第5話 観えてるかな(ロード中)

 トゥゲキャスなんか使って生配信してるの、世界中でカノンだけだと思う。

 とにかく画面が見辛い。

 チャット欄は画面の下の方に格納されるし、オススメを見ようとすると別のタブに飛ばされるし、配信者毎の最新ライブを検索するのが面倒くさいし、色んなボタンが配信画面に被さってるから邪魔だし、ログインするのに外部サイトのアカウントの連携が必要だし。

 そして何より、視聴者層の民度が非常に悪い。

 黒シャツに黒スパッツという格好でカノンが画面を横切ると、尻の形が貧相で良くない、と誰かが言い、もっとリーダーを見習え、というコメントが流れる。

 すると早村聡瑠は不摂生だとか、出不精だとか、無愛想だとか、色々言われる。

 最近ちょっと痩せたみたいだ、って言わない。本人過ぎるから。

 他の人に吹き込んだりもしない。それを言うと、代理人過ぎるから。

 そこからは、だらしないのが良い派と、見られる意識が足りない派の、大喧嘩。

 画面内のカノンはマットの上でストレッチを始め、既にペットボトルの水が半分以上無くなっていて、専属のインストラクターのお兄さんは、身長が百五十三センチしかないのに金剛力士像を更に彫り進めたかのようなガチガチに締まった自らの肉体を愛でている。

 コメントも熱い。『マコちゃんこっち見て』

『今日もマジでキレてんなw』

『相変わらずこいつ下半身は大した事ないな』

『顔が小さくてかわいいよー』

『終わったら絶対こいつらサウナで■■■■』文字に検閲まで入る。

 大体ずっとこんな感じだ。

『今日人少なくね?』

 それはそうだ、平日で、しかも出先ではない数少ない休日なのだから。

 ジムが空いてる日を狙ったっていいじゃないかって話だ。

 ちなみに今日は、オフはオフだけど十七時からダンスレッスンが入ってる。

 レッスンも最近は月に一回しかない。

 だから、たとえ旅先でも、スタジオなんかを借りて、日付が変わるまでやる。

 立ち上がったカノンがスマホに近付いて来て、側に置いてあったオフ用のメガネを掛けて画面を覗き込んだ。「一昨日ありがとね。交通安全なんとか会のイベント」それから水をほとんど飲み干して、画面の中央にある、下半身用のトレーニング器具に跨った。

 足を動かすとなんか重りが動く、分娩台のポンプ井戸みたいなやつ。

 今の発言で、チャット欄にわりと疑問符が飛び交うけど、たまにファンも居る。

『吹っ飛び方が上手かったから事故の危険性が皆に伝わったと思うよ』

 褒めてんのかこれ。って思ってはいけない。

 マコちゃんがダンベルを持ちながら、カノンの姿勢を直し、回数をカウントする。

 マコちゃん……いや、筋肉少年こと真虎新司の指導が正しいのか、若干疑っている。

 どんなテンポで、何回やって、どのくらいのインターバルを取るか。

 筋肉の生き証人に指導を受けているのに、カノンはちょっと心配になる細さだった。

 ちょっと羨ましくもあるけど、だからって一緒にトレーニングはしない。

 しないけど、起きたら昼前でカノンが配信なんかしてると、つい観ちゃう。

 友達のトゥゲキャスを無言でチェックしてるの、世界中で自分だけだと思う。


『くまだです@RERERERE

 ママとお買い物。帰りにパンケーキ三枚たべた』

 一緒に上がっているのは、テーブルに置いた皿のアップと、黒く塗った爪の写真。

 いくつかリングを嵌めた、ほとんど骨と皮だけのピースを、手の甲側から捉えている。

 投稿日時は七月四日、午前八時四十四分。

 そんな早朝から買い物までしてるわけがないので、昨日、母親と一緒に帰った時に、寄り道でもしたんだろう。泊まりで二人だけになると、あんまり会話が無くなるので、出来れば残って欲しかった。母親が近くにさえ居なければ。

 その後、更新は無し。ここからは推理。

 八時に起きて、やっと写真一枚を上げて、また寝てしまったといったところか。

 となると、今のところまともに活動してるのは自分だけらしい。

 もう一眠りして、夕方までに少し歩こうと思ったら、既に十二時を過ぎていた。

 足を振り上げ、反動で飛び起きる。

 カーテンを開けて、部屋を出る。兄の部屋を覗くと、既に出掛けた後だった。

 一階に下りると、リビングでは母がソファに三角座りをして、つまらなそうにワイドショーを眺めていた。コップに水を注ぐ音を聞き、母が体全体をこちらを向けて、さとぉー、と異様に間延びした調子で呼び掛けて来る。「居たの気付かなかった。今日休み?」

「休みだから、五時からレッスン。朝ごはん食べたい」

「もうお昼だよ。午後は?」

「ちょっと出掛ける。あとで車出してね」

「帰りまた遅くなる?」母は立ち上がり、背もたれを跨いで立った。「帰って来る?」

「帰るけど、また明日から、なんか北海道で星見るんだって」

「星って。夜だいぶ遅くなりそうだけど、それ仕事? 未成年なのに大丈夫?」

「仕事じゃなくて、通りがかりでイベントに一般参加するだけ」

「ふうん。北海道ならオーロラとかも見れそうだね」

「え、見れるの?」

「知らないよ。お昼何作る?」

「何かある?」

 冷蔵庫を開けた母は固まった。「……昨日作ったポトフと、韓国風焼きそばだったらすぐ出来るけど」奥の方に手を伸ばすと、栓が開いたエナドリを飲み干し、空き缶をテーブルに置いた。「それくらいしかないよ」

「風ってどういう風?」

「なんか、とりあえず赤いの」

「じゃあそれとそれでいい。顔洗って来る」言いながら、のろのろと廊下に出る。

 洗面所に入りながら、ラックから適当なタオルを引っ張り出した。

 鏡の中に、まだ起きてない顔があって、なんだか非常に映りが悪かった。

 これを見たら、自分がステージ上で歌い、踊っている姿なんて想像も出来ない。

 でも実際、今のところは月に〇、一回のペースで二十人くらい入るライブハウスか、ショッピングモールか、市民会館の会議室Bとかで、ファン交流イベントのような物をやってるわけだ。映像に残った自分と、今の自分と、違うところと言えば両脇に誰も居ない事くらい。

 そう考えると急に右肩の方が重くなって、隈田さんの呪いだなって思わなくもない。

 顔を洗い、歯を磨き、爪を切り。

 体を半身にして、服を後ろに突っ張りながら胸を張って鏡に映してみる。

 ファンの人から、いや。

 もはやファンとは言いたくない人から『貧乳特化グループなのかな』って言われた。

 無いわけじゃないけどなあ、とは思う。

 Cはあくまで貧界でのデカい担当だとか、谷間が出来ない時点で誤差の範囲だとか。

 両脇からも色々言われたけど。何か、他の何にも期待出来ないからせめて顔と体くらいは役に立てろという圧を感じた。だからブログとか、仕事の連絡とかで頑張ってるのに。……そういえば、そろそろ何か更新しないと。昔の写真とかで間を埋められたらいいんだけど。


 返信。

 隈田さんは『全部デジタルに移してるから時間掛かります』というメッセージ。

 カノンは『実家人居ないから無理』と画面越しに言った。

 母は「ご飯食べる時くらいはスマホ見るのやめなさい」と言った。

 淡泊なもので、自分に関しても「衣装部屋のタンスかどこかにあるから適当に探して」と言われて急に面倒になってきてしまった。唐辛子の匂い。鼻に違和感を覚えながら、小さく小さくフォークに麺を巻いて、だらだらと啜った。

 ワイドショーでは、キャラを纏ったままのお笑い芸人が教育など語っていた。

 子供も同じような貴族風の格好をしていないと、逆に説得力ないなって思った。

 カノンは休憩中だ。

 ちょうど、マコちゃんに手招きされたカノンが、器具を内側から破壊する部品のように収まったマコちゃんの横に、腕組みをして立っていた。マコちゃんの太くて高い雄叫びのようなカウントを聴きながら、不意に飽きてしまった様子のカノンがカメラに近付いて来る。

 スマホが置いてあったベンチに跨がり、腿の間に両手を置いてカメラを覗いた。

 シャツの襟が弛んで、平坦で真っ暗な胸筋の入り口が見える。

『胸元見えてますよ』と気遣える風を装った堅苦しいコメントが流れる。

「おっとおっと。悪いカメラだ。え、もうスクショした?」とカノンが言う。

『今日は何時まで?』

「うーん、夕方まではやらないかな。サウナ行って、それからスタジオ」

『他の二人は筋トレしないの?』

「二人とも休みの日は休みたいんだって。観てるかな、さとるちゃん、レレ子?」

 ちょうど『成果が分からないからスポブラだけになれ』と言い出したコメントの、アカウント名は「RE」と「ドット」の繰り返しで、意味のないラリーを繰り返した電子メール、らしいけど、やった事がないから分からない。しかもセミコロンじゃないらしい。何が。

 チャット欄が少し沸いた。

「はあ? あ、これレレ子か。成果って、成果……ええ?」

『カノンがすごいたくしくまくなったと感じるのこの頃ですが』

「たく、し……たくましくか。誤字誤字。そんななってないし、なってないよ?」

『着替えの時とかに見てるだろ』

『配信で脱いじゃダメ』

『あとでアーカイブ消しましょう』

『同年代の女子として参考にしたいかも』

 なんだこの人狼ゲーム。コメント……やめとくか。休みたいから。

 交差した両手をシャツの裾に掛けたカノンの背後では、呻き声が続いている。

 黒い人毛のような物に全身を包まれたマコちゃんの、手と足だけが露出して、脱出しようと藻掻いてるようにも見えた。顔は見えない。タンクトップも、ハーフパンツも、どこの筋肉も見えない。今や彼は手足が生えた繊維の塊となって、トレーニング器具に挟まっていた。

 思わずスマホに顔を近付けてしまって「取り上げるよ」と母に叱られる。

「ちょっと、待って。カノンが」

「カノンちゃん何してるの?」

「なんだろ……シャツ脱ごうとしてる。配信で」

「ちょっと、大丈夫なの? やめさせた方がいいんじゃないの?」

「やめたら、ヤバいかも」

 チャット欄の反応はキレイに三等分だった。

 脱がない方がいい。スポブラは出しても問題ない。マコちゃんはどうなってる。

 ただし何かそれを恐れるべき事態だと思っているらしい人は、均等に少ない。

 そんな中で唯一、隈田さんらしいアカウントだけが『塩かけてみて。塩』と突拍子もない事を言い出して、それで立ち上がったカノンがマコちゃんらしい物体と器具の方へ向かい、それから壁に貼ってある紙に、鼻が当たる直前まで顔を近付けた。

『見えてないのかな』が良い方で『もっとよく見てー』が良くない方。

 隈田さんはといえば、直接連絡してきた。

「さとぴ、今日午後空いてたら一時に池袋で大丈夫ですか?」

「え、なにが?」

 という砕けた口調を聞き付け、仕事の連絡ではないと気付いた母が少し嫌な顔をした。

 上げていた箸を下ろし、麺を皿に置いた。

「カノンの様子を見に行きたいので、とりあえず一緒に来ていただくとして」

「としないで。何で池袋? 大泉から近いんだっけ?」

「そうですね。それとあとは、カノンの居場所なんですけど」

「ジムの場所知らないから聞いとけって事ね。何で行きたいの?」

「塩、掛けてみたくて」

 何も言えなくなる。

 母はテレビに百、こっちに一くらいの割合で意識を向けて来る。その呆れたような顔に向かって、これから塩を掛けに行く、なんて言い出せるわけもない。「分かったけど、ちょっと時間掛かるかも。準備しないと」

「オシャ番張るって言っといて、すっぴんジャージが透けて見えますが?」

「すっぴんジャージはカノンもね。今どうなったかな」

「筋トレしてます。トレーナーの人は大きくなってる。じゃあまた後で」

 一方的に切られ、なんだか他人と他人の会話を盗み聞きしていたような気分になる。

 パソコンで見てたのか。どうでもいいけど、カノンの居場所を知るには、カノン自身に尋ねるか、配信のチャット欄に調べさせるか、自分で調べるか、面倒だからダイモンさんに聞いてみる事にした。連絡先、……大門匡邦。あった。

 一瞬で出る。「どうした?」

「あ、早村です。お疲れ様です。カノンのジムって」

「ジム? ああ、トレーニングやってるんだったな。真虎さんの所で」

「観てないんですか?」

「なな、何をだ?」震え声。

 なんだこの人、脱がしたい派かな。「場所分かりますか?」

「ああそれなら、埼玉にあるって言ってたな、戸田の方、分かるか?」

「分かりません。調べます。ありがとうございました」

「ああ、今日の」ぶっつり。

 電話を切って、箸に巻いといた麺を啜った。

 母が少し様子を窺ってから、ねえ、と声を掛けてきた。「お仕事?」

「ちがう、隈田さんが、なんか、一緒にお出かけしませんかってお誘い」

「ふうん、仲良くやってんだ」

 どうだか、と口に出かかる。「まあ、まあ」

 コップの中身を空にし、母は新しいコーラを注いだ。一舐めもしないで、傾けたコップの水面を見ながら、母が言う。「心配なのよ。先週もどこからどこだっけ、一週間くらい出たまんま、ずっと泊まりで。それこそ変なお接待とかさせられたりしてないかって不安で」

「泊まる場所、現場と現場の途中だから、仕事先の人居ない」

「そうなの?」

「お母さんだって、外泊承諾書書いたじゃん。大丈夫だと思ったからじゃないの」

「一晩くらいだと思ってたから。それに」言葉を区切り、コップをテーブルに置く。続く言葉をまだ考えてなかった様子で、今度はスプーンに手が伸びる。「修学旅行だって行ってないんだから、そうやって色んな所に行ったりするのは良い事だと思って」

「大変だよ。ずっと移動か打ち合わせか移動中に打ち合わせしてるから」

「やっぱそうなんだ」

「泊まる所は、マネージャーさんが温泉好きだから、一番調べてるみたいだけど」

「いいな、温泉。それって三人で一緒にお風呂入ったりするの?」

「一緒っていうか、時間無いから一緒に行くけど、一緒に何するとかって話じゃ」

 麺を啜る。コーラを飲む。ふと思い出して、時計を見上げる。正午を過ぎていた。「ああもう準備しないと。ごちそうさま」食器を下げようとすると、一緒に食べちゃうから、と母が言うので、お皿だけ残してシンクに置いた。部屋に戻る。服、化粧、カバン。

 まあ遅れるって言ってあるから遅れても何も言われないだろう。


 改札を抜けると、目の前に黒い日傘を差した女の子が立っていた。

 デイリーの入り口横の壁に凭れて、傘の骨の間からこっちを睨んでいる。

 悪目立ちが過ぎるから、急いで駆け寄るととにかく傘だけはすぐに畳ませた。

 大きな襟の付いたワンピースに、薄手のタイツを履いて、初夏の陽気に汗一つ掻いてないのが不思議なくらいだ。髪は黒く、下の方だけ青みがかっている。それは肩に付くか付かないくらいの所で横切りにされ、蒼白な顔面には、うっすらと化粧をしてるようだけど、ほとんどは大きなマスクで隠されていた。踵の高いパンプス。両手首に紐みたいな時計。

 拳一つ入らないような小さな小さなショルダーバッグ。

 そして寝不足みたいな目は、隈を強調したメイクで、さも恨みがましく睨んで来る。

 左手に持っていたタピオカミルクティーのストローを唇に挟み、離す。

 どこで買ったんだろうか、まあそれはいい。

「一時半になるって言って二十九分に来たんだったら、仕方なくない?」

「そんな準備しなければ、すぐ来れたんじゃないですか?」

 恨みがましい目、マスクの下に鋭い犬歯が透けて見えそうだ。

「そんなにはしてないけど」オーバーサイズのトップスにデニムを穿いて、ポケットにスマホと財布だけ突っ込んで走って来た人間に対して、少し厳しすぎるような気もする。とりあえず切符売り場まで歩き始めると、背後に音もなく付き従う気配が感じられる。

 千円チャージすれば、足りないって事はないだろう。

 と思っていたら、急に引っ張られ、転びそうになった。

 ベルトループに指を掛けられる。「いくらですか」と隈田さんが聞く。

「え、えーっと、切符買うの?」

「というより、自分で払った事がなくて。どこで降りるんですか?」

「戸田公園」と言っても、路線図の見方も分からない隈田さんの為に、わざわざ駅を探してやって、ここで乗る、ここで乗り換える、ここで降りるを逐一説明してあげた。一回で全て分かったか、人に任せればいい事が分かったかした様子で、すぐに切符を購入する。

 改札を抜け、ホームに降りたら隈田さんが真っ先にベンチに腰を下ろした。

 その隣に立って案内板を確かめる。十一分って、結構、昼間にしては待たされる。

「あの人、実家が埼玉だから、ジムも家の近所だって、ダイモンさんが」

「え、でもカノンって今、寮に住んでるのでは?」

 と言い、ドゥルドゥル、と啜り、前屈みになって線路の先に目を向ける。

 初耳だ。「寮なんてあったんだ、誰と?」

「寮というか、事務所がマンション一部屋借りてるんですけど、部屋がいくつかあって家具も揃ってて」空中をなぞる指は、ちょうど三部屋を区切っている。更にリビング、キッチン、風呂トイレが別。「共同生活出来ないからってその部屋にカノン一人で住んでますね」

「いや、それ。聞いてないんだけど」

「二人とも実家近いから、ってダイモンさんが黙ってただけですが」と見上げて来る隈田さんの目は、こちらの納得も折り込み済みで、渋る様子を肴に喉を潤そうとする寸前、ふと思い付いて言葉を足した。「どうせ遠征でほとんど居られないので」まあそれはそう。

「でも事務所が借りてる部屋なら防音とかしっかりしてそうだし、動画撮ったりとか」

「動画?」

「ダンスの。短いやつ」

「そんなの後追いでやっても誰も見ないじゃないですかあ」

「三人の何かが観たいって思った人の為に、遡れた方がいいでしょ」

 まだしっくり来てない隈田さんには、ダンス以外の物を撮らせるしかない。

 カノンで言う筋トレが、隈田さんだと何になるんだろう。それが隈田さん一人だけで出来てしまえる物なら、あとの自分は、何をしたらいいのか分からなくなってしまう。「それに三人で集まって自主練とかも出来るしね」

「練習は、一人でやっとくんで」

「本当に?」色良い返事の代わりに、轟音が足元から湧いて来る。「来たね電車」

 ホームに滑り込んで来た電車が完全に停止する前に、隈田さんはドアの目の前まで走っていった。ホームドアが無ければ、鼻の頭か、胸……は無いけど、削られてたかもしれない。降りる人の間を縫うように車内に駆け込む。やっと乗り込むと、既に二席を確保している隈田さんに手招きをされる。向かい合わせの、横の二人掛け。

 車内は座席が半分くらい埋まって、立っている乗客も一人二人は居た。

 隈田さんはスマホを出している。

 画面には、海藻のように揺れる、人毛のようにも見える黒い繊維に、足を拘束されたカノンが、まるで操られているように一心不乱にウェイトを上げていた。大胸筋、三角筋、広背筋を異形にいじめられたカノンは、悲痛な表情を壁に向けている。

 マコちゃんが居たところは部屋の半分を埋める黒い塊になっていた。

 コメントも、もう訳が分からない。

『スゴく、オイしいよ』『見ないで見ないで見ないで見ないで』『目』『た時母は走って来た車に撥ねられ道路を転がり千切れた足が排水口の蓋に引っ』『か のん ちゃあ』『安物のスポブラに汗染みが浮いてる姿って変な意味じゃなく良いんだよ』……あ、これは現世か。

「コメント、バグってるね」と聞く。

 隈田さんは無言で微かに顎を引き、頷く。

「問題はこれが、どの時点でバグったのかですね」と隈田さんが言った。「デタラメに表示されてるだけなのか、何かしらの意図があって改竄してるのか、実際に打ち込んでる人達が錯乱してるんだとしたら、解決に時間が掛かるかもしれない」

「一人明らかに錯乱してる人居るけど。汗染みって。嫌でしょ普通に」

「え、どれですか」

 言われる間にもコメントは流れ、チャット欄を遡るコマンドも、画面外のどこに配置されてるのかが思い出せない。「いい、なんでもない」と切り上げ、カノンの姿に注目する。女子だって、カノンだって、汗をかいたら汗臭くなるだけだ。一人だけ、一時間も二時間も平気で動き続ける体力は凄いけど、汗臭くはなる。次いで動ける隈田さんは涼しい顔をしてる。

 自分は、一年以上ほとんど歩く事もしなかったから、しょうがない。

 匂いも分からないけど、消臭スプレーとか汗拭きシートとか多めに用意してある。

「解決って、何?」

「カノン、何かに取り憑かれてるみたいなんで、除霊? かな」

「まあ、画面上はね。でも配信もされてるし、誰かが先に行くんじゃないの」

「他の人が気付いてるなら」気付いてる人かのように、隈田さんは自信満々だった。「フェイクだとしてもガチだとしても、誰かが通報すればすぐ強制終了されますよ。それなのに、配信がずっと続いてて、誰も何も問題にもしてなくて。SNSでも……あっ」

 全角シャープを口に突っ込んだような悲しい顔を見て、全てを察した。

「まあ話題性のない無名アイドルが勝手にやってる生配信なんて誰も観てないよね」

「まずファンを増やさないと、カノンの今後が心配って事ですね」

「さっきエロ配信になりかけてたのに、視聴者が増えてもそれはそれで心配だけど」

 次の駅がそろそろ近付いて来て、乗客がそろそろと立ち上がり始めた。

 隈田さんが乱暴にタッチパネルを指で叩き始めたので、何かと思って横目で窺う。すぐにスマホを脚の上に投げ出して、隈田さんはつまらなそうに「スクショできない」と言った。画面は真っ暗で、文字化けしたコメントが高速で流れていく。

 たとえば糸偏に連れるっていう例の化け文字が現れたり、米印が並んだりだ。

 

 階段を下りる間に、隈田さんは周りも気にしないで日傘を開いた。

 仰け反って避ける間に、駅から出て二人で歩道の真ん中に立ち止まった。

 二台の自転車が前と後ろを走り抜け、ロータリーの脇道に入っていく。五、六階建てのビルに挟まれた狭い通りは、スナックや居酒屋と、駐輪場がせめぎ合っている。とりあえず隈田さんの腕を引いて、案内板の前まで連れて行った。

「タイガーマッスルスタジオですね」

「ああ、そんな名前だったかな。待って、場所調べるから」

 スマホを起動する間に、隈田さんはふらふらと動いて、案内板とか、タクシーのナンバーとかを眺めている。戻って来ると、今度はスマホを覗き込む。「個人経営なので、ビルかマンションの一室でやってるのでは。この辺りは飲食系が多いから、もう少し住宅地の方に」

「そうなんだけど、駅のワイファイが見付からなくて」

「歩きながらで良くないですか」

 良くはない。けど、気付いた時にはもう傘が曲がり角に消えて行きそうだった。

 急いで追い掛け、またスマホを見て、それから横に並んだ。「こっちなの?」

「たぶん。右だなって思ったので」

「それは、何をどこから見て?」

「地図をパソコンから」

「じゃあ……だから東口を南、下にって事でいいのかな。こっちだと」

 と、正面を見ると、交差点の先が斜めに折れて、見えなくなっている。傘が上がり、横を見ると隈田さんに見上げられていた。眠そうだった目が見開き、惚けた様子で、半開きの口に小さな鋭い歯が並んでいる。隈田さんが言う。「地図読めるんですか?」

「得意じゃないけど、駅から一箇所くらいは覚えないとしょうがないでしょ」

「駅は、でも線路にぶつかって曲がればそのうち着くから」

 都心部の、単線だったらそれでいいかもしれないけど。

 やっと諦めて地図アプリを起動し、一応、真虎新司の名前から検索して『タイガーマッスルスタジオ』と入力する。駅から、東口を、北に向かう線が伸びる。「あ、逆だった」でも国道に近いみたいだから、なんとなく合流できたらいいなあ、と左に曲がってみる。

 まだ目をキラキラさせてる隈田さんの前で間違えたくはない。

 途中でコンビニに寄って、お菓子とジュースを買いながら、なんとなく北に向かう。

 ロータリーに入る道は狭く、国道が近付いて来ると、目印になりそうな交差点で曲がる。

 地図アプリ上でも、この辺り、としか表示されなくなり、一帯を回りながら一軒ずつ確かめて行くしかない。ビル、ビル、商工会館。だけど多くはシャッターが閉じた個人商店。細い路地に野良猫を見つけ、隈田さんが駆け寄っていった。すぐに戻って来る。

「シャーって言わなかった」言って欲しかったのか。「すぐお腹見せてきた」

 そしてやっと、最初の方に見上げたビルの一室に調べたかった名前を見つける。

 第一ビル、一階は行政書士事務所だった。

 階段を上がって、怪しい看板を一つ一つ巡っていく。

 五階に『タイガーマッスルスタジオ』の看板があった。

 ドアを押す。受付に大柄な男性が座っていて、奥の様子は分からなかった。

 どろりと垂れて落ちるような、濃くて、関心の薄い視線が、不快を催させる。

「ゴニュウカイですか?」と太ましい声で聞かれ、最初ビルの五階に関する何かを聞かれたのだと思った。カウンターに入会案内の用紙が重ねられていた。一枚手に取る。「所長の真虎新司を始め、優秀なトレーナー達が好きな時間にマンツーマンの指導でトレーニング」みたいな事が書いてあって、会費とか、禁止事項とか、そういうのはいいや。

 隈田さんがずっと後ろに隠れてるので、仕方ない。一応聞いてみるか。

「今友達が中に居るはずなんですけど、ちょっと用があって」

「友達。っていうのは、うちの会員の事ですか。その人の名前は?」

「加賀崎海音。二十歳くらいで、金髪で、背が……普通くらいの」

「ふうむ」考え込み、時間が過ぎる、一分近く。台帳をパラパラと捲って、一年後の未来を覗き見ている。「本来はそういうのやってないんですけど」と受付の男性が言う。「今日はその人しか居ないから、確認取れたら、いいですよ。お二人、名前を教えて頂いても?」

「早村聡瑠と、隈田麗々子です。あの、知ってたりとか……」

「はい、加賀崎さんが知ってたら、お友達って事すね」受付の男性が立ち上がる。身長は百七十以上で、隈田さんは特に圧倒されている。「確認して来ますので」そう言って、奥のドアを開けようとした受付の男性が、手が固まっている。ドアノブは捻り、回った。

 ドアがうんともすんとも、まるで壁に描かれた絵のように動かない。

 飾りドアっていう可能性も、なくはない。

 本来建物が無い所だったり、入れない場所だったりに、テーマパークや、呪われた豪邸だったら、そういう物も作られるだろうけど。そのドアしか、ビルの中に入る方法がない、唯一のドアが開かないはずがない。こちらを一瞥して、受付の男性はドアノブを離した。

 その重厚な肩でぶつかってドアごとぶち破るのを諦めたみたいだった。

「開かないんですか?」背後から不躾な質問が飛ぶ。慌てて肩の後ろを見やる。

 受付の男性は、隈田さんが見えてるのか。

 そっと横に動くと、いきなり隈田さんが飛び出して、ドアの前に立った。

 受付の男性にスマホを見せる。「これが中の様子なんですけど。こっちがカノンで」どっちが誰かって、言わないと分からないのなら、言っても判別が付かない状況なのでは。そう思いながら、あんまりドアに近付きたくなかった。

 受付の男性が、腰を深く屈めて画面を見ていた。「あの、でも真虎さんは」

「ここの真っ黒なのがそうらしいって。あの、もういいですか」

 カメラモードに切り替え、隈田さんがドアを撮影し始めた。横向きに持って、カメラを向けたままにしているので、ゆっくり背後に寄って、画面を見てみる。

 急に首だけ振り返って、隈田さんが言う。「何か漏れ出てるみたい」

「なんか、楽しそうだね、隈田さん。こういうの好きなの?」

「レレ子でいいよ。好きっていうか……まだ分からないですが」

 好きな類のあれか、否かの分類がそんなに細かいのか知らないけど。

 受付の男性が聞いた。「開かないのでは。どうしましょうか?」

「配信の映像に何か、干渉できませんか。音でも、明かり消すのでも」

「明かりですか。いいですけど」それが何になるのか、という批判が何になるのかと、自信を喪失した受付の男性が、トイレがある方の通路に姿を消した。受付の明かりが消え、また灯って、それから受付の男性が戻って、聞く。「何か変わりましたか?」

「配信画面には変化なかったです」

「はあ。……あの、もう。ドアをぶち破っても構いませんか?」

「別にこっちは弁償とかするわけじゃないんで」

 それもそうか、と思ったわけでもないけど。

 受付の男性は意を決し、ほんのタックル二発でドアをぶち破ってしまった。


 薄暗い部屋の中には靄が掛かり、息を吐く音と、汗の熱気と、湿気が篭っていた。

 一番に踏み込もうとした隈田さんが慌てて引き返し、拳一つも入らない小さなショルダーバッグを開けた。ビニール袋に包まれた白い粉末が出て来る。結晶は、怪しい薬にも見え、そうでなければ食塩にも見えた。「これを撒いて来てください」

 と塩が受付の男性に手渡される。

 汗の熱気と、湿気の中に入って、戻って来れば全身に同じ物が付着しそうなのに。

「なんですかこれ」と受付の男性が聞く。

 隈田さんが答える。「お清めのロージンですか」なんで聞き返すの。

 受付の男性が渋々と頷き、部屋に入った途端、急に膝が力を失い、ふらふらと壁か、懸垂用のバーにでも掴まろうとして、そのまま床にへたり込んだ。戸口の所で隈田さんが、ドアノブを掴んでいる。そしてドアを、閉めてしまった。

「え、ちょっと。受付の人、気失いそうになってたけど」

「カノンも、トレーナーの人もね。この部屋入ったらやばそう」

「じゃあどうするの。除霊? するんじゃないの」

「それはこっちで」と見せて来たスマホには、トゥゲキャスの配信画面が映っていた。

 ドアに背を預け、足を突っ張って、絶対に開かないように耐えている。

 配信画面では、受付の男性が加わって、ベンチの上でバーを上げ下げしていた。バーベルではない。その胴体に絡み付いたのと同様に、バーの両端には黒い繊維状の物が塊となって、ウェイトの代わりになっていた。「うわ、筋トレしてる」隈田さんが嘆いた。

 カメラから遠いので、よく見えないけどベンチの脇に白い袋があるようだ。

「じゃあ除霊は?」と聞く。

 隈田さんは腹立たしげに画面を見ながら首を振った。

 こうなると部屋に入った人間は、片っ端から終わりのないトレーニングに取り憑かれ、何かを、何かに吸い取られ続ける事になるようだ。それだけならまだしも、オーバーワークで体が壊れるか、疲れからバーベルを落としてしまえば、首を破壊されるかもしれない。

 そうならない為の時間的な猶予も分からないし、解決策も分からない。

「隈田さんは、入ったら塩撒けるの?」

 聞いといてだけど、撒いたら祓えるという前提が、実は上手く飲み込めてない。

「分からない」と素直な答えが返ってきた。「トレーニングには興味ないけど」

「興味関係ある?」

「無さそう。やらずに済むのか、やってしかもすぐに力尽きるのかもしれない」

 今はもう受付の男性が正気を取り戻すのを待つしかない。

 コメントはもう、ほとんど意味を為していなかった。

「一回開けてみたりしないの?」

「やりたいなら自分で、どうぞ」と隈田さんがドアから離れた。

 そう言われると、筋トレに取り込まれる恐怖が勝って、ドアノブにも触れられない。

 画面内では三人がそれぞれ体に負荷を掛け続けていて、刻々と弱っているようだった。

 腕を目一杯伸ばし、ドアノブを捻り、少しだけ開ける。

 尻が見える。

 スパッツの下には二つの、破壊槌が収まっていた。産毛すらもない、皮膚がパキっとした小麦色の太腿が微かに開いて、床に伸びている。「あれ、気絶してる」一瞬、覗き込もうとした時に、その熱気と、薄暗さに負けて、気付いたらドアを叩き付けていた。

 よく考えれば、さっき破られたドアは、ドアノブを捻らずともガタガタ揺れる。

 押し付けた手を離す事も出来ず、腕を突っ張ったまま首を横に向ける。

「隈田さん」呼び掛け、聞くべき事は何か分からない。「気絶してた」

「配信の映像自体は夢の世界の出来事を映してるのかもしれないですね」

「それだと、何?」

「さあ。映像の方にも塩はあるので、除霊は出来そうですが」

 塩撒いたら除霊出来ると仮定した場合はね。

「何か他に、干渉する方法は無いの?」

「その前にまず今見えたお尻を蹴っ飛ばしてでも起こしてみるとか」

「やだ無理、怖いって。それで起きても」

 隈田さんがまたドアの背を預け、開かないようにドアを固定した。

「あとは、空調くらいでは。エアコン。マッチョの人って寒さに弱いので」

「弱いの?」

「弱そうなので。筋トレやめるか、上手く行けば目を覚ますかも」

「どこで操作するのかな?」

「一番ありそうなのは部屋の中の手前の壁とか。画面に映ってるかな」と隈田さんが画面に目を近付け、離し、スマホを回して、引っくり返した。半ば引っ手繰って観てみるけど、やっぱり何も分からなかった。照明のスイッチかも、スピーカーの調節かも、何でもないかもしれない物なら壁に付いていて、それならエアコンも十分にあり得た。

 ただ、それの為に部屋の中に手を突っ込んでみるような勇気は無かった。

 それで言えば、受付だってある程度は涼しくなっている。

「こっちの冷房強くして、ドア開けたまま外出てみる?」と言ってみる。

 隈田さんは真剣に悩んでいた。

 顎に手を当て、眉間を寄せて、何か不服そうな様子が伝わって来る。

「ひとまずは」やっと重い口が開く。「じゃあ、こっちのリモコン探さないと」


 ドアを開けると、向こうから窓越しに日が差してくる。

 終わったのか、と思った。まず尻が見えた。

 塩の入ったビニール袋を手に持ったまま、受付の男性が気を失っている。

 カノンは壁際の方で床に倒れ、ほとんど止まったような寝息を立てている。

 塩まみれになったマコちゃんが器具に収まったまま呆然としていた。

 そして配信は設定されていた時間が経過し、自動終了した。

 という事は。「ああもう帰って準備して、レッスンスタジオ行かないと」

「何を準備するんですか。服着替えるだけじゃないですか」と隈田さんが言う。

 隈田さんは壁際に倒れているカノンを、爪先で小突いて体を前後に揺らしていた。

 ようやく目を開けたカノンは、体を起こすと急に体を震わせて、天井を睨んだ。そして眩しそうに目を細めると、やっと隈田さんに気付いた。「ねえ、レレ子、シャツ脱がなくても筋トレの成果くらい見たら分かるでしょ」と眠そうな声で言い、シャツの襟を寛げた。

 そのまま両腕を摩り、カノンの体は急に半分の半分くらいに縮んだように見えた。

「でもファンの人達が、……とりあえず時間も時間だし着替えて出た方がいいのでは」

「え、もう」不満そうに、目でマコちゃんを探す。「あれ、真虎さん?」

「ああ」とマコちゃんが虚ろな返事をした。「そろそろ時間か。何だ、この」

「あ、じゃあ先に外出てるね」と言い、隈田さんの手を引いて、さっさと退散する。

 受付、靴を履き、そして階段に行くにつれて、気温は一足飛びに上がっていった。

 その押し留めるような熱気も、今は心地よい気がする。

「除霊、出来たの、あれ?」と隈田さんに聞く。

 隈田さんは甘すぎる野菜ジュースにストローを挿し、言った。「取り憑かれてる方が清められたって意識を持てば、呪い未満の現象はほとんどが快方に向かう気がするので。ダメだったらそれこそ、もっと力技に頼るしかなかったけれども。火災報知器作動させるとか」

「それもそれでどうかと思うけど、カノンも起きたからあれで良かったんじゃないの」

 ドアから出て来たカノンが更衣室へ向かい、シャワー室へ向かった。

 次に受付の男性が出て来て、その人は無理矢理マコちゃんの肩を借りていた。

 身長差だけ見れば萌えの類だけど、どちらも首から下が濃すぎる。

「加賀崎さんの友達だね」マコちゃんが言い、受付の男性を椅子に座らせた。「わざわざ迎えに来て貰ったところ悪いんだけど、今はこいつの面倒見ないといけないから」そう言いながらも空調を調節したり、水やタオルを用意しているマコちゃんに、お構い無く、みたいな事を言おうとしたのだけど、もうこっちを見てもいなかった。

 十五分後、カノンが出て来て「一緒に帰ろう」と言ってきた。

 なんかもうきっと、何があったのかも覚えてなさそうだ。

 配信のアーカイブはまだ公開設定になってないけど、カノンを下手に怖がらせるのも良くないので、特に触れないでおいた。あとで何か言われるかもしれないけど。三人で一緒の電車に乗り、途中でカノンが乗り換え、隈田さんが親にメッセージを送り、途中で降りて行った。

 家に帰ると、まだ三時過ぎだった。

「もうそろそろ車出す?」と母に聞かれる。まだいい、と答えた。

 ジャージと屋内用のシューズをスポーツバッグに詰めて、玄関に放り投げた。

 レッスンスタジオは事務所の近くにあって、これもビルの二階に入っている。ドアを開けると既にカノンが居て、今の今まで操作していたスマホを、壁に立て掛けようとしているところだった。それを取り上げて、聞く。「何してるの?」

「始まるまでにちょっと配信でもして」

「いやもうダメでしょ。今日は」

「ええ、そんな残酷な事言う」両手を頬に当て、如何にもらしくショックを受ける。

「カノンまた気絶するかもしれないから」と言ってみたものの、自分が巻き込まれたくないのは明白だった。開け放たれた窓の下では、ダイモンさんが運転席の母に話し掛けているのが見えた。家に送り届ける旨など伝えているようだ。もう何回もやってる事なのに、熱心な人だと思った。順番も、まずカノンが最初で、最後が一番遠くに住んでる隈田さん。

 だから時間的にも微妙な、個別に迎えに行くほどでもないけど、っていうところ。

 それに待つには長すぎる。

「さとるちゃん、いつもダイモンさんの事見てるね」

「うわっ」急に後ろに居て、心臓が破裂しそうになる。「そんな事ないけど」

 後ろから肩を掴まれ、窓の外を眺めるカノンの金色の髪が視界の端に入って来る。

「そんなダイモンさんが、雑談配信くらいならいちいち許可いらないって」

「筋トレしながらシャツ脱ぎそうになってもいいの?」

「あう、それは。成果が見たいってレレ子が言うから」

「成果出てる?」

「そのうちね」と言い、ぐっと手に力を込めたけど、さして強くはない。「見たい?」

「着替えの時見てるけど、そうだ。安物のスポブラはやめなよ。見られてるから」

「どこ見てんの。さとるちゃん結構変だよね」

「そうでもないよ」そして隈田さんは全然来ない。

 塩を撒く為だけに駅で待ち呆けてたさっきとは大違いだ。

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