広がっていく。
空が崩れはじめ、世界のカケラがゆっくりと大地に降りそそぐ中、景色は急速に色を失い、目に映るすべてが、ガラス細工のように透き通ってはひび割れ、次々に崩れ去っていった。
建ち並ぶ家屋や街路樹、通りを歩く人々、この世の何もかもが失われていく。
それは儚くも幻想的な世界の終わりだった。
しかし、その中でこの館と黒髪の少女だけは変わることなく佇んでいる。彼女は花びらのように舞い落ちる世界のカケラの中に立ち、薄笑いを浮かべたまま、ただじっと槇志だけを見つめつづけていた。
恐ろしいその姿に向かって、槇志は手を伸ばしかける。しかしそのときにはすでに、彼の腕も無数の亀裂に被われており、一瞬の後には呆気なく砕け散ってしまった。
それでも少女の表情は変わらない。まるで人間の命など、なんとも思っていないかのように、かすかな笑みを浮かべたままだ。
為す術もなく自らの体が朽ちていく中で、それでも槇志は最後まで魔女から目を離そうとはしなかった。まるで、それが精一杯の抵抗であるかのように。
だがそれも長くは続かない。おそらく膝かどこかが砕けたのだろう。槇志の体は大きく傾ぎ、ゆっくりと硬い床の上へと落ちていく。
最期に瞳に映ったのは、やはり変わることなく笑みを浮かべた少女の姿だ。
彼女は最期の最後まで、憐憫の表情ひとつ見せることはなかった。
『忘れるものか』
ふいに誰かの声が響き、すべてが闇に包まれる。
夢はいつも、ここで終わりだった。
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