第7話 お母さんへ(水中)
ピンポン、という電子音より先に、ガコン、とボタンを叩く音が鳴る。
「おっと早い」カノンの反応もまた早く、そして指名をする。「赤のしょうくんが真っ先に押しました。答え、の前にしょうくん、一応ヒント見ますか?」しょうくんは司会席に鼻白んだ顔を向け、ゆっくりと眼鏡を上げながら、一応、と短く答える。「じゃあ二人、掛かれぃ!」
と言われても。
運営スタッフはスケブに「十秒ほど」としか書いて出してくれない。
何をか、書いてしまったら解答席からも丸見えだから、それは当然か。
「え、答えなに?」と小声で聞く。
「これ。言わないでね」カノンが台本を見せてくれ、そしてすぐに背中を押された。
疎らな客席の視線が集まって、良くない感じで面白がる空気を発散している。
後ろを見ると、解答席のしょうくんは、他の人が答えを思い付く可能性を全く気にしていない。確実に答えられるから、という自信が顔面に満ち溢れ、そのうえでヒントを見てやろうとしている。司会の他の二人は何で居るのか、と初めに聞いてきたのもしょうくんだ。
じゃあ動きだけでヒント出して貰おうか、って言ったのはカノンだった。
その指示を出したスタッフはさっき電話に出ながら会場外に消えていった。
「はい、まずレレ子ちゃんが大きな荷物を持って、ドアを……ゴミ出しかな。ふう、重いなーって、そこに話し掛けてくる人が、おっと、ゴミを投げ付けて逃げた。どうする、残ったゴミ袋を、そのまま持って帰ったあー。はい戻って戻って、二人。恥ずかしいから」
そう、恥ずかしいのだ。
司会席の横に着くと、早くも面倒臭そうにカノンが言う。「しょうくん、答えをどうぞ」すぐにレレ子が走っていって、しょうくんの顔の前にマイクを、まず自分で何かを言って、スイッチを入れて「どうぞ」と声を乗せてから、マイクを突き付けた。また切ってたのか。
しょうくんは少し疲れた顔で答える。「捨てがまり、です」
「正解。おめでとうございます、赤のしょうくんに四十ポイント入ります」
小さなファンファーレ。スクリーンに投影された画面で、歴史の四十点が赤くなる。
「うちらもそれが言いたかった」レレ子がこっそり言った。
「今答え見せたからね。それを何かも知らずにやっただけで」
「ちなみに」としょうくんが言いかけ、他の子達がすっと押し黙った。スタッフの人が拳を振り上げて頭の上で回している。
「ごめんね、しょうくん。時間が無いから次の問題に行きます」
しょうくんが露骨に俯いてしまったので「あとで楽屋で聞くよー」と心にもない事をカノンが付け足した。裏に呼び付けたって彼の承認欲求は満たされないのに。
「その前に」とカノンに言い、スケブを指差す。「ポイントを」
「あ、現在のポイントを見て行きます。まず赤のしょうくんが百七十点」
眼鏡を掛けた、やや小柄な少年がはにかむ。
「緑のじょういちくんが百二十点」とカノンが言い、ツーブロックの少年が手を挙げる。
「青のけいとくんが二十点」とカノンが言い、やや肉付きのいい少年が俯く。
「黄色のみこちゃんが百十点」とカノンが言い、ボブカットの女の子は無反応だ。
「というわけなんですが、これ順位としては、もう……」
そこにレレ子が割って入った。「最終問題は点数変わらないんですか」少し考え、スタッフの誰かに指を突き付ける。「正解者は持ち点二倍! とか」スタッフの男性が激しく首を振って抵抗した。
「それだとダブルスコア付かないように追い掛けてるだけで良くなるから」
「あ、さとぴが賢い。ヒントも出せないくせに」
「そうだけど、オンマイクで言う事じゃないでしょ」
静けさの中にちらほら、失笑が漏れた気配がした。
「あの、最終問題。いいですか」カノンの強引な軌道修正が入り、一瞬待って、カノンが進行に戻った。「じゃあ最後なのでわたしから、歴史の三十点。江戸時代の問題です。みなさん最後まで頑張ってくださいね。レレ子、括弧の中……ここだよ、仏の、から」
「えっと、仏の嘘をかた……え、方便といい? 武士の嘘を、なに……武略という?」
「はい。後に記録された談話の中で、ある戦国武将の名言として、この言葉を広めた江戸時代の医者であり儒学者でもある人物の名前はなんでしょう?」
既にしょうくんの右手が持ち上がりかけ、じょういちくんが横目で警戒している。
「あ、ヒントありまーす。みんなゆっくり考えてて大丈夫ですよ。よし、行け」
前に出ると、レレ子に肩を叩かれ、真ん中に座れと指示されるので、正座をした。
右耳の辺りで何か聴こえ、振り返ると誰も居ない。赤と緑の解答席が、スポットライトの中で薄く光っている。今度は左耳の辺りで何かが聴こえて、振り返ると誰も居ない。黄色い解答席の向こうに、青が見えるかもしれない。見たくなくて、すぐにぐるりと一周すると、再び客席に向かい、誰も見付からない。「あ、十秒経ちました。二人、戻れ」
立ち上がりながら、鼠のように逃げ去っていくレレ子の背中が目に入った。
「というわけで、答えが分かった人はボタンを押しても大丈夫ですよ」
司会席の横に立ち、もう一度答えを見る。
その上で解答席に目をやると、三人が三人、それなりに考えているか、誰かの不正解をヒントにしようと待ち構えているようだった。ただ一人、青のけいとくんだけは既に勝負を捨ててるようだった。ピロン、と音が鳴って、青い解答席の赤いランプが灯された。
マイクを持って青の解答席に向かう。
カノンが言う。「けいとくん、答えをどうぞ」
勝ち負けとか、点差とか関係ないから。
今だけは全力で答えて欲しいと思いながら、悪い意味で脱力した雰囲気を感じ、マイクを突き付けたまま視線を客席の方へ背けてしまった。家族とか、来てるのかなって考えてはいけない。「杉田玄白」と、けいとくんが答え、不正解のブザー音が鳴った。
「違います」とカノンが言う。「えーっと、杉田玄白もお医者さんではあるけど、もう少し後の時代の人みたいですね。へえ、解体新書を翻訳した、蘭学者だそうです。あ、ここでヒントが出ました。京都の医者で、加藤清正に仕えた事もあるそうです」
ヒントが出ても、だったらこの人だ、とはならなかった。
「誰か、出ませんか。このままだと時間切れに」カノンが運営スタッフを見る。スケブには負けとか伸ばせとか滅茶苦茶な事が書かれている。「ちなみに、仏の嘘を、っていう名言が誰の物か、これも分かったら点数あげますか。どのくらいだろう」
「十五点」とレレ子が言う。
「じゃあ、それで」ピロン、赤の解答席。「しょうくん、答えをどうぞ」
レレ子がマイクを突き付ける。「織田信長?」
「惜しい」続けて、緑の解答席。「じょういちくん、答えは?」
「明智光秀?」
少し待って正解のファンファーレが小さく鳴った。
「正解です、十五点入って、緑のじょういちくんが百三十五点で、現在二位!」カノンがマイクを持ったまま器用に拍手をすると、客席からなんとなく拍手が起こる。それは、レレ子がマイクを叩いて変な音が反響するまで、短く続いた。「という事で、残念ですがここで時間切れになります。正解は江村専斎でした。……さっきのヒントどういう事?」
レレ子が慌ててマイクを持ち、こっちに突き出す。
「え、専斎だから、繊細な人?」っていう事だと、今気付いたけど。
「……はい。では全ての問題が終了しまして、点数は赤が百七十点。緑が百三十五点。黄色が百十点。青が二十点で、優勝は赤のしょうくんです。おめでとうございまーす」なんか流されたと思ったら、スタッフから安っぽいメダルと、副賞のマスクメロンを持たされた。
客席から拍手が沸き起こり、レレ子が「いえーい」と弱々しく手を振り上げる。
「優勝したしょうくんは前に出て来てください」
ステージの真ん中で、レレ子はしょうくんの背後に立ち、脇の下に手を入れた。
「よいしょぉ……」と震え上がるような声を出し、レレ子がどんどん小さくなった。
「いいよ、持ち上げなくて。あ、メダルをどうぞ。それと副賞のメロンです。優勝した今の気持ちは?」メダルを首に掛け、メロンを手渡している間に、レレ子のマイクがしょうくんの口元に押し付けられた。「あ、メロンもし重かったら、このお姉さんが持ってるから」
「え、無理」誰も何も持ててない。
「あ、あの、最後の問題をちゃんと答えたかった、です」としょうくんが言った。
お母さんらしい人がステージの下に来てしょうくんに呼び掛け、こちらに手を差し出して来たので、メロンを下に置いた。「あの人お母さん?」と聞くと、しょうくんは恥ずかしそうに小さく頷いた。メロンを受け取ったお母さんが深々と頭を下げる。
「柏の日、子供クイズ大会は以上で終了となります。参加者のみなさんも、ご来場いただいたみなさんも本当にありがとうございました。次は高齢者の部となりますので、出場される方は十五時二十五分までにまたこの会場に集まってください。司会進行は加賀崎海音と」
急にマイクを手渡され、慌てて「早村聡瑠と」と名前だけ言っていた。
カノンに返すと、そのまま「隈田麗々子の三人が勤めました」と続ける。「わたしたち、チェリーウィークエンドブロッサムガールズは、この後十四時十分から屋外ステージの音楽フェスに出演します。もし良かったらそちらもご覧ください。それでは、また」
出場者達がステージから降りるのを見送り、それから、レレ子を先頭に三人で舞台袖に捌けて行くと、ダイモンがすぐに外へ向かって歩き出した。水を取り、歩きながら蓋を開け、会場から出るとおじさんが立っている。「あの、ファンです。良かったらサインを」と言って、着ていた無地の青Tシャツの裾を持って前に伸ばして来た。
ダイモンが遮る。「すいません、次の出番が迫っているので」
屋外ステージの近くまで来た時に、レレ子が遅れている事に気付いた。
遅れて姿を現したレレ子が言う。「サイン、三人分書いて来たので」
「何してんの、はぐれたかと思った」
「青シャツに黒ペンなんて全然字が見えなくて面白いじゃないですか」
なるほど、何も考えてないんだ。
ステージ上では聞いた事もないMCの人が観客を温めていて、意外な事に、芝生の上に立ち見の観客でライブはほぼ満員状態だった。疲れもあり、ついダイモンに「なんでクイズ大会なんか入れたんですか」と聞いていた。「リハと本番と行ったり来たりで大変だし、走ってるところ色んな人に見られてるし、クイズだって。正直あんまり頭良くないのに」
「何でも何も、先に入ってたんだ、クイズ大会の司会が。ライブの方は前座の枠が急に空いたって聞いたから、やらせて貰えないか頼んだんだよ。言っとくけど、地元の演歌歌手とか、カバーしかしてないバンドとか、合唱サークルとか、そういう感じのライブだからな」
「それはいいんですけど、ライブの持ち時間どのくらいって言ってました?」
「十五分だ。二曲やるから、途中いい感じに繋いでくれ」
「いい感じって……なんか、戦国武将の逸話とか喋るかもしれないですけど」
柏の日。
柏川町にある、かしわスポーツ振興センターの敷地全てを利用した、複数日に亘って開催されるイベントで、フリーマーケットや、音楽ライブ、クイズ大会、縁日の屋台、スポーツイベントや、講演会、ワークショップなど、なんでも行われる一大イベントだ。
それは残暑の厳しい秋口に、わざわざ関東に戻って来る理由にもなる。
開場前の早朝にリハーサルが行われ、午前中は少しだけイベントを見て回り、それから衣装に着替えて、そこでやっとカノンが目を覚ました。寝起きで押し付けられたにしては、司会進行は結構出来てたけど、肝心のライブまで気力が持たないのは大誤算だった。
体力ではなく気力が。
イベントの大半が終わり、来場客も減り、会場内は少し落ち着いている。
花火が上がるのを待ったり、屋台の片付けを手伝ったりしている人が居るくらいで、小さな子供連れの家族や、子供だけの集団はほとんど帰ってしまっただろう。夜のイベントは、最終日の花火以外はほとんど何もない。花火も、数発だけ、合図のように上がるだけだ。
その特等席は、陸上競技場の客席で、ちらほらカップルがイチャついている。
陸上競技場の選手控え室に戻って、着替えもせずにダラダラしていると、ダイモンが電話を受けて出て行った。いよいよ誰も何も言わなくなって、空気が重くなる。テレビもない簡素な部屋の中には、誰かの汗と埃の臭いが充満し、空気は乾いていて温かかった。
ふと思い立って「トイレ行こうかな」と呟き、立ち上がり、周りを見る。
カノンは机に突っ伏して眠っていて、パイプ椅子を後ろに傾けていたレレ子は、スマホから目を上げて「一人で行ってくればいいじゃないですか」と鬱陶しそうに言った。ステージ用の濃いメイクもまだ落とさず、やけに目の周りがキラキラしている。
「別に、一緒に来いって言うんじゃないけど、誰かしたくないかなって」
「あんな遠いトイレに?」レレ子が冷静に言う。「ここでするって言うならお供しますが」
「ここで?」
「なんと洗面台もある」
「行って来るね」と言い残し、通路に出てから衣装のままだと気づいた。まあいいか。
通路は右も左も、楕円形の競技場に沿って緩やかに曲がり、突き当たりが見えない。明かりは付いているけど、その途中で光も途切れてしまっている。トイレの前まで来ると、ドアの前に小学生の女の子が立っているのが見えた。青いチェック柄のワンピースを着ている。
髪が長く、腰に達し、そこだけが浮いている。
こちらを向くと、感情の無い目に光が宿って、表情が獰猛なまでに明るくなる。
クイズ大会に出てた子……じゃない、みこちゃんはもっとなんか、秀才風だ。
「トイレ入ってもいいかな」って聞きながら、さっさとドアを開けて滑り込んだ。個室は右に二つと、左に三つ。もう一つのドアは掃除用具入れで、手洗い場は三面。とりあえず一番手前の個室で用を済ませ、手を洗って出ると、女の子はトイレの前から居なくなっていた。
迷子じゃないなら、いいか。振興センターも、迷うほど広い施設じゃない。
選手控え室に戻る途中、今度は小学生の男の子を見かけた。
高学年くらいの年格好で、肉付きがよく、どちらかと言えばぽっちゃりしている。
ドアの前をウロウロしながら、たまに横目で室内を窺ったり、そこで足を止めたりして、こっちに気づく様子も無かった。近付いて、肩を叩いてみる。解答権を与えるように、彼は激しい声を発し、激しく飛び上がった。「びっくりした、けいとくん?」
青の解答席に座っていた、港口系斗くんだ。
弓なりに細く、鋭い視線が真下から探るようにこちらを見てくる。
「どうしたの、こんな所で」と聞いても、何も答えない。「迷っちゃったのかな。そういえばさっきも、廊下に女の子が……」と、ふとレレ子の顔を思い出す。レレ子だったら、あの女の子を何と言うだろう。「居たような、居ないような気がしたんだけど気のせいかも」
「別になんでもない」とけいとくんが不貞腐れたように言う。
「そう。さっきは残念だったね。早押しって慣れが重要みたいだから」
実際、早押しと言いながら、個別のボタンを目視で確認していただけだ。
内部的に一番目の操作のみを反映するような、たぶんテレビ番組とかでやってるような機能は何も無かった。大会中も、赤や黄色に続いて青の解答席が光ったなら、運営スタッフも特に青を指す事は無かった。優先されたところで優勝争いには食い込めなかっただろうけど。
「あの」とけいとくんが小声で言う。「さっき、優勝した人を持ち上げようとしてて」
「あ、レレ子がね。小さいくせに危ない事するから、あいつ」
「あの」とまた呼び掛け、こちらを見つめる。黙って、何かを問おうとしている。
「あ、名前? 早村です、さっきも言ったけど。サイン欲しいのかな」
「あの、早村さんだったら、持ち上げられたんですか?」
「無理じゃないかな」即答すると、けいとくんはひどく怯えた顔をする。「だって体重、小五か小六? くらいだと五十キロ近くあるよね。レレ子よりちょっと重いくらいだから、さすがに腕の力だけで持ち上げた事はないよ?」拳をグッと上げ、細腕を見せ付ける。
「ちょっと」といきなりドアの内側から冷たい声が飛んで来て、けいとくんと一緒に驚いてしまった。レレ子が顔を覗かせ、けいとくんに目を向けた。「なんで勝手に人の体重バラしてるんですか。しかも五十キロもないし。この子五年生だから、四十キロ前後では?」
けいとくんを見ると、こちらを見て、ほんの僅かに首を縦に振る。
「この子持ち上がるかな?」レレ子に聞いてみる。
「やってみたらいいじゃないですか」興味無さそうな口調で、レレ子が言う。
後ろに回って「ごめんね、脇の下に」手を入れてみると、まるでそれは岩のようだ。
あとはもう、抱きかかえるしかない。もっと体に引き寄せ、ほとんどお腹に乗せるようにして、やっと彼の踵が浮いた。と思ったら、次の瞬間にはずるずると滑り落ちて行った。諦めて手を放すと、けいとくんは腰を引き、ズボンを前に引っ張って寛げていた。
「あ、ごめん。変な所食い込んじゃった?」
男子はどこでも、時に大袈裟に、時に面白がって、その痛みを語り合っている。
腰の奥まで入って来る、と言っていた。思い出しながら、見様見真似で目の前にあるけいとくんの腰をとんとんしてやっていると、レレ子がうんざりした様子で、一連の出来事を眺めていた。「変な事してないで、それよりちょっと面白い話があるんですけど」
「絶対面白くなさそう」手を止めて、けいとくんの顔色を窺う。「大丈夫?」
けいとくんは首を振り、急に走り去ってしまった。
「体擦り付けて、いやらしい」とレレ子が吐き捨てる。そんなんじゃないんだけど。
でもそうだったんだけど、何か、少年のささやかな成長を妨げてしまったのだろうか。
トイレの怪談も、水子霊の怪談も、全国に似たような内容の物がある。
似たような内容の物は柏川町にもある。
ライク柏川店の、五階の女子トイレ最奥の個室で、用を足していると誰かがドアをノックする。ノックを返すと「お母さん?」と呼び掛けられる。幼い女の子の声だ。ここでドアの下の隙間を覗いてはいけない。水に浸かりすぎ、ふやけた青白い爪先が見えたところで、どうにもならないからだ。「お母さん、開けて」と言われても、開けてはいけない。
声と、ノックは次第に激しくなり、不意に聴こえなくなる。
そうしたら、今度はすぐに立ち去らなければならない。
次は便器の中から「お母さん?」と呼び掛けられる、気がする。
やがて水から何かが生えて、恐怖で動けなくなった女性の体の秘部に触れ、ずぶり、ずぶりと音を立てながら体内に潜り込んで来る。親指と中指で、輪っかを作ったくらいの太さ。目一杯伸ばしたくらいの長さは、ちょうど赤ん坊の腕のようだった。とても冷たく、ふにゃふにゃしていて、気を抜くと抜け落ちてしまいそうだ。下腹部痛に耐えながら、ようやく個室を抜け出すと、床のタイルには小さな足のような濡れた跡が廊下に向かって続いていた。
「体内にって、どんな風に入って来るの?」真実を言って欲しくなくて、逆に聞く。
レレ子は目を丸くして「それは、女の人の、そういう……」と口の中で言葉を濁した。
面倒な事に、これは言わないと終わらないのでは。
どっちにしても、っていう二つ……「産道みたいな事?」
「かもしれないけど、そこは……そんなに重要じゃないかもしれないので」
それから、そのトイレには母親を探して彷徨う女の子の幽霊が出るという噂が流れた。
名前は夕方の羽根と書いて夕羽。「なんか現代的、花子さんとかじゃなくて?」
「なんで花子かも、別に意味は無いかもしれないし、それこそカシマレイコとか居るし」
「誰それ。なんか……レレ子に名前似てるね」
「そんな、良いように言われても」肩を竦め、もじもじと体を揺らしている。
なんかキモいなと思った。
頬に手を当てて、表情を解してから、レレ子は再び夕羽の怪談を語り始める。
その噂は、実際に死んだ赤ん坊が居るから、広まったのではないかという話だった。
「トイレに産み捨てる事件、たまにニュースでやってるじゃないですか?」
「まあ、言われたら見た事あるような気も。全部怪談になってるの?」
「新しく派生するっていうのは珍しいかも。やっぱり他人事ではあるので」
それは恐らく、まだ学生か、若い女性が望まない妊娠をしてしまい、家族にも、学校にも相談は出来ず、友人や行政は尚更遠くに見えて、唯一頼みの相手の男性は、どうせ姿を消してしまって、自分でどうにかするしか無くなった。つまりどうもしない事にした。
体調が目まぐるしく変わり、体型にもそれが表れる頃、いよいよ決断を迫られた。
一つは、取り返しの付かない所でも周りに打ち明けて助けてもらう。
もう一つは、取り返しの付かない事をして全て無かった事にしてしまう。
既に尊い命を一つ、犠牲にしたような感覚が、彼女の判断を鈍らせたのかもしれない。
見えない何かに追い詰められ、研ぎ澄まされた空白に抉られて、彼女の現実と虚構の境目は引き裂かれてしまった。何もしたくない、だから。殺そう、とか。消そう、とか。そういう言い方は絶対にしない。彼女はただ、どうやって隠そう、とばかり考えていた。
服装でごまかせる限界まで。
不調でごまかせる限界まで、考え続けるつもりだった。
しかしその別れは唐突だった。不安で眠れない日々が続き、食欲も失せ、腹は膨れるのに痩せていった。ある日、あるデパートの中を彷徨い、誰とも会わないようにしながら、体型を隠せるような服を吟味していると、腹痛に襲われた。
トイレに駆け込んだ彼女は、いつもの下痢か、下血かもよく分からないまま、半ば気を失いかけ、気づいた時には全てを失っていた。人の来ない、上階の隅のトイレを使ってせいで、閉店間際まで誰にも見付からなかった。彼女は水を流し、水を流し、水を流した。何が流れないのかを見たくもなかった。目眩を感じながら、トイレから急いで駈け出した。
なんて事が本当にあったのかは誰も知らない。
「その個室が、ライク柏川店の五階にあるトイレの、一番奥の個室なのでは、という」
「なんか、それだとただ悲しいだけの話に聞こえるけど」
「ままま、まあ得てしてね。花子さんだって、人間に良くしてくれる場合でも、不慮の事故で亡くなった少女の悪霊、っていうのは変わらないように」そう言って、スマホをテーブルに置いたレレ子の肩から力が抜けて、スポーツドリンクを一口、そしてまた口を開いた。「もう一つ怖い話があって、ライク柏川店って四階までしか無いらしいんですけど」
「それは、地下から数えたら五階とかって事?」
レレ子が首を振る。「地下も無くて、屋上階にも、トイレは無いんですよ」
「調べたんだ。じゃあ、何の五階? それ全部創作なの?」
「創作って、そんな身も蓋もない事言うもんじゃないですよ」諭されるような言い方に、うっすらと腹が立つ。レレ子はスマホに指を置き、言う。「いくつかの怪談が混じったんじゃないかって説もあって。たとえば口裂け女とかも、有名なのはポマードだけど、地域とか時期が違ったら色々な呪文やアイテムが出て来るじゃないですか」
「その一個目も知らないんだけどね、あるんだ、そういうのが」
「はい。帰りに寄れたら良かったんですけどね、ライク」と残念そうにレレ子は言うが、怪談を調べる為だけに行くもんじゃない。この後は、夜までに東京へ戻り、各自が家に帰って、翌々日からはまた関西の方に遠征に向かう、という予定だったはずだ。
そろそろ着替えようかと思い、立ち上がると、ふとドアの所に何かが通り掛かる。
チェック柄のワンピースの、裾が網を投げるようにふわりと揺れた。
長い黒髪が遅れて靡くと、それはスローモーションのように長く残った。
選手控え室は、ドアがない。
四角い戸口から中に入ると、左側の壁一面がロッカーで、中央にテーブルが二脚、反対側に洗面台、奥には横になれる長ベンチと、間仕切りがあって、そこが着替えスペースになっていた。ロッカーの鍵はダイモンが全て開けていき、荷物はテーブルに出されている。
女の子は控え室を覗き込むと、石のようだった表情が急に溶け出して、目と口を大きく開いた女の子が「ママ」と不安そうな声で言う。レレ子は戸口を一瞥し、またスマホに戻った。カノンは机に突っ伏したままだ。仕方ないので、立って応対しに行く事にした。
その脇をすり抜け、女の子はテーブルの側へ駆け寄った。
眠っているカノンの肩に両手を置き、カノンの体を激しく揺さぶり始めた。
「ママ、ママ起きて」子供らしくない、妙に抑えたような声だ。「早く帰ろうよ」
レレ子がこちらを見ている。首を傾げて、テーブルに近付くのもなんか気味が悪いので、離れた所から様子を見ていた。カノンは起きる様子が無く、レレ子が痺れを切らして「さっきから起きてるカノンさん」と呼び掛ける。「娘さんが来てますよ?」
カノンの動きが、不自然なくらい硬直した。
ねえ、ママ、起きて、何で帰らないの、ママ、寝てないで、帰ろうよ、ねえ起きて。
カノンが肩を揺らし、女の子の手を払った。
如何にも今目覚めたかのような仕草で、目を固く閉じ、擦り、腕を目一杯に伸ばして、喉の辺りで唸るような音を鳴らした。軽い溜め息。頭を振って前髪を払い除けると、時計、それから隈田、早村、女の子の順番に目を動かして、途端に億劫そうに目を細めた。
「おはよう」と言ってやる。「その子誰?」
「知らないのよ」とカノンが言った。
ほとんど耳元で「ママ、起きた」と囁き、女の子はカノンの腕に抱き着いた。
パイプ椅子の上にカノンが、その膝の上に女の子が座って四つの足が重なった。
女の子はエナメル靴に白い踝ソックスを履いて、足首は骨のように細い。
脹脛も、傘のように広がる服の裾の下で、二本でも頼りなく見えるほどだった。
青いチェック柄のワンピース。
白地に青い線が、太いのと、細いのは二本ずつ、縦横に交差していて、その交わる所が濃いのか、交わらない所が特に薄いのか、よく分からなかった。Aラインのシルエット。腰の辺りは更に細く、お腹の前に回されたカノンの腕を、女の子が両手で触って確かめている。
身長はレレ子と同じくらいで、小学生にしては高い方だった。
それで肩も、腕も、胴回りも異様に細いせいで、余計に大人びて見える。
老け込んでいるようにも見えるかもしれない。
アクセサリーの類は何も無く、爪も短く、髪留めや髪飾りも付けていない。
腰まである黒い髪は、前髪を左右に分けた以外は、そのまま垂らされている。
幼い顔立ちは、すっぴんの甘ったるい丸みを帯びた顔立ちで、眉がひどく薄い。
上唇が厚く、その先を尖らせているとまるで、好奇心だけで動く生き物みたいで、その扱いにくさも慮られるけれど、それでもカノンと居ると、まるで母と娘のようだった。出来るだけ顔を離して、カノンは「懐かしい匂いがする」と女の子を評し、口を尖らせた。
女の子の方は、母を見つけて満足したらしく、もう何も言って来ない。
「十歳くらいに見えるけど、カノンが十歳の時に出来た子?」
「出来るわけないでしょ、十歳の時なんて、こんなだよ」とまさに膝の上の女の子を指し、この腹が膨れるように見えるかと、もっともらしい反論を呈した。カノンのくせに。「自分が小四の頃なんて、そういう事全然……分かってなくて」
「じゃあ、カノンが本当は今三十歳くらいだったって事になるけど」と言う。
カノンに三白眼で睨まれる。「じゃあさとぴは本当は二十五くらい?」
「い、一番嫌なとこ言う」数年後、まだ同じ仕事をやってたら、と考える事はある。
もう何年も引き篭もってて、それからこういう仕事を選んでたとしたら、と考える。
ちょっとの違いで、何もかも上手く行ってなかったような気もするけど、今が上手く行ってる状態だとも言い切れない。
それこそカノンならもっと有名なグループにだって入れたかもしれないのに。
「ねえ、ママ」と女の子が言い、首だけ振り返って聞く。「わたし、何歳?」
「知らないんだけど、え? さとぴ知ってる?」
「何歳?」と女の子がカノンにだけ答えて貰おうと聞く。
「十歳くらいじゃないの」と言ってやると、カノンが十歳と答え、女の子は前を向いた。
適当に答えてみたけど、正解だったのだろうか。
正解したからって、本当のママはこっちだった、って乗り換えて来られても困るけど。
配点も十点くらいだろう。もっと夏の思い出とか、そういう……。
「そうだ名前って……あるのかな、あるか。カノン?」
「なんでこっちに聞くのよ。はあ」と溜め息、横から覗き込み、聞く。「名前は?」
「ユウハでしょ!」何で知らないのか、と女の子が語気で非難してきた。
「らしいです。そんな名前の親戚とか知り合いは居ないけど、誰か居る人ー?」
「知りませーん」レレ子が答える。
「ウチも居ないな。ユウハか」いや、夕羽か……「苗字は?」
「苗字は?」とカノンが聞き直すと、やっとユウハが答える。「森野ユウハ」
「お姉さんはね、加賀崎。森野じゃなくて」
途端に女の子が眉を歪ませて「ママじゃないの?」と不安そうに湿った声を出した。
「さっきからそう言ってるよ。だってまだ二十一だし、産んだ覚えも無いんだから」
カノンは、泣き落としが通じるような、まともな人間じゃなかった。女の子は膝の上に横向きに座って、あの自転車の荷台に乗せて貰う時のような、そしてカノンの腰に抱き着いた。まさぐるように鼻先を動かしているのは、胸の辺りに顔を埋めたいらしい。
カノンは顔を仰け反らせ、女の子の、額の辺りを手で押さえ付けた。
そういえばカノン、不安になると寄って来るくせに過度なスキンシップを嫌うんだった。
テーブルの反対に回り、スマホに目を落としていたレレ子に尋ねる。「ユウハって名前」
「さっき話してた怪談の事ですか?」顔も上げずに答え、レレ子が柏川町のマップを縮小して別のピンに飛んだ。「廊下で聞いてたのか、柏川で有名な話だから知ってたのか。どっちかだとは思うけど、とにかくカノンはからかわれてるだけなのでは、っていう見解」
「それにしても、なんか。しつこくない?」
「子供ってそういうものですよ。あれ歌って、踊ってみせて、一緒にやろう、って」
「なんか、あったんだ。レレ子がちゃんと叔母さんしてるのって意外」
「従姉妹のお姉さんを!」強調して、レレ子が指摘する。「してるだけですけども」
そこに大きな違いはあるのか、……なくはないか。
なんかしっくり来ないけど、結局レレ子の関心があるかないかが、全ての決定権を握っているだけだったりする。何もしないなら何もしない。森野ユウハも、飽きれば帰るだろうし、そのうち親が探しに来るかもしれない。ダイモンが戻ったら聞いておこう、と考えて。
ちょうどダイモンが戻って、戸口に身を隠しながらカノンの方を窺っていた。
「どうしたんだ」とダイモンが言う。「その子供。お前らまだ着替えてないのか」
「迷子か何か、知らないけど、カノンから離れないんです。すいません」
「そうか、その」と女の子を見て、それから縋るような目が戻って来る。「迷子が居るって運営の人に伝えて来ればいいのか。ワンピース、長い髪、十歳くらい、名前は?」
「森野ユウハ、って言ってましたけど」
「けど、何だ。子供が名前言って疑うような理由もないだろう」
レレ子を見ると、怪談の話をしてやろうかという、やらしい顔をしている。
「カノンの事、ママって言ってふざけてるから、名前とかも怪しいかも」と急いで伝え、立ち上がってダイモンの背中を廊下に押しやった。「ここに居させておくんで、早く聞いて来てください」と言って、そろそろ尻を蹴飛ばす寸前のところで、ダイモンは困惑しながらも歩き出し、止まった。何か、構って欲しそうにも見える顔に少しイラッとする。
「着替えも済ませとけよ。そろそろ出る時間だから」
「分かってます、二人にも言っときます。早く行って」
ダイモンは通路の途中で二度、三度と振り返り、やっと通路のカーブに消えていった。
さて、と室内に目を向けても、カノンとユウハが椅子の上で揉み合いになり、向こうではレレ子が地図アプリと睨み合っていて、収集の付けようがない。とりあえず着替えをしようと思って、カバンから服を出した。シャワーもあれば良かったのだけど、鍵を借りないといけないし、お湯を出すのにも別の申請がいるし、挙句カメラとか仕掛けられてたら困るし。
着替えスペースに行こうとすると、レレ子もカバンを漁っているのが見えた。「ごめん、先使っていい?」と聞くと、レレ子は四角い小袋を見せてきた。
真ん中にマスカットの写真が刷られ、果汁百パーセントと書かれた白いパッケージ。
「グミ。欲しかったら三つか四つどうぞ」
「いい。そんないっぱいは申し訳ないって」
「あ、グミたべたい!」とユウハが膝の上からテーブルの反対まで手を伸ばそうとする。
全然届いていないし、レレ子もまるで近付こうとしない。
椅子から転げ落ちそうになりながら「一個でいいからあげて」とカノンが言う。
とりあえず、着替えようかな。
顔を洗い、ブラウスとジーンズに着替え、衣装をテーブルの上で畳んでいると、カノンが腰に掴まっているユウハを引き摺りながら近付いてくる。「さとぴ、助けて」と言い、肘を使ってユウハの顔を押し退けた。その下から、ママ、ママ、ってユウハが呼び続ける。
「結構仲良さそうにしてるじゃん、母娘みたい、母娘」
「してないって、こんな」と、少し黙る。言外の口汚さを想像させる時間が流れ、カノンが声を潜めて言う。「大体この子、同じ名前なんでしょ、あの、話と」
あ、やっぱ聞いてたんだ。「レレ子が、その話廊下で聞いてたんじゃないかって」
「ねえ、本当に森野ユウハって名前なの?」
カノンが問い掛けると、ユウハの顔からスーッと表情が消え、首を落とす勢いで頷く。
「だそうです」とカノンが呆れ顔で言う。「森野って、さとぴ誰か心当たりない?」
「この辺って来たの初めてだし、知り合いとかも全然、ファンの人だって……」
「ほとんど都内住みだよね。北海道来て欲しいって人は、前に手紙貰ったけど」
北海道行くの、って飛び付いて来たユウハを跳ね除け、カノンが舌打ちをした。
「それDMじゃなくて?」
「ちゃんと便箋に、会いたい会いたい会いたい会いたい会いたいー、って五枚くらい」
「……すごいね。でも北海道なんて、ダイモンが聞いたら道内一周するとか言い出しそう」
「楽しそうじゃん。北海道、遠征」
旅行って言いかけてたし、聴こえかけてた。危ない危ない、仕事の話だった。
「ほとんど移動になりそう。寒い中、しかも運転一人じゃ危ないから、誰か他に」
「じゃあ免許取る所から、動画にして上げればいいんじゃない?」
「カノン持ってないっけ?」
「え、……ううん、失効失効」
「まあ、ずっと四人だけってわけにもいかないか」
何の他意もなく、いやあるとすればダイモンのフッ軽に対する不満だけど、ただただ今の人数を口にしただけなのに、カノンがユウハを見下ろし、露骨に機嫌を損ねた様子で、長く長く深い溜め息をついた。「ママ、ユウハの事、置いてかないでね」とユウハが言う。途端に悲痛に顔を歪め、カノンに全身で縋り付いている。「あんな暗い所、いやだよ、怖い。やだ、怖いよ。苦しいよ。なんで、一人にしないで。ママ!」
「暗いんだってさ」
「さとぴ! もう無理!」
無理な物をなんとかするのも無理。
見てない内に何かしたかもしれないけど、やっと衣装を仕舞い終えたところで、レレ子が横から近付いて来た。四つ折りにしたティッシュの真ん中に緑色の丸い粒を置きながら「ちょっと訂正したい事がありまして」と言って、レレ子がスマホの画面を見せてきた。
こっちの子供は着替えもせずに何をしてたんだろう。
「意味なんて無いって、さっきは言ったと思うんですけど」
「何の意味?」画面には地図アプリが映っている。「何の地図?」
「ライク柏川以外に、どんなトイレで夕羽の怪談があったかまとめたんです」
「いくつかあるの?」
「先に怖い場所があって、そこに怪談が生まれて、最後に花子さんが招致されるように」
招致は……、招待とか、招聘みたいな事かな。招集でもいい。
地図上のピンは、二つがライク柏川を示していた。かしわスポーツ振興センターにも刺さっていた。町内の小学校や、中学校にも刺さっていて、そして公園や駅など、トイレがある施設のほとんどに刺さっていた。総合病院にも刺さっていた。「それがなに?」
「隣接する市町にも刺さってます。ま、それはいいとして。ここ」とレレ子が指したのは、総合病院だ。「病院にだって怪談はあります。霊安室とか、地下の実験室とか。亡くなる人も居るわけだし、それ自体はおかしい事では無いんですけれども」
「産み捨てたって事件が起こったのが、病院なら助かる可能性もあった?」
「もう一つ」と言いながら、袖を抓まれ、ロッカーの方に引っ張られる。「気になったのが、元になる事件があったとして、それが報道されてないか調べようと思って、名前を入れてみたんです。夕羽だと当然怪談が出て来るけど、森野夕羽だとどうなるかって」
「森野って、あの子が言ってるだけじゃなくて?」
「それが何も出て来なくて」
それが、何を意味しているんだろう。
目の前のロッカーは、ここに来た時から、一度も開けられていない。
赤ん坊の泣き声が、聴こえて来たらどうしようと、急に不安に襲われる。
「トイレに産み捨てた事件が元になってるっていうのが、そもそも勘違いでして」
「というと?」聞きながら、カノンとユウハの方が気になって仕方ない。
「産むつもりで入院してたけど、何らかの理由で、流れてしまって。って事なら、事件性までは無いし、医療ミスでもなければ、報道される事は無いと思うんですが。夕羽、っていう名前の事、花子と一緒だって言ったけど、もしかしたらこの名前って」
「母親が付けた?」つまり、こうだ。「森野……なに?」
「母親の名前は検索には出て来ないけど、森野姓の可能性はありますね」
「だから、なに?」
「いや、こうやって娘の霊が出て来たんだし、会わせた方がいいのでは」
「いやでも、見た目十歳くらいじゃん。身長だって百五十近いし、これを会わせる?」
「そう言われたらそうなんですけど、逆に成仏させられるのも母親くらいなのでは?」
「させるかな」
「させないかあ」
二人で壁に向かって考え込んでいると、すぐにダイモンが戻って来て、その後ろに運営スタッフが二人ついてきた。着替え中じゃない事を確認すると、一人が部屋に入り、室内を見回しながら「どちらでしょう?」とダイモンに聞いた。ダイモンがカノンを指して言う。
「あの青いワンピースを着た、髪の長い……」
スタッフがカノンを見、ユウハを見て「うっ……そう、ですか」と露骨に顔を歪める。
ユウハは訳が分からないという様子で大人達を見つめていた。油断すると、すぐにカノンに引き剥がされてしまうので、腕の力だけは緩めない。スタッフは「分かりました。とりあえず連れて行きますね」と言い、カノンに近付いた。「まったく、またですか」
「ママ、この人達誰?」
「柏の日の運営スタッフさんだよ」とカノンが答える。
突然、フラッシュが焚かれ、レレ子のスマホがカノンとユウハに向けられていた。「とりあえず写真撮っとこう」とレレ子が独りで呟き、画像を確認し、途端に表情を暗くする。光に驚いて止まっていたスタッフ達は、ユウハをカノンから引き剥がし、左右から押さえながら廊下に連れ出した。ユウハが暴れ、首を捻って振り返りながら、ママ、ママ、と叫んでいる。
「あ、ありがとう、ございます」とカノンが放心したように言う。
「ダイモンさん、着替え終わりました」
廊下に声を掛けると、すぐ横の壁に立っていたダイモンが部屋に入って来る。
カノンは憔悴した様子で椅子に体を投げ出していて、レレ子は広げた荷物をもたもたと片付けているところだった。ダイモンがその隣に立って、カバンを引っ繰り返し、荷物を改めて詰め込み直した。「いいところだったのに」と不満を露わにするけど、明らかにレレ子より手際が良かった。「ああ、あー……終わったら言ってください」消え入る声で言う。
その様子を眺めながら、入り口の脇に立って、ペットボトルの蓋を開けた。
お茶はすっかり温くなっていて、少し揺れただけで中身が泡だらけになった。
運営スタッフに連れて行かれた森野ユウハがどうなったかは分からない。
ただ、またですか、とスタッフが言っていたのが気になった。お茶を飲む。意味は分からないけど、前にも何かがあったという事らしい。お茶を飲む。レレ子が隣に座ったので、差し入れのお茶を一つ取って、目の前に置いてやった。「飲む? だいぶぬるくなってるけど」
「うん」レレ子がペットボトルの底でテーブルを叩いた。「さっきの写真見ますか?」
中身が一瞬で泡だらけになる。
「カノンとユウハの? 別に何も気にならないけど」
「謎が解けるかもしれないとしてもですか」そう言って、レレ子が見せてきた画面は、SNSのタイムラインだった。何を見ているのかと思えば『柏の日』のハッシュタグを追っているらしい。大半が運営のお知らせで、めぼしい情報はほとんど出て来なかった。
「ライブ観てた人居ないのかな?」
「盛り上がってはいたんですけどね」
「さっきの写真って、何か写ってたの?」
「見ますか?」と聞くレレ子は、ちょっと嬉しそうだ。
すぐに画像フォルダを開いて、一番上にあった写真を表示してくれる。
ロッカーを背景に、カノンとユウハが、身を寄せ合って立っているところだ。
「これ撮っといて良かったですね」
カノンは嫌がって顔を背けていて、ユウハはカメラの方に顔を向けていた。
薄い眉毛、目蓋は痩せ、頬は微かに弛みがあって、うっすらと法令線もあった。
長い髪も、光沢が無く、ぼさぼさで、印象としてユウハはひどく老け込んで見えた。
「いくつくらいに見えますか?」とレレ子が言った。
「三十代、もしかして後半?」
「そこまでは分からないけど、少なくとも十歳くらいじゃないですね」
よく見れば、腕だって骨張っていて、特に肘とか、指にも違いは出ていた。
子供の体がどれだけ、なんというか、成長を欲しているかは見れば分かるものだ。
レレ子でさえ、小学生と並べたら明らかに成人に分類されるだろう。あどけないとか、垢抜けないとかいう表現に変えてもいい。何かが、それにもっと人間らしい何かが、抜け落ちてしまったように、少なくとも写真には写っていた。「これが森野……、名前までは分からないですけれども、森野夕羽の母親である可能性が、一番あり得ると思いますね」
「それって狂言だったって事?」
「いや、夕羽はたぶん実在する……した、かな」画像を閉じ、レレ子がお茶を一口飲んだ。カノンは耳を塞ぎ、壁の方を向いていて、それを見たレレ子が笑った。「きっと、赤ん坊がちゃんと産まれる事はなくて、その事を気に病んだ森野母は、取り憑かれてしまったんです」
何にか、赤ん坊に。そしてその赤ん坊に付けるはずだった名前が、夕羽。
「名前を付けて、その成長した姿を想像していたのが、いつの間にか、死んだ赤ん坊の姿のまま、生者を呪うという発想に落ちていって、それが自分に返って来たとして。きっかけが何だったのかは知らないですけど、何か、赤ん坊の……体の一部を胎内に戻そうとしたとか」
それはレレ子が説明したトイレの怪談と内容は合致するものだけど。
「さすがにそれは。じゃあ本人がその怪談を広めたって事にならない?」
「だから広めたのでは」平然とレレ子が言う。「そして本人は森野夕羽に」
「何で広めたのかな」
「あの森野夕羽を受け入れやすくする為に、とか」
「カノンは、全然受け入れてなかったけど」
「カノンって親になった姿が想像出来ないですね」本人が耳を塞いでるからって、大概な事を言っていた。「でも、こっちは二人とも森野夕羽を本当の子供だと思い込んでたじゃないですか、それって森野夕羽を受け入れてたって事なのでは」
「そう言われると、そうか」
気が付くとペットボトルはほとんど空になって、二本目を飲む気にはならなかった。
カノンがテーブルに身を乗り出し、差し入れのお茶を一本手に取った。蓋を開け、そのまま一気に一本を飲み干してしまった。「もう、連れてかれたんだから、いいじゃん」と投げやりに言って来るけど、ふと顔を上げては、廊下の方を気にしていた。
それにもう一人、怖いものが苦手な人が手を止めて立ち竦んでいるのが見えた。
「ダイモンさん」と声を掛けてみる。「片付けはもう終わったんですか?」
「ああ、まあ、その。大体でいいだろ。そろそろ出ないとな」
と言って、廊下の方を気にしては、深刻そうな顔で俯いてしまっている。そんなに変な話をしていただろうか。レレ子からしたら、まだ何も起こっていないし、何かを起こすつもりも無いようだった。地図アプリを開けば、まだピンは残っていて、それが一つ増えていた。
五分も経って、やっと落ち着きを取り戻したダイモンが「帰るぞ」と言った。
衣装用のキャリーバッグを持ち、それぞれ三人もカバンを持って、廊下に出る。
明かりが付いているけど、明かりが付いている所以外は真っ暗で、それは白い玉が等間隔にぼんやり浮かんでいるような光景だった。それも廊下のカーブしている所までで、不意に途切れてしまっている。その先には、トイレがあるくらいだ。
もうけいとくんも居ないだろうし、まして森野夕羽なんて居るはずがない。
「鍵を返して来て、一応スタッフさんに挨拶もしないとだな」とダイモンが言った。
「ダイモンさんだけ行ってくればいいのでは?」レレ子が横から聞く。
ダイモンは、何か嫌そうな顔をした。こんな奴らを連れて行くのもそれはそれでなあ、と言いたげだ。眉間を押さえ、二秒だけ考えて「とりあえず荷物だけ車に置いて来るか」と消極的な事を言い、先に歩き出した。レレ子が慌てて後を追い、カノンは動かない。
「どうしたの、カノン」と聞く。
青褪めた顔が横を見る。手にカバンを持ち、もう一方の手がお腹を押さえている。
「どうした?」と数メートル先のダイモンを足を止めて言った。
「お腹痛いの?」
「ちょっと」とカノンが答えた。「トイレ行って来ていいですか?」
「トイレってどこだったかな?」とダイモンが言う。
「ここ右に曲がって少し行くと、あの曲がってる所のちょっと先にあります」
「そうか。一人で行けるか?」
「さとぴ、来て」カノンにしては、珍しいくらい弱々しい頼み方だった。
ふと、ライク柏川店のトイレの怪談を思い出す。ママ、と、お母さん、の違いを。
胎内に入って来るという話を。
思い返せば、さっきまでカノンに纏わり付いていたのは、あくまで森野夕羽の母親らしい人物ってだけで、その人に夕羽が取り憑いていたらしいってだけだ。でも、あんな地図のあちこちに、本当に一人で噂を広めたのだろうか。その内の一つも、その噂を聞いた人や、噂を知りもしない人が森野夕羽という怪談に直接遭遇してはいないと言い切れるだろうか。
森野夕羽の母親らしい人物はなぜ、ここで、カノンを選んだのか。
その違和感を言語化する前から「やだ」と答えていた。
「え、来てよ」カノンはもう、泣きそうだ。掴まれた肩に爪を立てられる。
「カノンお腹痛いっぽいし、音とか、臭いとか恥ずかしいでしょ」
「中まで来なくていいから」必死に食い下がって、遂にカノンが言う。「怖いの」
「明るいし、すぐそこだよ」
「行くのか、行かないのかどっちだ」
「ダイモンさん、一緒に来て欲しいんだけど」
「いや、俺がか」渋っていたのも、また二秒くらいで、ダイモンはキャリーバッグをこっちに押し付けて、カノンの肩を叩いた。「加賀崎、行くぞ。二人そこで待っててくれるか」と言って、カノンより先に廊下を歩き出した。カノンは内股になり、それでも必死に後を追う。
残されると、廊下の静けさと薄暗さも、途端に不気味さをいや増している。
レレ子は、スマホを取り出し、去っていく背中にカメラを向けていた。
「トイレくらい一緒に行ってあげたのに、カノン」とレレ子が言う。
「いや、レレ子なんか連れてったら怖い話されそうだからじゃない?」
「それもそうですね」とレレ子が笑う。
一緒になって笑い、でも何がおかしいんだろうと不思議に思った。
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