社内恋愛の余波

うたた寝

第1話


『先輩とお話するの楽しいです!』

 彼女は笑顔で僕にそう言った。普通に考えれば、会社の後輩が先輩と話して、『つまらないです』などと言えるわけもない。もちろん、本音の可能性も否定はできないが、それでもお世辞で言ってくれているかもしれない言葉を、この時の僕は妙に鵜呑みにした。

 後輩の女子は何人か担当したことがある。会社に勤めてもう8年くらいになる。後輩だってそれくらいできる。不愛想な子も中には居たが、愛想のいい子も多かった。

 後輩の女子の笑顔なんて見慣れているハズなのに、彼女の笑顔だけは妙に記憶に残った。ストレートに伝えられた言葉も手伝ったのかもしれない。

 自分の中でどこか、彼女の笑顔を見続けたい、という想いが芽生え、彼女への教育を熱心に行った。リモートワークでチャットだけで済んでしまうことが多かったから、何かと理由を付けて彼女と通話する機会を増やした。

 褒められたことではないだろうが、明らかに今までの後輩よりも、彼女への対応を丁寧に行っていた。リモートワークで社内での活動ではなかったから、誰も見ていなかったのが救いだった。いや、あるいはそのせいで自制心が働かなかったのかもしれない。

 残業嫌いの僕が、彼女の研修資料を作るために残業した。急ぎの作業をしている時も、彼女から質問が来ればそっちを優先した。その関係で土日出勤することもあったが、何も苦ではなかった。

 彼女の『ありがとうございます!』という笑顔が見れるだけで、あらゆる苦労など無いようなものだった。



 その後、会社で開かれた親睦会。普段であれば僕は参加しないのだが、

『先輩とお話したいです!』

 彼女の言葉に乗せられた、というと聞こえが悪いが、彼女に会えるなら、と思い、僕は珍しく親睦会に参加することにした。自分でも珍しいことは承知しているが、それでも行って早々会社の上司に『まさか来てくれるとは』といたく感動された。

 座席は決まっていて、彼女の席は僕から少し離れていた。そのことを残念に思いつつ、僕は自分の席へと向かった。向かう途中、彼女と目が合い、彼女が軽く会釈をしてきた。

 彼女の顔を見て、今日はコンタクトレンズなんだな、と僕は思った。普段彼女は眼鏡をしている。

 珍しいな、くらいしか僕はその時は思わなかった。会社の集まり、という少しかしこまった場ではあったから、彼女なりの正装なのかな、と思っていた。

 そんな時、ある男性社員が彼女の肩を触る。その時、触ってきた相手を見上げて、彼女が見せた、あまりにも嬉しそうな顔を、僕はきっと、ずっと忘れないと思う。

 彼女の笑顔自体は、僕も見たことがある。彼女は誰にでも笑顔で明るく接してくれる子だったから。僕のつまらない冗談にも、本当に楽しそうに笑ってくれたりもした。

 だけど、その男性社員に向ける笑顔は、あまりにも種類が違った。

 そして、その時、僕の中で始まっていたことさえ知らなかった何かが終わった。

 何故、彼女は今日、眼鏡ではなくコンタクトレンズなのか。

 何故、僕の胸は今、これほどまでに痛いほど締め付けられているのか。

 色んなことに合点がいった。

 来なければ良かった。僕は心からそう思った。そうしたらきっと、自分の気持ちに気付くこともなく、あの不思議な暖かい感情だけを持ち続けられたんだと思う。

 彼女に悪意は無いのだろう。僕と話したかった、というのも本心だろうし、僕と話していて楽しい、というのも多分本音なのだろう。

 ただ、そこに、恋愛感情が乗っていない、というだけの話。それを今この場で、痛いほど僕は思い知った。

 男性社員に向けられる、僕には向けられることがないであろう彼女の笑顔が、あまりにも羨ましかった。

 後で聞いたところ、二人が付き合っているという話は社内ではとても有名な話らしかった。だけど僕は前述の通り、会社の飲み会にはほとんど参加しない。社内にそれほど交友関係を持っているわけでもない。だから、その情報は僕の耳には入ってこなかった。目で見て知ることとなった。

 彼女と男性社員が付き合っていると思うと胸が痛かった。

 ボディタッチをすんなりと受け入れている彼女の笑顔が見たくなかった。

 楽しそうに話している、明らかに近い距離感で。

 二人が同じ日に有休を取っていると、その意味を邪推することもあった。

 肩に触れ、首筋をなぞり、唇に触れて、唇を重ねる。付き合っているのだから、それくらいしているだろう。もっと女性的な部分にも触れているかもしれない。

 彼女の姿を見る度に、そんなことが頭に過る。彼女が体を許す相手が居る。彼女の服の下に隠れた秘部に触れることを許されている男が居る。彼女と話していても、あれほど好きだった彼女の笑顔を見ても、ずっと脳裏に彼女と彼が裸で抱き合っているであろう姿がチラつく。

 そんなことを常に考えている自分がとても下品な生き物にでもなったみたいで、その度に自己嫌悪だった。彼女に訳もなく冷たく当たったこともある。普段そんなことなど絶対してこなかったから、彼女は大層驚いた顔をしていた。

 傷付いたような彼女の顔を見て、罪悪感は沸いてくるのに、同時に、彼氏にでも慰めてもらえよ、と自分の声とは思えないほど冷たい声が頭に響く。そんな自分が自分の中に居るのが嫌だった。

 彼女からすれば、今まで親しく話してくれていた先輩の態度が訳も分からず急に変わったわけだから、相当戸惑ったのだろう。自然と、話す機会が減っていった。僕ではなく、他の先輩に聞くようになった。理不尽にも僕は、当たり前であろう、そんな彼女の対応にさえイラついていた。

 気付いてほしかったのかもしれない。僕も貴女のことが好きなのだと。貴女が好きだから、貴女のために頑張ってきたのだと。押し付けがましいにもほどがある、一方的な想い。気付いたところでどうしろ、という話ではある。仮に気付いてもらったところで、彼女が男性社員と別れるハズもない。

 しばらくすると、彼女の同期から遠回しに『彼女が何かしましたか?』という質問が来た。察するに、僕の態度が変わった原因が分からなかった彼女が自分の同期に質問を頼んだのだろう。

 今から思えばとても寛大な対応をしてもらった。理由を聞いて関係を改善したい、という優しい気持ちが見て取れる。訳も分からず冷たく当たってきた先輩。普通であれば嫌いになるか、上司にパワハラの相談でもするかだろう。

 けど、この時の僕は、そんな余裕が無かった。分からない、というのが辛かったのだ。僕からすれば理由なんて一個しか無いだろう、としか思えなかったから。態度が変わる前と後で何があったのか、考えれば分かるだろう、としか思えなかった。

 僕の態度が変わった原因に全く心当たりが無いほどに、彼女は僕のことなど相手にしていなかった。それだけの話だった。そこが痛く、辛く、怒りにさえ変わった。

 関係を改善したい、と。わざわざ向こうから折れて差し伸べてくれた手を、僕は振り払ってしまった。この時素直に、彼女のことが好きで彼氏が居たことにショックで冷たく当たってしまった、とでも言えていれば、まだ少しばかりでも同情して共感してもらえたのかもしれない。

 だけど僕は、結局理由は言わなかった。質問は無視してしまった。結果、彼女にだけ冷たく当たる最低な奴、という風に彼女の同期には認知されたらしかった。彼女が報告したのかまでは分からないが、その後上司からも聞き取りの調査が来た。

 理由こそ話せなかったが、彼女とは一緒に仕事をしたくない、という旨だけ伝え、極力関わらなくて済むように取り計らってもらった。

 その数年後、僕は会社を辞めた。

 付き合っていることを知った時、感情に任せてすぐにでも辞めようと思ったのだが、露骨すぎると思って踏み止まった。今思えば誰も気にしなかったのかもしれないが、僕は彼女への想いがバレることを嫌がった。

 少し冷静になった時、会社に居続けようかとも思ったのだが、好きな人が社内に居て、その人が他の人と付き合っている、という事実が、ずっと胸に引っかかっていた。リモートワークだから二人が仲良くしているところが目に入るわけでもないのに、二人が仲良くチャットでもしているのではないかという自分で勝手にしている妄想が自分を傷付けた。

 勝手に気付いている間にも彼女たちの交際期間は長くなっていく。会社をこのタイミングで辞めた一番の理由は、二人からの結婚報告のメールがそろそろ来るんじゃないかと怯えたからだ。

 そんなもの見たくなかったから、僕は逃げるように会社を辞めたのだった。

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