第8話 会議(おわらない)

 元々は通学用に買ったPコートで、もう三年か四年前の物だった。

 愛着があるとかではない。新調するお金が無いとかでもない。

 寒すぎるわけでもない、天気が崩れそうな日に、これでいいや、って手に取ってしまうような服が、そういう日にクローゼットに無かったとしたら、どう思うだろう。そういう時の為に取っておいたのかもしれない。

 地味な紺色で、サイズはまだ少し大きく、フードが付いている。

 ポケットに手を入れると、中も冷たく、固まったアメの包装紙が出て来た。

 落としてしまおうかと思い、周りを見ると、みんなが自分を見てる気がする。

 赤と黄色が混じり、渦を巻いたような模様の中に、ポップに崩されたアルファベットの商品名が書かれたアメは、確か紙製の棒が付いてたはずだ。噛んで、噛んで、ふやかしてボロボロになった棒を、どうしただろう。反対側のポケットには何も入ってない。

 文字を囲む丸い吹き出しの形も禍々しくて、商品名を二秒と見ていられない。

 ガサガサと鳴る感触に苛つきながらも、ゴミ箱は無いかと歩道を探してみる。見つかるのは吸い殻、空き缶、長いレシート、カミソリの刃、半分に割れたミカン。シミだらけの石畳自体がゴミ箱なんじゃないかと思えてくる。

 やっとコンビニを見つけ、捨てる代わりに大袋のアメと、のど飴を買った。

 もう目的地の二つ隣まで来てたけど。

 都内某所、スリーマウス・エージェンシーはマンションの一室を借りている。

 十一階建てのオートロックで、住宅地に同じような建物がぞろぞろ集まっていた。

 その中でも『徳丸スペース』は古参で、小柄な、周りから舐められてるマンションだ。

 スリーマウスは特に小さい所だから、特に何をしてるのか知られていない。

 俳優が一人、中村薫風、四十九歳。

 ナレーターが二人、トウカイリン澪子、四十歳と、海豹太、六十一歳。

 それと社長、経理、チーフ、あとはマネージャーとかのスタッフが居る。

 そしてCWBGの三人が、今事務所で一番押され……何せ、まあ、動かされているタレントではある。どれだけ動かされても、トウカイリンさんの地上波長寿番組と音声ガイダンスとコマーシャル契約の前では、アルバイトのようなものだ。

 二階から四階、また一階まで降りて来たエレベーターのドアが開くと、ふんわりと髪を巻いた長身の女性が、急に人の顔を指で差し、目を覗き込みながら「あ、あの子。ほら、あの……アイドルの!」と、見てもない記憶の抽斗に手だけ突っ込んで引っ掻き回し始めた。

 出て来そうで出て来ないと、それを外から放り込むのも気持ち悪い。

「ああ、はい。そうです」と、なぜか濁してしまう。「おはようございます」

 大きなマスクを付けている、トウカイリンさんは、すっぴんの目元に微笑を浮かべる。

「おはよう。やっぱりスリーマウスよね、事務所に用事?」と聞かれる。「お給料日だ?」

「振り込みです」と答える。「今日、月一のミーティングと、レッスンが入ってて」

「へえ、あ、場所は違うのよね。大変だ。私もそうだったから。自分で探して、経費で落とすのも全部、書類揃えてね。前の事務所の時だけど。その時はお芝居も歌もやってて、とか言ってほとんどレッスンとバイトしかしてなかったけど、今バイトしてる?」

「ないです。移動が多いので、入れたくても入れられないけど」

「それは大変だ。あ、そろそろ行くね」そう言って、薄い冊子のような物を見せてくる。「今日は早めに台本取りに来て、あと……なんだっけ。契約は更新したし、スケジュールは確認したし、あとあれだそうだ。あなたたちの指導して欲しいって、社長さんから」

「ナレーションのですか?」

「練習の付き添いくらいだと思うけど。それはまた後で、じゃあ。バイバイ」

 手を振りながら、後ろを向いたまま、歩道に出てさっさと歩き去ってしまった。

 人か物にぶつかるんじゃないかと、見てる間にドアが閉まる音を聴いた。

 エレベーターが、もう一度ボタンは押したけど、最上階に向かっているようだ。


 奥に社長の自室があって、寝室は資料室、それとリビングがオフィスになって、その仕切られた一画には大きなテーブルと、椅子が六脚。そのうち三脚を横に並べて、カノンが横になっていた。「おつあぁす」とあくびみたいな声を出し、こちらに背を向ける。

「おはよう。カノン早いね」

「泊まった。一人で」

「……なんで?」歩いて行って、足元の椅子を抜いた。バタバタ、と足が絨毯を叩く。「なんでソファで寝ないの?」

 そのままズリズリと体が床に落ちていく。「ここなら寝てても会議には出れるから」

 そういう事じゃ……「そういう事じゃなくて」

 大きなリュックを横に起き、脱いだコートを背もたれに掛けた。

 立ち上がったカノンが後ろに回って来て、物珍しそうに袖を抓み、引っ張る。「シアー素材って蚊帳みたいだよね」と言う。「今日、結構寒くない?」

「伸びるからやめて」

「柄物のガウチョパンツに肩出てるスケスケの重ね着トップスって。どんな季節感よ?」

「寒くなったらもう着ないと思って急いで袖通しただけだよ」鏡とスマホを並べ、アメを一つ口に入れる。袋をテーブルに置いておくと、すぐに横から手が伸びて来た。「一応コートも着てきたし、どうせ会議だけだし。ジャージハーパンには言われたくない」

「会議だけだからね、今日」とカノンが得意そうに言った。

「レッスンもあるでしょ。そのまま帰るの?」

「着替え事務所に置いてるから。汗かいたら着替えるから大丈夫」

 言うほど大丈夫か。「社長は?」

「資料室」と、パーテーションの向こうを指そうとした、カノンの指先を押さえるように、スーツ姿の男性が姿を現した。「朝から騒がしいな、早村さん。加賀崎さん」そう言って、社長の三津口覚さんは微かに頭を傾けた。「おはよう、調子はどうかな」

 社長は年格好だけならダイモンと同じくらいで、痩せていて、ずっと坊主頭だった。

 大きいとか、強そうとかではないけど、目付きが異様に鋭く、いつも過去を見ていた。

 独身で、家族は居ないらしい。友人も、ダイモンだけだと言っていた気がする。

「おはようございます、普通です。カノンがここで寝てました」

「っす」とカノンが言い、居心地悪そうな会釈をした。

「私も、朝来たら加賀崎さんが全然開けてくれなくて困りましたよ」

 寝てても会議が始まる、とか言って、開始の妨げになってるじゃないか。

「大門がそろそろ隈田さんを連れて来るそうだから、そうしたら会議を始めましょう」

「社長は?」

「資料室に居ます。用がある時は、ちゃんとノックをしてください」

 社長が戻ってしまうと、オフィスは静寂を置き去り、ドアの音も聴こえなかった。

「しなかったんだ」と後ろを振り返ってみる。「入る時ノック」カノンは聞こえてないフリをしていた。アメをもう一つ口に入れ、ブログのネタでも無いかと、充電器を挿して、SNSやニュースサイトを巡回した。そのうち玄関が開き、ダイモンとレレ子が入って来た。

 今日は毛先が外に跳ねていて、肩に触れていない。少し、短いかもしれない。

 レレ子は服を見て「何その、スケスケ服、朝釣りしてたんですか?」と聞いてきた。

 あんまり評判が良くないな。

 大量のビニール袋と、カバンを放り出し、レレ子は向かいに座って、コンビニで買った菓子パンやグラタン、パスタサラダ、唐揚げを広げた。「ひとつくれたね?」と言う前にカノンは一つ取り、口に運んでいて、レレ子は何か言おうとした口を諦めて閉じた。最後に紙パックの抹茶オレを出すと、ストローを刺したまま、それを隅の方に押しやっている。

 プラスチックのフォークが三本、割り箸は五本も入っていた。

「朝ごはんそれ全部?」と聞く。「多くない?」

「残ったらダイモンさんが食べるので」

 ダイモンは資料室に向かったらしい、ドアの閉まる音が廊下から聴こえた。

 いくつかの容器の蓋が開けられ、雑多な匂いが混ざり合う。換気扇を回して戻ると、カノンが二リットルのペットボトルから直に水を飲んでいた。「カノン朝ごはんは?」

「今食べた。アメも」

「だけ?」と聞いても、もう返事もしない。「まあいいけど。お昼までに何か入れてね」

 レレ子が唐揚げを口に入れた途端に「そうだ」と最悪のタイミングで話し始める。「このマンションの話なんですけど。昔、屋上から部屋に侵入された事があったらしくて」

「えー待ってなにそれ。こわこわこわ、先に顔洗って来ないと」

 逃げたカノンの背中を、レレ子はずっと、ずーっと目で追い続け、見えなくなってもパーテーションの際を睨み続けていた。その後頭部を見る。毛先は肩に触れず、少しだけ外に跳ねている。「昔っていつ? 二、三十年前とかだったらマンションまだ無いけど」と聞いた。

「そういう無粋な意見は置いといて」今度は唐揚げを齧り、口を隠しながら、言う。「とにかく噂になったから管理の人が調べてみたんです。屋上、とか階段とか色々。そしたら、あったんですよ。縁の埃が積もってる所に、手と、靴で擦れたような跡が」

「そこから下に降りたんだ? それでどこかの部屋に……上の方の階かな」

「全然違って」とレレ子が言った。「跡があったの、横の短い所だから、真下にベランダも通路も無かったんですよ。出窓はあるのかな、あとはずっと地面まで落ちていくだけ。で、隣って少し離れてビルがあるじゃないですか、間がフェンスで区切られてるだけで」

 パスタを巻き、それから思い出したようにドレッシングを掛け、抹茶オレを飲む。

 ちょうどタオルを肩に掛けたカノンが戻って来て、レレ子の隣の椅子を引き寄せ、座りながら「もう終わった?」と聞いてきた。首を振ると、なぜかこっちに非難するような視線を向けてくる。レレ子はカットされたトマトでカノンを指した。

「隣のビル、見た事あります?」とレレ子が聞く。

 カノンは頷いて「何が入ってるか知らないけど」と答えた。

「じゃあ七階の窓の所から誰かがこっちを見てるの、見た事あります?」

「知らないよ。七階って、ここより上じゃないの?」

「窓なんて無いんですよ。こっちから見たら、ずっと壁のはずなんですけど」

「え、じゃあ、……窓は無いって事?」

「ダイモンと屋上に行って、見て貰ったんですけど、やっぱり窓が見付からなくて。それでダイモンが、よく見ようとして縁から身を乗り出して、足を掛けて、そのまま、下に」箸先からトマトが落ちると、カノンが、ひぐっ、と掠れた悲鳴を漏らす。「落ちそうになって」

「あ、あ、あの人そういう所あるじゃん、運転で疲れてたんじゃないの?」

「あるけど、その時はあの人、同じ高さなら見えると思った、って」

「ど、どういう事?」意外とカノンが前のめりに聞いている。

 たぶんカノンは怖くない根拠を探そうとして、でもレレ子はもっと怖がらそうとして、二人はすれ違ってしまう。だからって、怖くない真相を言え、と迫ったところで、レレ子が表現を抑えるとも思えない。「窓に庇が付いてて見えなかったんじゃないの」と言ってみる。

「そういう事じゃないのよ!」カノンがなぜか声を荒らげる。

 そういう事じゃなかったようだ。

 テーブルを叩き、立ち上がって身を乗り出して来たカノンは、今は庇が怖いらしい。だけどそれがどういう事かは説明が出来ない。奥歯を噛み締めたまま、カノンはゆっくりと椅子に腰を下ろした。「結局どういう事? 誰かが屋上から飛び降りたの?」とレレ子に聞く。

「そうだと良いんですけど」とレレ子が言った。

 いや良くはない。

 塩サバコッペパンの袋を開けたところで、社長とダイモンがオフィスに戻って来た。

「そろそろ始めますか」と言い、社長がテーブルの上を見る。「片付けて貰えるかな」

「はーい」レレ子が腕を広げ、食べ物を自分の前に寄せた。

「そういう事じゃない」その横でダイモンが袋を拾い、空の容器や蓋を入れていった。容器はそのままマネージャーのデスクに移して、なんとか物を退ける事は出来た。レレ子は飲み物だけは両手で持って死守していた。それと口に詰め込んだパンと、サバも。

 ダイモンと社長が椅子に座り、ダイモンが資料を配り始める。


「では、CWBG定期ミーティングを始めます、よろしいですか」

 社長が離れた角の所に座り、その向かいにカノンが座る。「お願いしまーす」

 カノンの隣にレレ子。「大丈夫でーす」

 角を挟んでダイモン。「問題ありません」

 残っているのは、少し間を空けて、社長の隣だけだった。「お願いします」

 社長が一同を見渡すと、カノンだけがなんとなく資料に目を通している。

「前回のミーティングからは、三ヶ月振りくらいになりますか?」

「そうですね」と手帳を開きながらダイモンが答える。「前回は夏前に」

「夏場はイベントも多いので仕方ないですね。移動も多かったようで。ご苦労様でした」社長が紙を一枚取り、それをダイモンの前に滑らせた。「泊まりも、三度ほど、中一日が空いたタイミングで観光地の方へ迂回して、そこだけ費用が跳ね上がっているようですが」

 ダイモンは資料に目を落としたままだ。「あんまり田舎の方だと、泊まる場所も少なくなってしまうので、その、実際車中泊も何度かあって、良くないと思ったので、宿は早めに探すようにしています」最後まで顔を上げずにダイモンが説明する。

 社長は表情を変えず、資料に並んだ数値の増減に合わせて瞳を右往左往させている。

「なるほど。ただ捻出できる経費にも限度があるので、そこは気を付けてください」

「でも今は、グループの顔を売る時期だと思うので」とダイモンが食い下がった。

 レレ子が手を挙げ、一同の顔を見渡して言う。「もっと近くでイベントないんですか。関東だったら、福島とか、山梨とか」もう一方の手は、アメの袋を出たり入ったりしていた。

「その辺って東北じゃなかった?」と疑問をぶつける。

 険しい顔のレレ子にシー、と言われ、口元に指を立てられた。

「関東でも東北でもいいですけど、その辺りの采配については大門に一任してあります」

「無いんですか」レレ子が聞き直し、ダイモンが軽く頷く。

「あるにはあるが、泊まるには近いんだよ。日帰りで往復五時間なんて、嫌じゃないか?」

「関東圏だったら一時間くらいでどこでも行けるんじゃないんですか?」と聞く。

「どこでも真っ直ぐに線路が通ってるわけじゃないんだ。内陸の方に行けば山も多いしな」

「関東なのに」

「関東でもだ」

「えー、じゃあ行く意味ないじゃん」と嘆き、レレ子の座りが露骨に浅くなる。

「ない事はないだろ。お前らのファンだって居るんだぞ」

「関東のファンだったら都心まで出て来られると思うけど」とカノンが言う。

「都内のイベントはなあ、ライバルが多いから、結局出るのが難しいんだよな」

「泊まりについて、もう一ついいですか」社長が話を止めて、矛先を切り替える。「前後の予定もあるとは思いますけど、最近特に車中泊が多いです。朝になって銭湯に寄った場合、ネットカフェに宿泊した場合、二十四時間営業のスーパー銭湯で過ごした場合……そのうち大門だけが車中泊をする場合なんかは、周りの目もあるので、出来れば控えて頂きたいですね」

「ラブホテルみたいな所に二部屋取って泊まった事もあったよね」とカノンが言う。

「他に」と何か言いかけ、ダイモンは後ろを向いて、脳内に百の言い訳を生み出した。

 それもちゃんと書類に記載されていた。

『ホテルリバー・ラビリンス』の休憩は三千九百円で、宿泊は、六千九百円だ。

 しかも男女ではなく二人、二人に分かれて泊まったっていうのは絶対に内緒だ。

 どうせ、どうせ何も起こらないし。「モーテルみたいなね」

「宿探しに苦労するなら、もっと間隔を空けて予定を組むべきかもしれないですね」

「これ以上は日程を伸ばせません」とダイモンが苦悶の表情で言い切った。「あんまり長期間の拘束になると本人達もストレスになるし家族も心配するので、かと言って営業も減らせません。交通費と宿泊費の分で赤字になったらそもそも遠征をする意味が無くなるので」

「そこは上手くやってください。次にファンクラブについてですけど」と次の紙へ移る。

 同じ物にカノンも目を通している。どれだろう、グラフの……。

「ここのところファンクラブの会員数が伸び悩んでいます。理由としては『アクセスの仕方が分からない』『支払いの方法が複雑すぎる』『会員向けのコンテンツが少ない』などで、その他にも『告知されるイベントが遠すぎて参加できない』という意見もありました」

「ファンクラブなんかやってたんだ」と対面からレレ子が口元を隠して言う。

 カノンとダイモンが白い目を向け、社長は資料を手に深々と頷いている。

 CWBFCの運営は、ダイモンが外部のWEB制作会社やグッズ制作会社に頼み込んで、格安で依頼を受けて貰っている。主なコンテンツは、許可が得られればイベントの動画、直筆のメッセージ、ファンミーティングの参加、グッズや、出た時は新譜の先行抽選。会員限定のライブイベントも、東京に居る時くらいは月に一回は開催する予定だけど、先月は無し。

 居るだけマシなファンも、先月の新規加入者は十四人。たったの十四人だ。

 退会者は一人だった。

「まずはファンクラブ自体を、二次元コードなどを使って周知させる必要がありますね」

「それは、チラシか何かを刷って?」ダイモンが聞いた。

「それだとコスト的に厳しいと思いますけど、三人は、他に何か案はありますか?」

「カメラ撮る四角いやつ? じゃあボディペイント」とレレ子が答える。

「名刺みたいなグッズ作るとか?」とカノンが答える。

 やば、被った。「とりあえず、なんか、移動用の車に描いとくのは?」

「広告に類する物は車体に表示して大丈夫でしたかね。自治体の許可取りなどは」

「調べておきます」ダイモンがさっそくメモを取る。

「大丈夫じゃないの」とカノンが言う。「ラジオのステッカーとか、よく見るし」

「車に描いたら迷彩柄みたいになって後ろの車が混乱しそうだけど」

「それは横か正面に描けば大丈夫じゃないか?」ダイモンが前向きになっている。

「じゃあそれと、グッズ案も、お願いします。それとこの退会者ですが」と切り込んだ社長の表情は、そんなわけはないけど、彼自身がたった一人の退会者として我々と向き合っているかのような、悲痛さをも感じさせた。「退会理由が『コンテンツの少なさ』との事ですが、実際のところ、遠征によるイベント参加を除いたら、現状これといった活動をしていません」

「ダイモンさんがすぐ遠征入れるからですか」と言う。

「そうですね。ただ、今のところは新曲の話が一つ来たくらいで、活動の場自体が限られているので、個々人のプロモーションに任せるしかないんです」ふと、何か聞き逃せない事を聞いた気がするけど、社長は「資料の四版を見てください」と話を先に進めていて、それを遮ってまで質問していい雰囲気ではなかった。「活動の割合ですが、早村さんはブログ、加賀崎さんは生配信、隈田さんは唯一SNSを持っていて頻繁に更新もしていますが、その中でお互いが絡むような内容がほとんど無いので、全体としてファン層が増えにくい状況にあります」

 まあ後で質問する機会があるだろうと思ったけど、さっそく流れが変わってる。

「二人の写真勝手に上げていいんですか」とレレ子が聞く。

「それは本人に聞いてもらって」社長が横を見る。「どうですか?」

「大丈夫な写真か聞いて欲しいけど、毎回は面倒かなあ」

 レレ子は舌を出した。こういう事言うから面倒なんだと顔が言っていた。

「それはそれとして、会員向けコンテンツに関して一つ提案なんですけど」資料の四版にざっと目を通し、社長は顔を上げて淡々と言った。「現状、許可が下りないと参加したイベントの動画も上げられない状況なので、これは退会員様にも看破された通りなんですが、そこで今後は移動中の車内や遠征先での様子を動画にして、それを上げるというのは可能ですか?」

「移動中」カノンが先に答える。「ずっとすっぴんで寝てるんですけど」

「それってどういう形でですか」と聞く。「ショート動画なのか、ライブ配信なのか。内容もトークとか、何かにチャレンジするのか、それともグラビア的な……」言ってみて、これは違う気がする。「それかラジオみたいな感じで、声だけで顔は出さなくてもいいって事なら」

「映った方がいいですね。あとは、その土地の名所や名産を紹介するとか」

「それはちょっと」とダイモンが言う。「同じような場所に何度も行く事になるので」

「なるほど。実際今は、食事ってどうしてるんですか?」

「時間無いとコンビニが多いですね。特産の物もほぼパーキングエリアで買ってます」

「温泉入ってるところも撮るんですか?」レレ子が聞く。

「嫌なら嫌って言っても構いませんけど」と社長が答える。

「嫌なの、さとぴ?」と、なぜかこっちに質問が飛んでくる。

「嫌だし、あの、そんな事よりさっき、新曲の話があるって」

「え、マジで」カノンの声が大きくなる。社長と、なぜかこっちを交互に見つめる。

「それは終わった話なんですけど」社長は億劫そうに語り出した。「大手レコード会社にツテのある方に有名な作曲家とタッグを組んで仕事をしないかと誘っていただいたんですが、条件として先方の社長と会食をして欲しいと。それも加賀崎さんをご指名との事で」

 カノンは、ただただ嫌そうな顔をして、あさっての方向を見ていた。

 代わりに「会食だけですか?」と社長に聞く。

「詳細は追って話すとの事で、少なくとも帰りの時間は分からないそうです」

「社長は断ったんですか?」

「その方は本当に有名な方なので」と社長が言う。「電波系のラブソングが得意で、大手のアイドルグループも何組かメジャーデビューさせてる実績があって。売れる物は作れると思うんですけど、ウチはそういう作風じゃないので。その点をお伝えして辞退しました」

「そう聞くと、もったいなくないですか?」と言う。

 確かに暗い曲調ばかりだけど、好きでやってるわけでもない。

「いや、加賀崎にだけ負担を掛けたくはない」ダイモンが断固として言う。

「それでやっぱり新曲を出すべきだと思って」社長の話が続き、カノンが瞬時に身構え、何か言ってやらないといけないのでは、というこれは焦りかもしれない。「甲子野恋風、という作曲家が居るのはご存知ですか。今度、その方に作曲の依頼をしてみようと思ってまして」

「おぅふっ」レレ子が口を開き、慌てて飲み物を口に含んだ。

「レレ子知ってるの?」

「呪いの作曲家って言われてて、十何年活動を休止してる人、すごい人ですよ」

「すごいのベクトル、レレ子と共有できる気がしないんだけど」

「出来ます。だって、呪いは本当で、実際にライブで人が……あ、詳細は追々で」

「ろくな人居ないじゃん」カノンが遂に机に突っ伏してしまった。

「そんな感じで。今後の展望については以上です。大門からは、何かありますか?」

 ダイモンが手帳を見る。小さな手帳には、三つの名前が何百回と出て来る。

「来月の頭に、隈田が家族旅行で三日間の休みを取ってるな。金、土、日だ」

「じゃあそこは休みですか?」と聞いてみる。

「いや、早村は再現VTRの仕事が入ってる。前にも言わなかったか、一日で撮り終わるやつだ」そう言うとダイモンは、実録なんとかという薄い台本をテーブルに出してくる。「打ち合わせがあるから、また事務所に来て貰う事になるけど、いいか。来週くらいだな」

「一日で終わるって言われても、それってカノンじゃ駄目なんですか?」

「あ、体調悪いから来月頭は無理です」とカノンが機先を制して言う。

「え、体調って……」

「まだ決まってないけど、トレーニングで怪我とかするかもしれない」

「わざとしないなら元気でしょ、カノンは」そもそも、一人だけ三十五日周期っていう、なんか心配になる体調してるので、関連する事を言われただけでも少し慎重になってしまう。そこを逆手に取って、こういう時の逃げ道に使うのはやめて欲しい。世の男性みたいになる。

「早村に直々のご指名なんだ。たまには新しい事にもチャレンジしてみたらどうだ?」

「前に二、三回レッスン受けただけですけど、演技経験無いのって伝わってるんですか?」

「早村が引きこもりだった事も、中卒だって事も伝わってるよ。だから呼ばれたんだ」

 だからって自信が湧くとか、そんな事も無いんだけど。

「それに一応キー局のスタッフの現場だしな。使い物になるようにしかされないよ」

 要するにスパルタか、マイコンじみた事を。「じゃあ、一応行ってみますけど」

 台本を受け取り、仕舞う間に、ダイモンはまた手帳に早村という名前を見つける。

「それと、今日のリモート会議は、早村にやってもらう事になったからな」

「あれ、何かありましたっけ?」

「遅刻が一回だ。まあ隈田の分の衣装を準備してたって話ではあったけど」

「それでも駄目なんですか?」

「セーフにしてやりたいけど、もう五回くらい隈田が連続で担当してるんだよ」

 レレ子なんか「そうだっけ?」って何かを噛み砕きながら目を皿にしてるけど。

「そうだった、……じゃあ。分かりました」

 それから、三人で今月の目標を立てて、これまでの達成度を議論し合った。

 それぞれ『体力を付ける』『寝坊をしない』『作詞に挑戦する』という、絞り出させられたような目標も、誰がどれを掲げたかさえ、どうでもいい。だって、他の二つも出来なきゃ意味がないのに、一つもやる気が無いからだ。とりあえず直近の予定は、レッスンだ。

 そして再び遠征が始まる。


 テーブルにリングライトを置いて、光量をマックスまで上げる。

 ノートパソコンに、ウェブカメラとヘッドセットマイクを取り付ける。

 インターネットに繋いで、ビデオ通話ソフトを起動してルームナンバーを設定する。ここまでが終わったら、ダイモンは「この開始ボタンを押せば始まるからな」と、半年前くらいにも一回聞いた事のありそうな事を説明し、今日の参加者達にパスワードを一斉送信した。

 設定が終わると、ダイモンはパーテーションの向こうへ、広げた食べ物の、濃いソースの匂いを漂わせているレレ子の手伝いに回った。単純にお腹が空いているだけっぽい。それが移ったっぽいので、レレ子の所へ行って、唐揚げを一つ、抓んだ。「ああ、最後の三個なのに」

「最後の一個が二個あると思えば」適当を言いながら、菓子パンも一つ貰う。

「始め方は分かってるのか」とダイモンが言い、サラダパンを齧った。

「大丈夫です。押すだけなんで。あの、来る人って分かったりしないんですか」

「始まれば分かる。そんな事より、そろそろ時間だぞ。遅れないようにしろよ」

「はー、あーい」袋を開けながらパーテーションの奥に戻り、椅子に座る。

 っていうか、マネージャーは見てなくていいのか。近くで寝てる人が居ていいのか。

 ちょうどテーブルの向こうからペットボトルが生えて来て、中に入っていた水が右から左に斜めに揺れた。向かい側には背もたれが三つ、一直線に並び、その片側から白い膝が少しだけ見えている。開始ボタンを押す。カメラの映像を確認して、ソフトに取り込んだ。

 自分の顔が小さなウィンドウに表示され、背後のパーテーションも見える。

 それに合わせて十分割された黒いウィンドウがぽつり、ぽつりと明るくなる。

 鏡を見て、前髪……良し。顔も、肩も、服も良い。メンタルも……、少し寝たい。

 貰ったライ麦パンを千切って口に入れ、鏡を横に置いた。「カノン、そこに居る?」ヘッドセットマイクを首に掛けて、足元に置いてあった烏龍茶を飲んだ。テーブルの向こうからジャージの袖が蛇のように伸びて、小さな手がひらひらと振られる。「一緒に入らない?」

「いーやだって、ノーメイクなのに」

「マスクとサングラスあったでしょ」

 入って来るのはほとんど年上の、男性だった。

 部屋の壁を背景に、グッズや、メンバーカラーに合わせた物を身に付けた、八人の男性と一人の女性の顔が小さなウィンドウに並んでいる。メイン画面に自分の顔を出して、あとは、なんだっけ。「カノン、これやった事あったっけ?」

「遅刻も無ければ挨拶も欠かした事ないけどね」とカノンが眠そうな声で言う。

「あー、あー。良し」画面を見ながら、自分の頬を叩き、息を大きく吸い、吐く。「おつかれさまでーす、チェリーウィークエンドブロッサムガールズ、リーダーの早村聡瑠でーす。今月はわたしがオンラインミーティングを担当……、お?」

 複数のウィンドウが光っている。「音出てない」「聴こえないよー」「マイク確認して」みたいな事を口々に言ってくる人がいる。カメラに手を翳し、少し待てとジェスチャーを加えてから、音量ミキサーを確かめる。ソフトとつながってないか、それとも。

「差込口は?」と向かいから声が聴こえる。

 端子を見ると、どっちがどっちか分からないので、賭けで隣に差し替えてみた。

「早村聡瑠でーす、リーダーでーす。聴こえてる方は挙手をお願いしまーす」

 なぜか小声になって呼び掛けると、一人二人が手を挙げ始める。「あ、聴こえますね。すいません、マシントラブルってやつで、もしかして前回の担当の方、何か食べながら配信してましたかね。えーっと、自己紹介。チェリーウィークエンドブロッサムガールズ、リーダーの早村聡瑠です。よろしくお願いします。今月のオンラインミーティングを担当……、さっき言ったか。ここで拍手」ヘッドセットに傘を叩くような、ノイズ補正の掛かった音が沸いた。

「前回の担当はレレ子ですよ」と一人が言う。

 キャップを被った浅黒い眼鏡の男性で、ヒゲがお腹の辺りまで伸びている。

「そうでした。じゃあ、自己紹介から行きます。名前と、えーっと、行きたい国!」

 十個のウィンドウはお互いに目を見合わせ、たりはしない。映像が並んでいるだけで、実際は左右に誰も居ないからだ。「時計回り、でも分からないか。じゃあ一人ずつ指名します、まずは女の子」と画面の顔を指差したけど、映像の中の自分はカメラの下を指しただけだ。

 その女性は、アラサーくらいで、長い髪を横に分けた丸みのある女性だった。

「あ、ぽん美です。行きたい国は、アカプルコです」と女性が言う。「会いたかったー」

「ありがとー、こっちも会わせたかったですよー」

 でもその為にわざわざオンラインミーティングするのは多少億劫だったよー。

 それから、よくよく見れば画面の下に小さくユーザーネームが表示されているので、それを一つずつ指名していった。アルゼンチン、プエルトリコ、キューバ、チリ、グアテマラ、アラスカ、無し、韓国。その中には、緑色の垂れ幕が背景になっている人も、映像じゃなくてイラストを表示している人も居た。「なるほど、……場所はちょっと分からないですけど」

「学が無いようなアイドルなんて今の時代やっていけないんじゃないか」と無しが言う。

 無しはアラフォーくらいの色白の男性で、毛量の多い髪が少し伸びてきている。

 ところで名前は、カズフミキサーだから、たぶん和史とか数文とか。

「そうですね、でも中卒なんで」

「この前の子供向けクイズ大会でもカノンに進行を任せっきりだったじゃないか」

「ぬふふん」とテーブルの向こうから声が漏れる。

「誰か居るんですか」とキューバが聞き、三つの椅子がガタガタ揺れる。

「事務所なので誰かは居ますね。ちなみに今日はミーティングで、まあ、いつもだけど」それで次は『最近あった事』を話す。「えーっと、最近あった事。さっきのミーティングなんですけど、新曲出したいねって話してたんですよ。社長が依頼したい作曲家さんが居るって」

「えー、誰ですか? JYOJIさんとか?」違うよ。

「メンバーで作詞とかしないんですか?」しないよ。

「社長さんが気になるのって甲子野さんかな」あっ……。

 どうしよう、画面を切ろうかマイクを抜こうか、いやそこまでじゃないか。「まだ分からないんですけど、出たらたぶんライブとかもすると思うんで、北海道一周ライブツアーとかしたいですね。そうだ、北海道か、東北に住んでる人って居ますか?」と聞くと、アラスカとキューバの人が手を挙げた。「え、寒い所住んでるのにアラスカに行きたいんですか?」

「そんな事言って、一年くらい何も出してないじゃないか」と唐突に無しが言う。

 カズフミが言う。

 他の八人の表情がすーっと曇っていき、口を閉じる。

「あー、そうですね」

「月一のライブイベントだって遠征の為に休止になってばっかりで、それで四国だ九州だっていきなり発表されて、誰が見に来るんだ」そこで無しがカメラに近付いて、後ろの本棚が少し見える。長期連載の少年漫画ばっかり、それも最新の数巻が抜け落ちたままだ。

「今の活動に不満ですか?」と聞くと、彼が鷹揚に頷く。その後ろの本には、ピンク色っぽい背に大きなカタカナの雑誌名が書かれていて、暑さは辞書くらいある。「でもコミックポップ買ってるじゃないですか。どうでした、初グラビア?」

「うっ……」彼が言葉に詰まるのも一瞬だけだった。

 その間に他の三人くらいが画面に雑誌の表紙を見せてくる。「わー、ありがとーね」

「それだって全然告知してなかったからな」と無しが言う。「発売から一週間も経ってやっとブログが更新されただけだ。大体、ファンサービスが足りないんだ。他のグループはもっと生配信も多いし、いろんな媒体で露出してるのに、ここは月一で通話するだけか」

「先月ありましたっけ?」と聞くと、全員が首を振る。

「ほら、月一もやってないじゃないか」と無しが言い直した。

「だから今日楽しみだったんですよ、久しぶりにみんなと話せると思って」

「はいはいすいませんね。楽しいだけの時間に水を差すような事を言って」

「本当ですね。そろそろブロりますか?」

「おいおい、こっちは金払って来てるんだぞ。気に入らないからって排除か?」

「まあ排除ですね」

 カーソルまで動かしてみたものの、やり方が分からないので、やっぱりやめておく。

「大体な、この前の祭りのライブの時だって」と無しが言う。長くなりそうな話だったので、ヘッドセットの音量だけ少し下げておく。テーブルの向こうを見て、顔の前で大きなバツを作り、首を振り、それから胸元に置いた握り拳を下に下ろした。無しの声が止んでいた。

「カノンが服脱いだ事がそんなに気になりますか?」

「脱いでないって」とカノンが言う。「え、ちょっと何の話?」

「き、急に、服を着ろ、みたいなジェスチャーをするから、何事かと思ったんだ」

「気のせいでした」と言う。「お話は大変ありがたいんですけど、大体はミーティングで話し合った内容なので、スタッフさんと同じような意見をお持ちの方がファンで心強いです。次の段取りに行きたいんですけど、いいですか。あとカノンはすっぴんだから映れません」

 次は『質問コーナー』だけど、始められそうにない。


 違和感を覚えたのは、緑色の背景が風か何かで揺れた時だった。

 それ以前に、グリーンバックにするくらいなら、背景画像を合成するべきだ。

 特に薄い紫色、というか藤色に近いグッズを画面に映すのであれば、緑色とならそんなに浮かないとはいえ、目に鮮やかな緑は一点だけで妙に目に付く。部屋を映したくないんだろうと思っていたけど、緑色の幕が揺れ、青空が見えた時にそれも違うという事に気づいた。

 じゃあ何だと言われても、そこまでは分からない。

 白いマスクを付けた、髪の短い、加えて薄い三十代くらいの男性だった。

 確か、韓国、って答えた人だった。

 強い照明が当たっているようで、反射が無いのは、よほど大きい照明器具を使っているからで、今考えたらそれは太陽だったわけだ。だからって、外ですかと聞いても仕方がないし、それを嫌だとは言えない。非会員に映像を見せているのでなければ、わりと場所の規定も無いのだし、聞かれて恥ずかしい話をしたり、メンバーが服を脱いだりしなきゃいいだけだ。

 撮影の裏話として、レレ子に騙されて往年のギャグをやった話をしながら。

 結局は、セクシー系芸人とか女性タレントの持ちネタだから、グラビアポーズではあったとも言えるけど、現役のグラビアでやるものじゃないだけだ。それも危うく台詞まで言わされそうになった。『いらなくなったペットボトルは、ここに放り込んでください!』って。

 誰にどこを向けて何を言ってるんだって話。

 その間も、悩みに悩んだ末に行けても行けなくてもって口調で韓国と答えた男性は、無言で画面を見つめていた。韓国も、たぶんファッションの話をした事があるから、それに寄せて来ただけだろう。藤色のタオルを肩に掛け、花びらが散っているTシャツを着ているからファンだとは思うんだけど、あまりに静かすぎて、どういう対応を取ればいいか分からない。

 急に韓国の人が声を発したのは、無しの人に書くメッセージを考えてる時だった。

「あの!」と、空気が割れるような声が耳に叩き付けられた。

 光ったのは背景が緑色の、韓国の人、ユーザーネームはサトル・ミューティレーション。

 これは危ないと、直感的に思った。「今誰か喋りました? まだ何かご不満ですか?」

「あの!」と韓国の人が言う。「この前男と一緒に歩いてた!」

「ん?」無視するか、否か。「マネージャーさんの話かな。ダイモンさん?」

「違う!」と韓国の人が言う。「大阪から帰って来た次の火曜日。オフだった日!」

「あ、ああ、あーそう。火曜、出掛けたかも。うちね、兄が居るんですよ。年の離れた」

「たしか二十五歳でしたよね?」もしかしたら、みたいな口調でチリが言う。

 その隣のウィンドウで韓国の人が何か喚き続けている。

「大正解なんだけど、こわ。どこかで言ったっけ?」

「言ってました」

「言ったか、ごめん。こわくないです、むしろかわいいよ」

「お、お前の方……」

「いや! 兄妹じゃない、そんな雰囲気じゃなかった」と韓国が言う。「やっぱりだ、お前らは騙されてる。こいつはファンが大切だとか言って、裏では男と付き合ってるんだ。そうやっていつもいつもいつも人のこと騙して、裏で男と一緒におれらの事を見て笑ってるんだ」

 口角に泡を弾けさせながら、韓国の人がカメラを揺らして叫んでいる。

 ここで急に、実兄やマネージャーをアウトとするのか、って聞くのはさすがに怖いか。

 扱いかねていた所に、テーブルの下から手が伸びて来て、マウスを操作し始めた。

 ホスト権限で音量が下げられ、韓国の人の画面が光ってるのに、声が聴こえなくなる。安堵した他の人の様子を見るに、全体に聴こえなくなったようだった。そして肉声を耳で聴いている本人だけは、いつまでも叫び続けていた。今まで黙っていた無しの人が口を開く。

「こういう時に対応が遅いのも運営に不信感を持たれる原因じゃないんかねえ」

「カノン、この人も」

 テーブルの下を潜って来たカノンは、カメラに映らないように横に動き、口の動きで、自分でやって、と言って、そのまま反対側に戻ってしまった。誰かが「カノンちゃーん、聴こえてるー?」と調子に乗って呼び掛け、画面外で無視されていた。また膝の頭だけが見える。

「向こうで頷いてますね」と言う。「さて、次はアラスカに行きたい人ですね」

 つまり北国に住んでいる人が、氷を当てられたように過敏に反応する。

「じゃあこの、中くらいのサイズのやつを。メッセージは、何かご希望は?」

 彼が首を振るので、当たり障りない事を書いておく。

「中くらいのやつ、確かレレ子が作ったんですけど」喋りながら、ペンを動かしながら、音の消えたウィンドウにも目をやる。ふと、目がすれ違う。お互いがカメラではなく画面を見ているからで、つまり目が合ったとも言える。「他の二人が先にやったの見てから、なんとなく調整して、そういうずる賢いところが、ずるい……だから可愛いんですね。レレ子って」

 そういえば、食事の匂いも消え、音もしないので、仮眠なんか取ってるかもしれない。

「じゃ、あとで送りまーす。次は、……韓国に行きたい人か、あれ?」背景が青空になっていた。

 規則的に頭が揺れ、それに合わせて雲が動いている。ノートか、タブレットか、持ったまま歩いているようだった。彼はカメラに向かって何か言いながら、それを一旦地面に置いて、周囲の様子が映し出された。島式ホーム、と思ったのは、細長い足場に見えたからだ。

 ただし屋根は無く、四辺を囲むように縁が上がっていて、大きな箱のようだ。

 プール、でもない。

 当然、ベンチも自販機も電光掲示板も無いから、ホームでもない。

 空が近く見えるのは、建物の屋上だからで、どこかのビルかマンションらしい。

 きっとその場所について喋っているのだろうけど、音を戻すわけにもいかないし、戻し方もよく分かっていない。彼がまたカメラに何かを訴え、片手で彼の端末を持ったまま、もう一方の手を縁の部分に掛けた。カメラが大きく揺れ、傾き、彼の体が覆い被さるように映る。

「ど、どうしたんですか?」と聞き、ウィンドウを大きくするべき迷う。

 他の人達の反応からして、その人の画面も消してしまうべきだと思う。

 でも、何が起こるのかを、察しているからこそ、目を逸らす事が出来ない。

 いいか、と彼が言ったようだ、お前が、と何か捲し立てている。

 そして画面がひっくり返る。

 空が遠ざかり、勢いよく伸びる壁面には、なぜか見覚えがある。

 そして彼の姿が消えて無くなり、誰か分からない人が地面に叩き付けられ、画面いっぱいにノイズが広がって、そして赤い肉片や脳漿が飛び散り、地面が斜めに割り込んで来て、同時に画面は消えている。真っ黒で、そして無音だった。「……あ」と、何か言おうとして、声が出たのか、息を吐き尽くしたのか、急に苦しくなって何度も息を吸って、吸って、吸った。

 横を見ると、スマホを構えているレレ子が立っていて、なぜか笑っていた。


 大柴田理久、二十八歳。

 数カ月前に、徳丸スペースのエントランス周辺を徘徊している所を見られていて、そして唐突に消息を絶った。時期を同じくして、更に十数ヶ月前に姿を消した現場作業員が徳丸スペース上空から転落し、隣接するビルとの間の路地で、全身を強く打った状態で見付かった。しかし誰一人として、この二人の間でトラブルがあったなんて思いはしなかった。

 実際そんな事は微塵も無かったのだろうから。

 オンラインミーティングは、ほとんどの行程を終えたとはいえ、中途半端に終了となり、次週の打ち合わせの日に、同じメンバーで再度行う事が発表された。何人かは実質二回分の参加を喜びさえして、その中には無しの人も含まれていた。行きたい場所くらいは、何か決めておいて欲しい。次回は、乗りたい動物が無い人にでもなるのかな。

 警察がマンションの屋上と、隣のビルとの間にある路地を封鎖している。

 ベランダから見下ろすと、マンションの脇の方に、野次馬が集まっているのが見えた。

 転落した大柴田理久は既に運び出され、たぶん現場には彼を模ったロープかテープが張られている。ノートかタブレットも回収されただろうけど、それは大柴田理久の持ち物ではない。飛び降りた人物は、大柴田理久ではないからだ。危ない、と思って申し訳なかったけど、単純に本名がサトルだった。まあ危ない人物ではあったけど、その人は空中で消えていた。

 今回オンラインミーティングの最中に参加者の一人が不慮の事故に遭われました。

 それにより一部始終を目撃した早村聡瑠が精神的なショックで体調を崩しました。

「何も発表しないのも不自然ですけど」と社長は言った。「この件に関しては、大柴田理久とは特に関係がありませんし、その名前を外に漏らす事も出来ないので、困りましたね。とりあえず今日は休んで、明日様子を見て、体調が優れないなら心療内科にでも」

 そして明後日には遠征が始まるのだと思うと、弱るのもバカバカしい。

 大窓に背を預けて、手すりに切り取られた空を眺め、もう三十分が経っている。

 地上の喧騒も少しは落ち着いて、シャッター音もずいぶんと減ったようだ。

 ここで聴こえるのは、すぐ隣で撮影していたレレ子のスマホの音くらいだけど。

「結構、大事になりましたね」とレレ子が他人事のように言った。

「二人と揉めて一人が死んだって、どんなファンよ」

「前回はみんな優しかったですね。物食べてても許してくれました」

「それはやめなって」マシントラブル。

 肉片と脳漿のノイズ。

 野菜の潰れるような湿った音……。「ああぁ、うああもう、やめてって」

 レレ子が隣に腰を下ろし、肩に手を回して来る。豊満な花のような匂いがして、鋭い毛先が頬にちくちくと刺さる。「髪切った?」と聞くと、レレ子が頷き、頭を押し付けて来る。「いやいいって。いい匂いなの分かったから、あとちょっと生姜とニンニクの匂いする」

「食べて精を付けたいって事ですか?」

「いいからちょっと離れて」

「注文が多いですね。さっき同録撮ってる人が居たんですけど」とレレ子が言う。「本当は違反だけど、別に大した内容じゃないしどこかにアップロードもしてないんで、まあそれはいいんですけど、落下の瞬間も残ってて、見たんですよ。ああ別にグロい話とかじゃなくて」

 レレ子がスマホを操作してるので、反対の地面に目を落とし、サンダルを見る。

「隣のビルの壁面に、やっぱり誰か立ってたんですよ」

「それが今日落ちたファンの人の顔してた?」

「いえ、大柴田理久って人の特徴と一致するだけです。写真とかは無いんですけど。……地面に衝突する寸前の映像が大柴田理久って人なら、それと一致するんですけど」レレ子は、珍しい事にスマホを伏せて地面に置いた。言葉だけで怖がらせる自信があるらしい。レレ子が一語一語はっきりと言った。「空中で入れ替わったように見えました。写し取ったかな?」

「どういう事? 上から落ちると大柴田理久になるの?」

 レレ子の手がお腹の方にも回って来ると、それがお湯を流し込んだように温かく、内臓が溶かされていくような気がした。ほとんど密着するような格好で、レレ子の話からも逃れる事が出来ない。もっと、どうでもいい話をして欲しい。「変な肌触りの服着てますね」

「すぐ慣れるよ。……人が着てるのは気になるかもね」

 人が着てるのに、頬擦りするような距離で接する事なんて無いからだ。

「それで」とレレ子が耳元で囁く。「壁面にはたぶん、ファンの人が見えるんです」

「なにそれ。意味分かんない」

「隣のビルが、身投げした人をスタックして、一人ずつずらして落としてるんです」

「……マジで分かんないよ」

「そうとしか言いようがないんですけど」

 首筋に鼻の先が当たり、更に奥へ奥へ潜り込もうとしてくる。

「もう大丈夫だから。そんなにくっつかなくていいから」と言うと、レレ子は首を振る。

「そう言って、ダイモンさんは飛び降りようとしました。ちょっと見るだけだからって」

 そういえば、屋上に確かめに行った、って。

「引き寄せられてるの?」

「それは、ビル自体か、スタックされた人に、どっちか気になるって事ですか」

 そうは言ってない。

「分からないんですよ。でも中の人だったら、転落するのは確実なんですよね」

「そうまでして外に出たいから、って事?」

「それこそ、直接見に行った方が早いかと」

 悲鳴が上がった。何か、棒で打つような音に、他の悲鳴がいくつも重なった。

 やがてそれは喧騒になる。

「誰か落ちたみたいですね」とレレ子が言い、立って行こうとするのを引き止める。「ちょっと、見て来るだけでなんで。落ちないんで。あの、手を」握り締めた手首は、骨しかないように細くて、離れるか、でなければ折れるかしてしまいそうだ。一体何がそんなに温かいと感じたのか、訳が分からなくなる。すぐに引っ張る力は消え、レレ子はそこに立っている。

 戻って来たレレ子はすぐ隣に肩を並べて座り、スマホを手に取った。

「たぶん警察官だと思うけど、だとしたらさすがに大事ですね」

「ねえ、隣のビル取り壊した方がいいんじゃないの?」

「空中に捕まるわけじゃないなら、ですけど」レレ子はさっそく『徳丸 転落』で検索を始めていて、まだ何も引っ掛からない。数カ月前の記事が、辛うじて出て来ただけだ。「あれはあれで、あっても良くないですか。そのまま落ちるよりは。それより大丈夫ですか?」

「大丈夫だって。もう。寝たら治るから」

「そうじゃなくて、世を儚んで十代で身投げした少女を演じられるかって話」

「え、何その話?」

「再現VTR。まあ実際には飛ばないですよ、低い所からマットに飛ぶだけで」

「一緒だ。なんか、最高の演技してそのまま遺作になりそう」

「縁起でもない……あ、いえ。今のはさとぴが悪いやつなので」

 救急車の音が近付いて来て、ドップラー効果だ、ってなんとなく思う、学が無いから。

 赤色灯が下の方で回ってるようで、どこかに反射した赤色が一瞬目に触れた気がする。

 そろそろ部屋に戻ろうかなあって思った。

 屋上にでも行こうかなあって思わないから、大丈夫だと思った。

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