第6話 綴じて(裏返して)

 ──初めてのグラビア撮影を終えてみてどうですか?

加賀崎「写真を撮られるお仕事があんまり経験がないので新鮮でした。ポーズとか最初は全然出来なかったけど、カメラマンさんのおかげで色々学べて良かったです。ね?」

早村「いやもう二度とやりたくない。無理」

加賀崎「水着がでしょ。今度は服着てやりたいね」

隈田「わたしは海音の水着姿初めて見れたので良かったです」

 ──そうなんですね。撮影中、何か困った事とかありました?

加賀崎「とにかくさとぴ(早村聡瑠)が恥ずかしがって時間掛かったのが」

早村「すいません。自分でも困ってます」

隈田「意外と長かったです、撮影。毎回違うポーズとか表情いっぱい要求されて」

早村「要求って。言い方」

加賀崎「あと三人でくっついて撮るのとかも、大変だったね」

 ──普段仲良い三人でも改めて密着するのとかは恥ずかしかった?

早村「海音が潔癖なだけです」

加賀崎「そうかな。あんまり触られないからじゃない? こそばゆいっていうか」

隈田「海音ってダンスレッスンでも全然直されないから」

早村「腕とか引っ張られて無理矢理踊らされてるの麗々子だけだよ」

 ──普段から苦労してるんですね。でも隈田さんポーズは上手だったよ。

隈田「あ、……ざぃます」

 ──月刊Comicポップって漫画雑誌ですけど、三人は普段漫画って読みますか?

加賀崎「あんまり読まないです。ドラマかアニメの原作で気になったらって感じで」

早村「あれ、前に貸さなかったっけ?」

加賀崎「あれはさとぴがお兄さんと最新刊被っちゃったから、くれたんだよ」

早村「そうか。あれも読んでないんだ?」

加賀崎「途中から読んでもよく分からないし、しかも最終章って書いてあったよ」

 ──早村さんは、お兄さんが漫画好きなんですか。

早村「家に、女の子がいっぱい出て来る4コマ漫画とか、結構あったので、それを勝手に借りたりしてました。少女漫画だと、昔の、長いやつが揃ってたのでそれも途中までは読んでたんですけど」

加賀崎「競技かるたのやつ?」

早村「吹奏楽のやつとか、薙刀のやつとか。女子野球部のもあったかな」

 ──有名なやつですね。隈田さんは、漫画は読むんですか?

早村「麗々子、結構スマホで読んでるよね?」

隈田「あれはちょっと違うんですけど」

 ──どんなジャンルが好きなんですか?

隈田「ホラーとか、ルポ系の。SNSに上がってるようなやつですけど」

加賀崎「怖い系意外と平気なんだよね、麗々子って」

早村「自分でも描いてそう。読ませてくれてもいいのに」

隈田「描いてないので」

 ──ありがとうございます。最後に、読者の皆様にメッセージをいただけたら。

早村「まあ、なんか、水着が可愛いので、見て参考にでもして貰えたら」

加賀崎「面白そうな漫画がいっぱい載ってたのでCポップ買って読んでみます」

隈田「ブログやってるので見てください。マストとケイヴもやってます」

(インタビュー、テキスト 澤名遥佳)


 たっぷりのマスカラ。これはダークブラウンっぽい。

 睫毛は長く、目をぱっちりさせて、切れ長のラインを上向きに入れる。

 濃い目のシャドウと、目尻にほんのりラメを乗せて、眉毛も濃い目にする。

 ハイライトは、全体的にトーンを落とし、印象としてはシャープな感じにする。

 リップは、チークと同じオレンジ系で血色を出し、やや大きめに、艶感は抑える。

 あとは。あとは、分からない。

 とにかくこれはなんか、エスニック系だ……かもしれない。

 右のこめかみ辺りから垂らしたエクステもオレンジで、羽飾りを付けてある。

 片耳にイヤーカフ。

 両耳のイヤリングは、棒のような物が揺れている。

 ネックストラップの先に付いた、粗っぽく削り出したような石は瑪瑙か何かで、形は鍵穴か古墳みたいだった。これほどエスニック系も行き着いたら、いよいよ額や頬に赤い文様でも入れられそうだけど、そこまではしない。

 真っ赤なホルターネックビキニの、トップスはフリルでボリュームが足されている。

 ボトムスはショーツにティーバックの重ね履きで、サイドに細い紐が見えていて、それは脚が長く見える効果もあるらしいけど、他にもっと良くない効果もありそうだった。

 お尻の方まで、ひどく細く、ひどく食い込んでいそうに見える。実際食い込んでる。

 下着ほどの面積しかないのに、全身が縄で縛られるより窮屈な感じだ。

 足元さえ、サンダルの厚底が重く、しかも足首にベルトがガチガチに巻かれている。

 そしてスタイリストの女性、太田善さんは、毛先をヘルメットのように固く真っ直ぐに揃えながら「似合ってるよ、可愛いよ、大人っぽいよ」と一本調子な褒め言葉に、やたら抑揚を付けて耳元で囁きかけてくる。そんな気が、しては来ない。

 ヨハンナさんも「早く外で撮ってる所見たいわ」と言って来る。

 そんな気が、まあそれは早く終わらせたい。

 毛先が肩に触れると、自分の体の一部とは思えない、その微細で、無機質な感触がむず痒くなって身を捩りそうになる。肩を掴まれる。太田さんの手は冷たく、小さい。それでも職人の手付きが感じられた。

 指が、さらさらと肩を滑り、神経がぞわぞわと毛羽立った。

 鼻息が聴こえた。「いいね、パフュームオイル。ココナッツ系は平気?」

 塗ってから聞く事ではない。「平気です。おいしそう」

「やっぱ良い匂い付けるとアガるよね。シトラス系も行っとく? フローラル系?」

「もういいです」

「本当はもっと大きいピアス付けたかったんだけど、耳、ピアス開けてないからね」

 と言って太田さんが他の二人にも目を向ける。

 振り返ったカノンの耳朶に、小さな穴が見えるような、見えないような。

 カノンは、水着の上にフルジップのパーカーを羽織ってベッドで横になっている。

 レレ子は、袖のあるオフショルに、スカート付きのスリーピースで、ほとんど洋服みたいな格好だった。これから撮影なのに、フラペチーノを飲んでいる。細いストラップに締め付けられたレレ子の肩の白さは、四国の初夏の陽気には耐えられそうにない。

 小さな窓から見える、ハザマ新世界キャンプ場は、ド快晴の撮影日和だった。

 四国山中、間川渓谷にあるこのキャンプ場は、梅雨明けの遅れによってオープンを大胆に延長していた。その結果、人が居ないという理由もあって、急な依頼にも関わらず、こんな良い日に撮影許可を出してくれて、更にバンガローまで貸してくれた。

 簡易キッチンが付いた居間と、セミダブルベッドが置かれた寝室。

 居間の方からノックと、ダイモンが「準備できましたか?」とドア越しに聞くと、今にもドアが開け放たれそうな予感に、全身が冷え、縮み、羞恥の薄膜に覆われる。体のどこというわけでもない。胸と、下半身だけ、隠して衣類としている事自体に不安がある。

「こちらから行きますのでー!」と少し強めにヨハンナさんが答える。

 副編集長のヨハンナ・ジウさんは、アジアのどこかの人らしい。

「よし、良い感じ。問題ない?」

 鏡越しに問い掛ける太田さんの目に迷いはなくて、それを直視できなかった。

「太田さんが大丈夫って言うなら、大丈夫なんだと思いますけど」

「さとぴ、終わった?」寝返りを打って問い掛けるカノンは、薄化粧だった。ほとんど、すっぴんのようだった。いつもより中性的で、夏らしい感じはある。それと、日焼け止めクリームを念入りに塗ってた気がするけど、それでベッドに入ったらいけないのでは。

「マネージャーさん呼んで来るね」とヨハンナさんが居間に向かう。

 ダイモンは今回、撮影隊で唯一の男性だ。

 企画担当である澤名遥佳さんの指揮によって、外部のカメラマン、スタイリストと一緒に飛び出して来たので、編集部の男性が同行する隙は無かった。たまに、ヨハンナさんに誰かから連絡が入ると、相手が何かのチェックを志願し、ヨハンナさんに罵られていた。

 でも最終的には上のチェックを通さないと掲載は出来ないはずだ。

 いずれ見られる物を、見られないようにしている事だって、それはそれで恥ずかしい。ダイモンだって、写真をチェックしないといけないし、それを自分達でやったところで、その『NG』が妥当かどうかを最終的にまたダイモンがチェックしないといけない。

 だから、だからって、今の姿を直接見られるのは話が違うと思う。

 太田さんが横に立ち、肩に置かれた手はホウキのようだ。ドアを開くと、その瞬間、お腹の底が冷たく、重くなる。顔を覗かせたヨハンナさんが、室内を一瞥した。「天気も良いのでこのまま外での撮影を始めるそうです。三人とも準備して下さい」

「行こう」

 と肩を撫でられ、カバンを肩に掛けた太田さんが部屋を出て行った。

 レレ子ものろのろと立ち上がり、隣の部屋に向かった。カノンが体を起こし、こちらを見ている。「行かないの?」ベッドの脇にあったサンダルを手に持って、カノンが立った。パーカーの裾に黒いショーツが僅かに見え、お尻の筋肉が引き締まっている。

 それが太腿まで行くと、カノンは少し細すぎる気がする。

「恥ずかしいの?」

 と聞かれ、頷いた。急に不安になってお腹を腕で覆っていた。

「似合ってるじゃん」

「似合っててもなあ」見下ろすと、他人事みたいに肌を露出した体があって、見ていて恥ずかしくなってくる。薄い胸、丸いお腹。腰の回りにも肉が付いている。立ち上がって、ドアの隙間から見ると、ダイモンはカメラマンの赤崎さんと段取りを話し合っていた。

「ダイモンには前から色々見られてるじゃん、すっぴんで寝顔とか」

「それカノンだけ。仕事でこういう格好した事ないし、ねえ。変じゃない?」

 なんとなく脇の下を見たり、VIOも見たいけど、人前で、どう……無理だ。

「変じゃないよ」カノンの手がイヤリングの棒に触れる。「内股触らないで。一緒に全身脱毛行ったでしょ。さとぴ……、そういえば濃い方だって言われてたね。それってやっぱりひきこもりだったから?」

「そういうんじゃ……そうかも。紫外線浴びないからかな?」

「って事はビタミンDね。じゃなくて、行くよリーダー」

 肩を押されて、やっとドアを潜ると、全員の視線が集まった。

 チリチリと痛むような、痺れるような感覚が全身を駆け巡り、まるで、熱すぎる物に触れたせいで温度が分からなくなってしまったみたいだった。ヨハンナさんは副編集長、澤名さんは企画担当、太田さんはスタイリスト、赤崎さんはカメラマン。ダイモンはマネージャーで、レレ子はシンクに飲み物を捨てている。見ている間にも悪寒が、火照る。

 室温は二十七度で、たぶん建物の外も同じくらいだ。

 それなのに体が熱くなって、空気はひんやりしていた。

「早村、準備出来たのか?」

 ダイモンに聞かれ、ダイモンの光の無い目に肩の辺りだけを見られている。

「出来たように見えますか?」思わず刺々しい声が出る。

「出来たって聞いたから撮影の準備してるんだよ」とダイモンが言った。「なんだ、自信無さそうにしてるけど、案外似合ってるんじゃないか?」言うだけ言って、またテーブルに広げた書類の確認に戻ってしまった。太田さんが笑い、澤名さんはパソコンを操作していた。

 案外っていう言い方よりも、似合ってると思われてる事実がむず痒かった。

 腿や膝がモジモジ、モゾモゾしてしまい、自分は肌寒さを感じているらしい。

「まずは川の方ですか?」ダイモンが言った。

「すぐ近くに、ちょうどいい浅瀬があって、砂浜みたいになってるんです」

 澤名さんが出ると、スタッフがぞろぞろと外に出て、レレ子がカノンの後にくっついて外に出て行った。そんな、洋服みたいな格好だったら、平気だろうけど。こっちはドアの前に立った途端、また全身を締め付けられるような窮屈な感覚に襲われているのに。

「さとぴ」肩を叩かれ、カノンが先に外に出た。「外、誰も居ないから」

「でも、風がすごい当たって、なんか寒くない?」

「それはそういう……」と、思い立ち、カノンがいきなりパーカーを脱いだ。「上に羽織る物があればいい?」バンドゥタイプのトップスは、黒帯を胸に巻いただけに見え、よく見るとストラップが肩に掛かっている。カノンの肩は広く、直線の組み合わせが端整だ。

 手渡されたパーカーを羽織る。

 脚だけがスースーして心許ないのが、より強調された気がする、けど。

 貰っといて、この上更に文句を言うわけにもいかず、やっと外に踏み出した。

 すぐ外で待っていたダイモンが鍵を掛け、行くぞ、と声を掛けて先に歩き出した。


 川は浅瀬が、対岸の岩場に向かって、急に深くなる流れの早い渓流だった。

 向こうの方にはちょっとした滝があり、飛び降り禁止の看板も立ってるけど、まあ、そういう事をする人も居るんだろう。毎年、子供も流されてるのかもしれない。黙祷を捧げるでもなく、目を輝かせて下流を眺めているレレ子はそれを知ってるのかもしれない。

 まずはシングルショット。

 順番はレレ子、カノン、そして最後が自分だった。

 カメラマンの赤崎未鈴さんは、長い髪を無造作に括った、長身で細身の女性だ。

 年齢は二十代後半で、撮っている物は、色々。戦場だったり、絶景だったり、廃墟や廃村に忍び込んで保護された事もあるらしい。本人は眉も整えていない、ジーパンサンダルの無精者なのに、モデルを乗せるのが上手だ。一人目がレレ子だったのも都合が良かった。

 本人曰く「魂が抜けそうだから」撮られるのを嫌うわりに、ポーズが次々に出て来る。

 それこそ昔からある、両手を頭の後ろに置く脇見せポーズまでやって、これはシャッターすら押して貰えなかった。「あれって脇じゃなくて胸が持ち上がってキレイに見えるポーズなんだよ」とヨハンナさんがポーズを見ながら教えてくれた。

 ヨハンナさんは一人だけ白ブラウスに黒スカート、パンプスを履いている。

 日傘を差していて、それをこちらに傾けてくれていた。ピンクベージュのショートヘアは前髪を横分けにして、知的に広がった額は眩しい白桃色だった。

「垂れるような歳でもないっていうか、垂れるほど無いですけど」

「どんなに小さくてもね、いずれ垂れるから。気を付けなよ」

「気を付けます」と言っても、気を付けようが分からない。レレ子は他にも、手や顔にちょっと角度を付けたり、目線を流したりして、見ている時はなるほどと思ったのに、いざ自分の順番が来ると、というより、その前のカノンのせいで全て抜け落ちてしまった。

 それが終わると、続いてツーショット。

 カノンと二人で。

「もっと体近付けて、手繋いでみよか。んー、もっとこっち飛び跳ねるような感じで」

 レレ子と二人で。

「水の中入れるかな。麗々子が仰向けに浮かんで、聡瑠は、横から覆い被さるように」

 赤崎さんは普通にズボンと靴を履いているのに、普通に川にまで入って来た。

 そしてカノンとレレ子が撮っている間は、ダイモンがどこかから持って来たキャンプチェアに座って、バスタオルで髪と体を拭いた。ヨハンナさんが電源を引っ張って来て、ドライヤーを当ててくれる。「水まだ冷たいんじゃないか」とダイモンが聞いてきた。

「ずっと入ってたらきついかも」

「そうか。本当は海にするつもりだったんだが、四国に使える海岸が無くてな」

「……なんで、じゃあ四国なんですか?」

「体冷やすだろうから、すぐに温泉に入れるようにじゃないか」当然とばかりに温泉の事を言うダイモンは、真横に立っている。こちらを見ないように川の方ばっかり見ていた。カノンとレレ子は、やたら前後に距離を空けて、躍動感のある写真を撮られている。

 ドライヤーの電源が切られる。「ウチも、水着グラビアは初めてだから、勝手が分からなくて、ロケーションには苦労したんですよ」とヨハンナさんが言った。

「少女漫画だと、そうですよね。あんまり見ませんが」ダイモンが答える。

「男性アイドルとか、モデルさんもたまに載るんですけど」

「実写ドラマ化した時とか?」と聞く。

「それもあるね」ヨハンナさんが言い、椅子の前を回って、ダイモンの隣に立った。「実は今回受けたのも、赤崎さんが大門さんのファンだからという理由が大きくて」

「ファンと言われても、自分は特にマネージャーとして有名なわけではないですが」

「有名なマネージャーなんて居るの?」

「プロデューサーとして有名な方は、まず作曲家として世に出てる人が多いですね」

 その時点で察するものがあったのかもしれない。ダイモンは、鳴りもしない携帯電話に目を落とし、どこかへ立ち去ろうとする素振りを見せた。それを引き止めるわけでもなく、ヨハンナさんが独り言のように言った。「大門さんが前に所属していたバンドの」

「ああ、どうも。友達だからってサポートメンバーやってただけですが」

「だとしても凄いじゃないですか」ヨハンナさんも、両手を合わせ、声を高くして、まるでファンかのようだった。「特に、最後に発売されたシングルのジャケ写。赤崎さんが言うにはあれ本物の死体なんじゃないかって話なんですけど、実際どうなんですか?」

「俺が聞いたのは、最初からああいう写真にする予定だったという事だけで」

「それは……」

 それは、でも。最初から死体……殺すつもりだったという意味にも取れるけど。

 ヨハンナさんが少し黙る。

 カノンとレレ子が取っ組み合い、水の中に倒れ、水飛沫が舞った。

 上がった瞬間、濡れた髪を掻き上げたカノンの、その手付きと、アンニュイな表情にカメラのように惹き付けられる。振り返り、水から上がったレレ子に怯えて、カノンはまた転びそうになっていた。「可愛い」とヨハンナさんが言うと、だいぶガチっぽく聴こえる。「そんな事言っといて、赤崎さんも実物は持ってないらしいんですけど、ちなみに持ってたりとか」

「それで言えば、社長も元メンバーで。……それだけの事なんですけど」

 それは初耳だ。

「へえ、それはすごい。いつかまたご一緒出来たら、その時に」

「また水着ですか?」思わず割って入ってしまう。

 嫌だったみたいに聞こえただろうか。別に嫌じゃないとは、言えないんだけど。

「色々あるよ。ブランドとコラボしたり、アニメの主題歌を担当したり、リリースの」

「リリース予定はしばらく無いんです。作曲の依頼も、タイアップも取れなくて」

「大門さんが作ったりは?」

 ダイモンは首を振った。

 水から上がったカノンが近付いて来て、ヨハンナさんにタオルとドライヤーを要求した。レレ子はダイモンにしがみついている。「やめろ、隈田。スーツは乾きにくいんだ」振りほどこうとまではしないけど、でもレレ子自体が震えていて、なんだかかわいそうだった。

「全員苗字呼びなんだ」とヨハンナさんが呟き、カノンが頷いた。

 最後にスリーショット。

 じゃあ川に入ろうか、と言われ、五分くらい誰も動かなかった。

「ひゃあ、い、いてえ」と片足を差し込んだ格好で、レレ子が動かなくなり、その肩をカノンが押した。そのまま水を蹴立てて入っていく。「いや、つめたっ、いーひぃ」とレレ子が暴れながら淵の方に行きそうになる。その様子を眺めながら、ふと水に浸かった爪先を見ると、水底で渦が巻いているのが見えた。カノンに手招きされる。レレ子が水を跳ね飛ばした。

「集合写真撮りますので、三人もっと近付いてください」と赤崎さんが言った。

 大写しの集合写真だと、学校の行事や、卒業アルバムで撮ったのを思い出した。

 中学校の。まだクラスTシャツを作ったり、はしゃいだりしなかった頃のだけど。

 水着という時点で違うけど、更に近い距離を要求される。「どっちか肩に手置いて」と言いながら、赤崎さんが自身の手を空中に置いた。「で、反対からも、もうちょっとこう、挟み込むような感じで。いい感じに画角収めたいから、協力して貰えると嬉しいです」

 お互いの肌が水死体のように冷たく、一瞬でも触れるたびにぞわぞわっとする。

「レレ子、手冷たい」カノンが囁く。「ちょっと、腕当てないでよ」

 そう言われるとレレ子は余計に、腰の向こうまで腕を回して体を引き寄せる。

「そう、そんな感じで」シャッターが切られる。「うーん、もっとこう自然に、三人で水遊びしてるところも撮れますか」急にレレ子が重くなる。と、体が押され、水の中に尻餅をついていた。胴体を包む水は、冷たさに加えて重さを感じさせる。目を何かに打たれる。

 飛んできた水に視界を奪われ、バランスを崩して上手く立ち上がれない。

 その水掛けが急に止んだと思うと、激しい水音と共に細かい飛沫が飛んできて、何かが倒れたらしいと思った。レレ子が水に浮いていた。何したの、と言おうとした。その瞬間、レレ子の腕がカノンの足首を掴み、引っ張った。カノンも尻餅をつく。その水底が気になる。

 小さな泡が、渦を巻いていて、砂の中に小さな穴がある。

 それからは三人でお互いを転ばし合い、いつからシャッター音が消えていたのか、誰にも分からなかった。「屋外での撮影は以上となります」澤名さんの声は、呆れているようにも聴こえる。「次は着替えて一人ずつ屋内の撮影に移ります。早く上がってください」

 水から上がる時も、シャッターが切られ、ヨハンナさんにバスタオルを渡される。

 太田さんが言う。「メイク崩れちゃったね。写真使えるかな」

「さっき凄い時間掛かってませんでした?」

「あ、次はオフショットっぽく撮るので、シンプルめで」

 全部落とすのもそれはそれで時間取られそうだけど。

「あ、あと。特典用に何枚か撮りたいんですが、いいですか?」

 そう言うダイモンの手には、カメラマンよりは小柄なカメラがあった。

「え、それって自分用なのでは?」とレレ子が聞く。

「サイン入り生写真、前からイベントの時に配ってるだろ」

「あ、じゃあそれも撮りますよ。海音、来て」赤崎さんがカノンを木の向こうに立たせ、横から顔を覗かせたりしている。手持ち無沙汰になったダイモンは、周囲を見回した後、こっちにカメラを向けていきなりシャッターを切る。

「あの、メイク直してからでいいですか」

「元が悪くないんだから、一枚くらい大丈夫じゃないか」聞き終える前に、やけに面倒臭さを感じて、川の方に歩いて行った。「おい、危ないぞ」足首が浸かる所で、水底を覗いてみる。止まない流れが、水面を揺らし、底に溜まった砂が柔らかく揺れる。

 川の中にあるのは砂礫、苔、よく見ると、魚、枯葉もある。

 その底の底まで探しても、渦を巻いているような場所は見当たらない。

 水を打つ、バシャバシャという足音が背後に近付いて来る。「さとぴ、何かに引き寄せられてるのでは?」と聴きながら、レレ子も水の中を覗き込んだ。「注意しないと、こういう所は一気に引き込まれるから。尻子玉が抜かれる」

「それって何だっけ、男の人にしか無いやつじゃないの?」

 中学の知識まで、なんとなく記憶が蘇ってきた。言ってて自分が情けなくなる。これじゃ知らない玉の話をされて、強く言い返したくなっただけみたいだ。「川の底に穴があって、水が渦みたいになってたんだけど、どの辺りだったか思い出せなくて」

「ムツゴロウかな、とにかく何かの生き物だと思いますが」

「そう、あ、あった」思ったより手前で、しゃがんでも、腰までしか水に浸からない。レレ子も顔を寄せて来て、同じ場所を指差した。先に、水に手を入れる。底まで伸ばして、指先で穴に触れてみる。水の流れが渦のようになって、螺旋を描いているのを肌で感じる。

 穴は深い、そして、どこまでも続いているみたいだ。

 いつの間にかそれは、指先で触れるのではなく、手を包み込まれている。

 腕の周りを水が激しく動いている。それは冷たさ以上に、重さを感じさせる。まるで手を底に引かれているみたいで、こういう所は、注意しないと、ってたった今言われた言葉が、頭の中で反響した。なんでだっけ、玉を抜かれるから。でも玉は持ってないんだ。

「さとぴ、どうしたの……、待って!」

 信じられない大声も、濁って、歪んで、水面に隔てられた重い響きだった。

 顔も、肩も、頭も、胸も、体も、何もかも、浅瀬の、水中に沈められていた。

 氷漬けにされたように寒く、また体の自由も効かない。

 周りが暗くなって、流れの中で、息が出来なくなった。

 鼻に水が入る。わさびよりも、アンモニアよりもひどく染みる。

 息をしてはいけないのに、水を飲み込んだ感覚が鼻の奥を抜ける。

 暗闇の中から何かが全身に覆い被さり、全身を押し固められている。

 抜けられない。

 動く事が出来ない。

 不安が息を浅く早くさせようとするけど、息をしてはいけない。今吐いたら、吸う物がどこにも無いのに。吐く物だって、もう肺の中に残ってないのに。もう耐えきれない。そう思った一瞬、また手を引っ張られ、視界が一気に開けた。顔が砂礫を掻き分け、水と泡の弾ける音の中から、全身を伝う液体の名残惜しい感触があって、それは瞬く間に消えた。

 レレ子に手を掴まれ、川の中に座り込んでいた。

「さとぴ、大丈夫?」

「あ」ごぱあ、と喉から水が溢れた。「だ、だいじょう、うぅ……」口の端からだらだら垂れる、唾液と混じった液体を拭う気力もなく、手の平で目ばかりを拭い、もう化粧を気にする余裕もなかった。

「立って。ちょっと、あれ。そんな派手な水着着てたっけ?」

「ああ、メイクとか、イヤリングも無いや、そのせいでそう見えるんじゃない?」

「でも、何なんですかあ、この紐はあ?」と、手が伸びてくる。

「ちょっ、やめて」爪でかりかりするな。「Tバックのインナーだよ。紐が出てるから脚が長く見えるんだって。さっきも言ったけど」

「穿き方がやらしく見えるだけでは」身も蓋もない事を言われ、そんな気がしてくる。「ちゃんと歩いて、ほら。もう少し、もう少し。アイカも心配して……しそうだから」

「誰が?」してくれないんだな、と思いながら聞き返した。

 川原にはダイモンと、太田さんと、赤崎さんと、澤名さんと、ヨハンナさんも居て。

 黒髪のポニーテールを腰くらいまで真っ直ぐ垂らした水着姿の長身の女の子も居た。


「さとぴ、急に深みに嵌まって、そのまま沈んじゃったんですよ」今しも沈みつつある友人を目の当たりにしたような、慌てふためいた様子でレレ子が語り始めた。「アイカの事、知らないって言ってるんですけど、記憶が変になってるみたいで」

 骨組みに布を張ったハンモックチェアに座り、大人達に囲まれる。

 見知った顔が、いつも見るような呆れ混じりの困惑顔を並べている。

 いつもそれはレレ子に向けられているけど、だからこっちもそこまで深刻になって、必死の訴えを通す気にもなれない。変になってるみたいで、と冗談めいて語られる以上の事は、この場では収集が付かない。「体調は大丈夫か?」とダイモンが聞く。「少し休むか?」

「そのまま着替えて、部屋で体温めた方がいいかもね」とヨハンナさんが言う。

「すみません、注意してなくて。無事で良かったです」と澤名さんが頭を下げる。

「自分が、不注意で」不注意か、と疑問を持つと、それも嘘みたいになって、なんか、とにかく丸く収めたいだけなんだと思う。それでも、もう一人の姿を真正面から捉える事に、どうしても躊躇を感じてしまう。赤崎さんが憔悴した様子にカメラを向けてくる。

 その隣に、ビキニ姿のスラリとした女性が身を隠すようにおどおど立っている。

 大きなバスタオルを肩に掛けていて、でも胸は隠しきれていない。

「レレ子」と小声で呼び掛ける。「カノンは?」

「カノンって?」聞き返され、見るとレレ子は真面目な顔をしている。

 ああ、どうしよ。「あの子、身長何センチ?」

「あの子、って……アイカは百六十八で、我らが誇り高きトリプルビッグガールでしょ」

「トリプル?」

「ロングヘア」肩の後ろで手を動かし、胸の前へ。「巨乳」それを頭の上に。「高身長」

「確かに全部持ってないけど」

 自分の体を見下ろすと、下半身に重きを置いた体に、真っ赤なビキニが痛々しい。

 荷物をまとめた太田さんが近付いて来て、温かい手が肩に置かれた。「一回バンガローに戻る事になったから、立てる?」すぐに立ち上がろうとして、厚底を捻った。両肩を掴まれ、そのまま太田さんに体重を預けてしまった。ねっとりと冷える感覚は恐怖だけじゃなくて、皮膚に残った水滴が押し付けられる感触で、半分は太田さんの服に移っていた。

「あ、すみません、濡れてる」咄嗟に体を離しもしないで、言うだけ。

「いいって、さっきも水跳ね飛ばしてはしゃいでたのに」

 ヨハンナさんも付いてきて、レレ子はなんかふらふらしてて、振り返ると澤名さんとダイモンが次の段取りを話し合っていた。サンダルを脱がしてもらって、部屋に上がり込むと、バスタオルで体を拭かれた。「シャワー浴びてくれば良かったか」と太田さんが言う。

 宿泊客用に、温泉を引いてきて、脱衣所とシャワーと、トイレも設置されている。

 まだシーズン前で開けてないって話だけど、使えるのかは分からない。

 顔もアルコールのシートで乱暴に拭かれ、マスカラとか、色々削ぎ落とされる。

 首の後ろ、紐が解かれて、締め付けが消える。咄嗟に胸元を庇い、見る。

「替えのシャツと短パン用意してるから、とりあえず脱いじゃって」

「え、あの。自分で出来ます」

「うん、分かったから。さっきも出来てたもんね。ベッド汚さないでね」

 ベッドの上に着替えが置いてあった。太田さんは水着を絞り、ハンガーに掛け、その後も部屋から立ち去る気はないようだ。タオルを掛けたままのろのろと服を着た。次にタオルも引っ手繰られ、ベッドの縁に座らされる。それからすぐに太田さんは部屋から出ていった。

 横になって、天井を見上げる。

 明らかに、何かの怪奇現象に巻き込まれてるけど、どうしても納得がいかない。

 巻き込まれると言えばカノンなのに、たぶんまだ向こうで撮影を続けてるんだろう。木の幹から顔を覗かせて、はにかんだような笑みを浮かべて、あんなのは自分には出来ない。やろうと思えば出来るかもしれないけど、考えるだけで頬がむずむずして表情が崩れる。

 考えに落ちると、ごろごろと身を捩り、ずるずると体が滑ってベッドから床に落ちる。

 角の狭い所に挟まると落ち着く。掛け布団を引っ張って、その中に包まった。

 シーツの下には、よくよく見ればビニールが掛かっていて、多少濡れても大丈夫なようになっていた。だからって、あんな派手な格好のままで眠れるわけもないけど。あんな、エスニックな。今となっては痛ましさしかない。イヤリングやネックストラップも、あるだけ取って床に並べておいた。物が当たる音と、別の規則的な音も床から伝わり、それは足音だった。

 身構えそうになるけど、これ以上の身構えようもない。

 ドアを開けたのは、黒いポニーテールを肩の前に垂らした女の子だった。

 アイカ。

 幌満亜衣加って、どこかで聞いた名前だ。

「あ、さとぴ」今初めて寝ている事に気付いたように、両手で口元を覆い、体を引いた勢いで左右を見て、ようやく慎重に慎重を重ねた爪先を踏み出した。最初、目の前で膝に手を置いて屈んだのだけど、結局アイカは目の前で床に三角座りをした。

 すらりと伸びた脚は、腿の裏まで隙無く張り詰め、陶器のように冷えきっている。

「大丈夫、体調?」小さいのに、耳元で聴こえるように声が聴こえた。

 まだ水が残ってるのか。「平気。ちょっと冷えたかも」

「記憶が変になっちゃったみたいだって聞いたけど。あたしの事……」

「アイカの事?」

「分かる?」

「うーん、ちょっと。ごめんね。ねえ、カノンの事は知ってる?」

「誰? 加賀崎海音の事?」

「え、ちょっ、なんで?」

「加賀崎海音ちゃんって、同じくらいの時期に大手のグループに入った子で」壁の方に這って行ったアイカが、誰かのカバンをごそごそし始めた。そのお尻もちょうどよく、本人が自信無さそうにして、やっと調和が取れているだけで、体付きだけでも格差が果てしない。

 ブラウンの地味な、そして面積の少ないビキニも、全然負けていない。

 戻って来る時には、別の生き物が生まれる寸前のように大きな物が揺れていた。

「歌は上手いんだけど、口下手で目立たないから、あんまり人気が無くて」まるで履歴から検索したように、アイカのスマホには、すぐにカノンの画像が表示される。「って自分で言ってたでしょ。さとぴが前から注目してる子だよね、その子がどうかした?」

 本当に、超人気グループの集合写真の端っこに、見慣れた顔が紛れ込んでいる。

 やや病的なスレンダーで、金髪のウルフカットで、見た目のわりに真面目で小心者。

 知ってる、カノンだ。「どうか、っていうか。名前、ちょっと、思い出したから」

「好きだもんね」って言って、すぐに消してしまう。また三角座りをしたアイカの、局部がちょうど正面にあって、見たくなくても見てしまう。フルバックのショーツと、内腿の、ほぼお尻みたいな所の間に、白いゴミが付いていた。布団から、そっと手を伸ばしてみる。

 まだ現実感が無くて、それで何か異様な物に手を伸ばしてみたくなったんだろう。

 普段ならわざわざ触れようとはしなかった。

 体を見せ付けられて少し困らせたくなった、ってのもある。

 アイカの、そこに捩じ込まれて帰るというイメージは、あんまり良くはないけど。

 やっと先端を摘むと、しっかり挟まってるようだ。「え、や、何?」驚いたアイカが立ち上がろうとして、そのまま引っ張る形になってしまった白い物は、白い紐で、ビキニパンツの下からずるずると十センチくらい引き出されて、不意に突っ張って指の間から離れた。

 伸びる時にちょっと水着が捲れてアイカの、……見ちゃいけない所が見えちゃった。

 内蔵のヒダまで綺麗だなんて綺麗事は言えない。ただただ申し訳ない。

 アイカは内股になって股間を押さえ、泣きそうな顔でじわじわと後退っていた。

「ゴミが付いてるのかと思って」と言い訳をし、ベッド側に寝返りを打つ。

「出てた?」震える声でアイカが言った。「ごめんね」

 無言でごそごそしてる間、まさか目の前で直してるんじゃないかと不安だったけど、そのうち太田さんと澤名さんが入って来て「亜衣加ちゃんから順番に、一人ずつ次の撮影始めてもいいかな」と言った。「聡瑠ちゃん、居間の方で休んでもらっても……何で床で寝てるの」

「あ、大丈夫です。次の衣装どれですか。着替えておくんで」

「体冷えない方がいいよね」太田さんが別のハンガーを取った。「一応、ワンピース型の水着もあるけど」一つは、紺色のローレグ型で、パイピングの白い肩紐はキャミソールのようだけど、背中で交差してV字になっている。もう一つはワインレッドのハイレグ型で、脇腹の生地が切り取られて肌が大胆に露出してる。「スク水とモノキニしかないけど」

「次も水着なんですか?」

「部屋でオフショットっぽく撮りたいって澤名さんの要望で」

「じゃあ他のやつでお願いします」

 掛け布団を体に巻き付け、濁流のようにだらだら居間に移る。戸口でアイカと目が合い、アイカは何か言いたげに口を尖らせ、一瞬大きくなった目は潤んでから急に伏せられ、それから何も言えなくなってしまう。何かを言わせたげに、立っているだけにも見える。


 シーツの上に、両膝を折って座り込んでいるアイカ。

 胸と股間しか覆わない水着も、その体も、赤い血糊で汚れていて、丸めた肉のような物を膝に乗せている。

 片手を口元に持っていき、何か熟れ過ぎた果実のような物が唇に触れ、そこからも赤い液体が絶え間なく溢れる。

 顎を上げ、やや見下すようになった視線は、不安を感じさせない。

 挑発的にカメラを見つめ、その口にしている物にさえ関心は無いようだ。

 高い位置で括った長い長いポニーテールだけは、鞣されて弓に張られたように、表面が艷やかに光って、ゆっくりと滴り落ちる粘液のようにも見えた。

 顔の横に垂れた髪は軽く巻かれている。

 重めの前髪は真っ直ぐに切り揃えてある。

 薄い眉、蒼白な頬、大きな口でさえ、調和の中で揺らいでいる。

 よくよく見れば中性的な容姿は、自信さえ身に付けば同性をも惹き付けそうな、気高さを垣間見せるし、誰からも好かれない居丈高そうな性格をも覗かせる。胸だって、動いていない時には彫刻のように静謐で、見惚れそうなのに、ちょっと身を捩り、腕が当たると途端に弱々しく形を変え、何もかも受け止めさせられる入れ物のようになる。

 赤崎さんはその瞬間を逃さない。

 ドアから離れ、座っていたダイモンの肩を叩く。

「ちょっと気分が良くないから、外の空気吸って来てもいいですか?」

「一人でか? また危ない事」

「川には近付かないから。あ、レレ子、一緒に行こう」

「はいはい」と気軽に返答して、レレ子が立ち上がる。フルジップのパーカーを羽織って、先に玄関を飛び出して行った。戸口の向こうから「来ないんですか、さとぴ」と間の抜けた声が聴こえて来る。ダイモンと澤名さんを見やると、澤名さんが答える。

「順番来たら呼びに行くよ。すぐそこに居るんでしょう」

「はい。じゃあ、失礼します」

 外に出ると、初夏の陽気が直に触れ、風はほとんど感じなかった。

 木陰に座り込んでいるレレ子の側まで行って、隣に腰を下ろした。レレ子は木の虚になった所を覗き込んでいた。「スズメバチとか出て来そうなんだけど」と言うと、レレ子は近くにあった枝を虚に突っ込んだ。思わず仰け反ってしまう。何も、出て来ない。

「大丈夫だったので見てたんですけど。並行世界にも行けませんでした」

「平行世界なの、ここ?」

「さとぴから見たらの話ですが」と言い、レレ子が目の前に指を立てる。「別の世界のさとぴと入れ替わったか、さとぴが別の世界線に飛び移ったか」パーカーが一回り大きくて、レレ子は下に何も穿いてないようにも見える。本当は着てるけど、ブラとショーツだけのシンプルビキニは、さすがに似合ってないし、本人も恥ずかしそうだった。「前者の場合、アイカを知ってる方のさとぴも向こうに行って、カノンと出会ったって事になりますけど。さとぴってカノンのファンじゃないですか?」

「そんな事ないけど。なんか、確かオーディションが何回か被っただけ」

「こっちではそうだったので、会えたんならそれはそれでいいのでは、っていう」

「こっちはアイカのファンってほどじゃないし」

 レレ子が両手を前に突き出し、言う。「出番前とかに胸触れば気分が落ち着きますよ」

「いつもそんな事してんの?」

「いつも羨ましそうに見て来るじゃないですか」

 それはたぶん白けてるんだけど。

「それこそダイモンも仕事が忙しくてストレス溜まってる時とかに」そう言いかけ、そこで急ブレーキを踏むと、まるでその先が無かった事になる。レレ子が慌てて手を振る。「冗談。冗談なんで、嫉妬なんか見てられないんで、やめていただいて」

「してないって」

「アイカだってさとぴの事は好きだから、すぐ仲良くなれると思いますが」

「アイカの事別に、嫌いってわけじゃなくて。そういう事じゃなくて」

 じゃあ四人でやれるか、って言われると、それはそれで話が違う。

「で、後者ですが」と言い出し、つられて声が漏れそうになる。レレ子はこっちが本題とばかりに真面目そうに語った。「別の世界線に移った場合は、さとぴが無意識で求めてた可能性があります。何か最近ストレスを感じたりとかは」

「まだその話続いてたんだ」考えながら、黙ってしまう。一つは今も感じている事。「すぐ思い付くのは水着になる事くらいだけど」

「こっちのさとぴも水着にはなってたけど」

「だから別世界に簡単には逃げられないって事じゃなくて?」

「しかも巨乳女が居て余計にコンプレックス感じさせられて?」

「コンプレックスじゃない、普通だから」

「Bの65がですか?」

「別にそんな。平均ってそんなもんでしょ」と、思ったら急に違和感を覚え、何か言う前にレレ子の頭を鷲掴みにしていた。「何で知ってんの?」数字にして、分析をされるのは、それはそれで抽象的に語られるくらい恥ずかしい。

「いたたたたたたた、いたい、待って。下着、落ちてたから」頭を掴まれながら、レレ子はしばらくもんどり打っていた。「でもっ、水着になるのは平均的な仕事じゃないのでえ」

「遠征ばっかで海もプールも普通の人よりは全然行ってないし」

「屁理屈だあ」手を離すと、レレ子は額を押さえながら頭を振った。「ふうぅ」

 もみじみたいな、指の痕なんて付いていな……いても髪で見えないだけか。

「とにかく、後者の場合は、さとぴのストレスが緩和されたら次第に戻るし、その間の出来事も辻褄が合うように出来てると思うんで」間を置き、レレ子にしては考えに考え、二の腕を掴みながら、言う。「それにもし向こうの撮影が終わってたら、さとぴの事、水から引き上げてくれる人が誰も居ないって可能性もあるじゃないですか」

 ふにふにとやたらに指を食い込ませて来るのが、全然説得力のない。

「別に、穴探そうと思って出て来たんじゃないよ」

「そんなに加賀崎海音の事が好きだったんですか?」

 穴の事が、って……違う、カノンが好きか、か。急に居ない人の話をするレレ子の方が、嫉妬深そうに見える。でもレレ子の目には単純な興味しかなくて、加賀崎海音の事を、このレレ子は悪い意味でも知らないんだってすぐに分かった。

「二年近く一緒に居て、色んな事知ってたら、その人が居なくなったら寂しいでしょ」

「そうかな。……加賀崎海音か、居たら仲良く出来るかな」

「レレ子とはそうでもなかったよ」

「うわ、聞きたくなかったー」

「っていうかいつまで腕揉んでんの?」と聞くと、急に動きが止まり、まだ触れている。

「さとぴが落ち着くまで」と言って、また弱々しく握って来るので、もう振り払うのも面倒になって放っておいた。二人で虚を見ながら、腕を握っているだけ。そこに居るはずの人や、居ないはずの人は関係なくて、なんだかレレ子とは一緒に飛び移って来たみたいに感じる。

 なんでそれが安心出来ないのかは、日頃の行いでしかない。

 そのまま二人で、黙り始めて数分と経たずにダイモンが出て来て後ろに立った。

「なんか、スズメバチとか出て来そうな穴だな」と身構えながらダイモンが言った。

「居なかったので。これで」とレレ子が枝を差し出す。「つっついて頂いても」

「やらないよ。そろそろ二人も準備してくれって。早村、大丈夫か?」

「やります。なんかしてた方がいいんで」

「そうか、何の話してたんだ。水着が似合うとか胸が成長したとか」

 レレ子の視線がこちらに逃れる。「ユーモアのセンスはどっちも同じくらい無いよ」と答えてやると、なんだか嬉しそうに頬を綻ばせている。何が。

「加賀崎海音の話、さとぴが好きな超人気アイドルグループの」

「ああ、懐かしいな。早村お前オーディションの時もそいつの……」

「ああ、いい、いいって! 素人だった時の事言わないで。行きます、行こう!」

 レレ子の腕を引っ張り、何か言いたそうなレレ子の二の腕をふにふにと握り締めて、何も聞くなと釘を刺しながら、さっさとバンガローに戻った。ダイモンは、木の前に立って虚を覗き込んでいた。いつの間にか、放り捨てたはずの小枝を手に持っている。

 向こうに行ったら、今の失敗を踏まえてカノンにセクハラでもしてやって欲しい。

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