第4話 てっぺんまで(そして降りるだけ)


 大嫌いなマスタードの/匂いと冷たい指の形。

 噛み付いたのはぼくと/骨の中に埋もれた言葉。

 帰らなきゃ。

 帰らなきゃ/五時になる前に。

 煙になって僕を待ってる人が居るから。(さようなら、遊園地)


「では、ここで問題です」

 園長の錦間大生さんは問う。

 ピンと張った指先に灰色の曇天が重なり、乾いた空気には鉄っぽい匂いが充満する。

「こちらの遊具、バイキングと言うんですが」

「はい」と食い気味に元気よく答えたのはカノンだ。

 カノンは度の入っていない大きな黒縁メガネを掛けている。

 ブラウスの上にパーカーを羽織り、チェック柄のスカートは二度も折って、裾が太腿の付け根まで上がっている。でも足元は持参したスニーカーで、靴下も踝までしかない。寒風に晒された白い脚は輪をかけて青白くなり、分厚く重ねたコピー用紙みたいになっている。

 そんな格好をするのに気合以外の何も必要ないと言う。

「では、加賀崎くん」と、園長も先生みたいにカノンを指名した。

 カノンは淡々と答える。「海賊船だから」

 カメラの画角外から不正解のブザーが鳴り、カノンが手を下ろした。

「うわー、正解されたかと思った」とは思わなかったけど、可哀想すぎて何か言ってた。

「問題は最後まで聞きましょうね」園長が手を下ろし、言う。「ここにある物は、途中で二つの関節が付いとって、それによって船は振り子んように動きよりますが、全てのアームの回転方向が一致した時、座席部分は最高時速何キロまで出るでしょう?」

 カノンは両手で口元を覆い、他の二人が解答するのを待っていた。

 まるで、数字を擦り合わせるだけの不毛なレースを自ら降りたように、緩んだ口元こそ見えないものの、すっかり安心しきっていた。させるものかと思う。「あの」と言い、小さく手を挙げる。園長がすぐに気付いた。

「答えが分かりましたか?」

「分からないから、三人で一番答えが遠かった人が乗るって事にしませんか?」

 嫌な提案だと自分でも思うけど、こうでもしないといくらでも降りてしまえる。

 向こうでディレクターさんが頭の上でマルを作り、スタッフに指示を出す。スケッチブックとマジックペンが三つずつ、屈んで横から回り込んで来たADさんからレレ子に手渡され、どーも、と小さく呟いたレレ子の代わりに、ありがとうございます、と言う。

 その行為自体より、そこでのレレ子の不遜とか小心を見逃してくれた事に。

「ええですが、近かった人が、ではなく?」

「えーと、逆に」

「そうですか。じゃあ、書いてください。あ、ヒントですね、一段の場合、およそ三十五キロで、自転車よりは早いくらいになっとります」

「へー、むしろ自転車ってそんなスピード出るものなんですか?」

「さとぴ、移動全部車だもんね。分かんないか」カノンが顔も上げずに言う。

「ちょっとは歩くって。駐車場まで降りてく時とか」

 三十秒が経ち、なんとなく出題者に一番近いという事で、まず自分が、百。

 カノンが、百五。

「あ、待って待って。違った」レレ子は慌てて書き直して、百一。

 何かとんでもない不正を感じるけど何がって説明出来ないからスルーした。

「正解は」と言って、園長はディレクターさんの方を見て、慌てて答えを溜める。「残念、そこまで速くはならんのですね、正解は九十、という事で一番近いのは早村さんでした」

「わーい、ちかーい」

 喜びきれずに困惑している横で、レレ子に素早く腕を掴まれたカノンが、マジックペンもスケッチブックも放り出して、今にも駆け出しそうな格好をしていた。突っ張った腕に、レレ子も両手で縋り付き、どっちが聞き分けのない子供か分からないくらいだ。

「カノン、楽しみすぎて向き間違えてる。こっちだよ、こっち」

 そんなわけないけど、嫌がってる、ってハッキリ言うのも違うだろう。

「それでは、加賀崎くんに乗って来てもらいましょう、いってらっしゃーい」

「しゃーい。早く行きなってカノン」

「うえぇ、マジで。うっ……吐きそう。し、下でエチケット袋構えといてよ」

 胃液が真下に落ちるような、優しい乗り物じゃないと思うけど。


 大島レアリティーランドは今年いっぱいで閉園する事になった。

 正式にアナウンスされたのは半年前だ。

 出演オファーが来たのが九月頃で、現在は十一月の下旬、週明けの月曜日だった。

 だから園内は閑散としていた。

 まだ降り出しそうな気配のある曇り空がそうさせたのかもしれない。

 閉園が迫ってるっていう寂しさがそうさせたのかもしれない。師走の頭っていう忙しそうな日付がそうさせたのかもしれない。それでもやっぱり、閉園するだけの理由があるから人が来ないだけなのかもしれない。

 ちなみに園長の趣味ではない。

 制作チームの誰かの趣味でもない。

 でも何やら制服でテーマパークに出入りするのが流行っている事、閉園に際して卒業や青春のような切ない雰囲気を演出したい事、出演者がちょうど十代後半くらいの女子で構成されている事から、制服を着せよう、と誰かが発案し、ダイモンがそれに賛成したらしい。

 嫌とまでは言わないけど、こういうのを相談されないのは。

 じゃあでも嫌か……、嫌だった。

 スタイリストの女性は事前に『プレッピードール』の入っているデパートまで行って、教わったプロフィールだけを頼りに三人分の衣装を買って来てくれていた。

 ブラウスは少し大きくてもいいし、それだと卒業の時期っぽくは無くなるけど、スカートもアジャスターで多少は調節できるから、問題は不摂生コンビのカノンとレレ子の衣装がブカブカだった場合だけど、実際それでレレ子はショーパンを重ねて嵩増ししている。

 ブラウスに縞のネクタイ、袖なしのニットベストと、黒いローファー。

「さとぴ、スカート長くない?」とカノンに言われる、チェック柄のプリーツスカート。「下にタイツまで履いて、しかもグレーって、わざと疎い感じ出してる痛いJKじゃん」

「寒いんだから、いいでしょ別に。もう高校生でもないし」

「だった事すらないのでは?」とレレ子まで後ろから追い打ちしてきた。

「レレ子は、学校セーラーだったっけ。市松人形みたいだから似合ってたでしょ」

「着物ですらない!」意図と違う所で驚かれる。「ブレザーと、私服もありだったので」

「いーなー、私服。うちセーラーだった」

「カノンはずっとジャージでしょ。一緒一緒」って、レレ子の在学中も同じような話をした気がするけど、現役の頃とは違い、思い出話として語らうフェーズに来ているらしい。今日、鏡で見た時は一瞬「まだ行けるじゃん」って思ったのに、頭の中は年寄り臭くなっている。

 すっかりおじさん……いや、おばさん……いやいや、なんか、大人って事だ。

「そっか、じゃあ、さとぴ制服で遊んだ事もないんだね」

「中学の時は、……ジャージで遊んだ事なら、何回かあるよ」

「いいからいいから、今日だけはさとぴでもジョシコーセーなんだよ」

 カノンに肩をポンポン叩かれると、それを払い除ける前に、逆の肩をレレ子に鷲掴みにされてて、もうジョシコーセーからは逃れられない。「別にいいけど、ジョシコーセーになったとして具体的に何するの?」詳しそうなのは、カノンの方か。「ダルそうにすればいい?」

「そういうのじゃなくて、自撮りとか?」

「あー、せっかく制服着たしね、あとでブログに上げていいか聞いとくか」

「そういう……」顎に力みすぎて、声が篭っている。「仕事の話じゃなくって」

「いや、上げるのはいいでしょ」

「上げるのとブログに上げていいか聞くのは違うのよ」なんて文句を言いながら、カノンはスマホを取りに行った。カバンを開けると、片手で縁を掴み、片手で底の方から引っ掻き回し始める。水と、シャツくらいしか持ち歩かないのに、なんで物が見付からないんだろう。

「違うんだ」まあ話聞いといた方がいいか。「レレ子似合ってるね、それ」

 レレ子だけ胸にリボンを付けて、ワンサイズ大きめのカーディガンを羽織っている。

 英字とか動物のワッペンが付いていて、子供、というか、子供部屋っぽいデザインだ。

 そして「え、なにが?」と聞き返すレレ子の、両耳の後ろで小さな髪の房が揺れる。

 小さく結んだだけの髪型が、小さな子にはよく似合う。

「おさげ。いつも髪結んどいたらいいのに」

「分け目が」と振り返ると、後頭部には雷みたいな青いジグザグの線が走っていた。

「え、それくらいやるよ?」

「難しいとかではなくて、単純に時間が掛かるので、あ、これは面倒だなと」

 そんなに掛からないのにと思っていると、スタイリストさんが入って来た。「着替えは終わりましたか?」段取りの説明と、場当たりが始まる前に、スタイリストさんは写真を撮るのを待っててくれた。それから、特に頼んでもいないのに一緒に入ってくれた。

 SSK企画のディレクターの佐々木朔郎氏はCWBGの楽曲を知っていた。

「『さようなら、遊園地』というタイトルを見た時にビビッと来たんです」と言って、その曲が入っているわけでもない、グループが唯一発売したCDを見せてきた。それはジャケットに三人とも写っていないという異様なCDだった。「レアランの閉園記念特番を受けた時から色々と企画は考えていたんです。それこそ創園当時のスタッフを探すとか、有名キャラクターと大々的にコラボするとか、園内全体を使って謎解きイベントを開催するとか」

 プロデューサー、カメラマン、そして園長さんが同じテーブルに付いている。

「しかし予算の都合もありまして、今回は園内を巡るロケ映像を撮る事になりました」

「イベントって、何人くらい人が来る想定だったんですか?」とダイモンが聞いた。

「特に人数は想定していませんでしたけど、まあ一日に五、六百も来ればいい方かと」

 しかし問題は、問題はというか、結論は動画が公式サイトで観られるという、ありがたみの無い話だった。「閉園は地元のニュース番組でも取り上げられます。来月の中旬頃に、お三方にはもう一度PR大使として出演していただくとして、本日は稼働している遊具を八箇所、巡っていただいてですね」台本に書かれている順番では、メリーゴーランド、ストレートスライダー、サブマリンアドベンチャー、バレルボートライド、フリーフォール、ジェットコースター、ミラーハウス、トリプルバイキングを巡るという、わりとガタガタの構成で、園内マップと照らし合わせてみると、大体時計回りに進めるようになっていた。「レポートをしていただいて、最後にイベントスペースで『さようなら、遊園地』を披露するという流れですね」

 カノンが手を挙げる。「それってライブですか?」

「はい。ただ映像としても残したいので、出来れば前の方には観客を入れない方向で」

 よっぽど大盛況なら話は変わるだろうけど、そんな事はまずないだろうけど。

「ダイモンさん」隣に居たマネージャーはさっきからCDを見てそわそわしていた。「来月中旬って話だけど、この後また東北の方でスキー場でイベントか何かに出るって言ってなかったですか」そう尋ねると、ダイモンはやっと水から上がったように、スマホで息をし始めた。

「そうだな、戻って来る形になるから、移動は新幹線になるかもしれないな」

 ダイモンに合わせて、自然と小声になる。「車よりはいいです」

「じゃあ機材のチェックの後、オープニングから撮影を始めて行きたいと思います」


「はいカット。ありがとうございます。遊具ブロック撮影はこれで以上になります」

 ディレクターの佐々木氏が合図をすると録画が止まり、カノンは地面に手と膝を付いて、四つん這いのまま何か音にも形にもならない嗚咽を口に溜めた。完全に停止したはずなのに、バイキングの支柱は、地鳴りを一点に集めたような重厚な軋り音を響かせていた。

 あと、それこそ一年も動かしていたら、大事故にでもなっていそうだ。

 スタイリストさんがベンチコートを持って来た。

 それを羽織って、カノンの肩にも羽織らせてやると、カノンの震えが少しだけ小さくなってきたようにも見える。レレ子はダイモンの尻にしがみついていた。普段はろくに説明も聞かないくせに、温かいならダイモンが息絶えた直後だとしても構わないんじゃないかと思う。

 レレ子には色々と甘いから、レレ子かレレ子の母親と、ちょっと怪しまれている。

「カノン、ラマーズ法。息ゆっくり、七秒吸って十秒止めて七秒吐いて」

「すぅーーー、……」と、何も考えてない顔になり、驚いたような顔になる。「っはあ、苦しい、無理! なんで十秒も息」ごにょごにょごにょ、と途中から言葉にならなくなった音が地面に向かって吐き出された。背中を擦りながら、コートの裾を直した。その時ふと、太腿の裏からほとんど尻の近くまで、誰かに見られていないか気掛かりになる。

 スタッフの人達はカメラの映像を確認したり、段取りを話し合ったりして、すぐにイベントスペースの方へ向かってしまった。園長も聴いていくつもりだろうけど、何か心苦しい、後ろめたい感じがする。

 さようなら、遊園地。

 それは何かを突き付けるような。

 佐々木氏が来て、カノンを一瞥し、ダイモンにも聴こえるように話しかけて来た。「だいぶ疲れてましたか、特に最後の方」その声はディレクターにしては小さい。顎鬚に、伸び放題の髪は、無職が長かったような陰気な風貌で、あんまり頼りなかった。

「あ、すいません。あんなに一度に乗った事なくて」

「フリーフォールだけで、三度か。ちょっと良くない企画だったかな」

 落ちる間に、園内に散りばめられた文字を探すとかいう、体当たりな企画。

 むしろ肩でぶつかって来るような企画、だったかも。

 あまりにも文字が多く、統一感が無くて、一体何の事かと思ったら、地元にまつわる単語をいくつも組み立てられる文字だった。それが分かってれば、推理のしようもあったのに、一度は疲労の山を越えたタイミングだったせいで、もう一回行きます、もう一回、もう一回、と後半はほぼ無反応で乗りまくってしまった。昼食前で本当に良かった。

「あれって、勝ったら何か貰えるんですか?」

「あ……」と言い、なぜか照れ始める。「考えとくよ。そっちの子大丈夫?」

「大丈……」そういえば佐々木氏、カノンの足側から現れたか。「じゃないです」

「そう」と頷き、また振り返る。「大門さん、準備に少し時間が掛かるみたいなので、ちょっと休憩にしましょう。この後、音響チェックとリハーサルをして、日没前くらいに始まればと思ってるので」左手首を見ながら、佐々木氏が言った。「一時間半後には」

「ああ、はい。分かりました。結構タイトですね」

「ちょうど売店があるので、良かったらこちらで……あ、歌の前は食べないですか」

 やっとカノンが落ち着きを取り戻し、子鹿のように震えながら立ち上がった。

「前と言っても、一時間半後ですので」

「なら良かったです。おーい、AD! ちょっと来い」と呼ぶ声も、上司が部下を呼ぶようだけど、声はやっぱり頼りない。上も下も黒い服の、メガネを掛けた青年が作業を止め、不安そうに駆け付けた。「売店の人に、支払いは後でするって言っといて。あと、一応休憩中も回しといて。じゃあ」とダイモンを見る。仕事モードの目だ。「あとの事はADに」

 佐々木氏が去ってしまうと、近くには誰も居なくなった。

 売店に走っていったADが、こっちに向かって手を振っている。

 まずレレ子と、背中を押されたダイモンに続いて、全員でぞろぞろと歩き出した。

 売店は、ワゴンみたいな小部屋に、カウンターと小窓が付いていて、中に小さな調理場と冷蔵庫が設置されていた。メニューは壁と、立て看板にもあって、観光地価格の軽食やドリンクが写真付きで並んでいる。「あ、ダイエットコーラください」とカノンが言った。

 売り子の女性が用意している間に、レレ子がメニューの前に膝に手を置いて屈んだ。

 小さくて頼りない膝は、コートの下で、まるでスカートも何も穿いてないみたいだ。

「ホットドッグだ」とレレ子が言った。

「番組側でお支払いするので、好きな物を注文して構いません」とADが言う。

「食べたくはないですけども」

「いいのか?」とダイモンが尋ねる。

「じゃあ何でホットドッグに反応したの」とレレ子に聞いた。

「なんか、簡単に作れそうなのに、わざわざ作ろうとはしないなって思いまして」

 飲み物を受け取ったカノンは、ADから自撮り棒を受け取り、スマホのカメラをこちらに向けている。「だから、こういう場所で余計に食べたくなるんじゃないの?」と言いながら、カノンの方が気になる。ストローを離し、赤い舌先が唇を舐めている。

 ADが売店から少し離れた場所に移動していた。

「でも簡単に作れそうなのに?」

「だったらパンとウィンナー買って作りなよ」

「さとぴ、それは千日手」指を突き付けられた。売り子の女性が、退屈そうにカウンターの外を眺めている。「あんなのどうせ、自分の指がパンに挟まってるの気付かないで食べようとしたら、これはケチャップかマスタードが合うなって思ったのが始まりじゃないですか」

「そうなの?」

「知りませんが」

「変な想像しないで。普通に……ダイモンさん、大丈夫ですか」

 なぜか口元を手で覆い、お腹も押さえていた。バイキングに乗せられたのでなければ、話の流れからして、指を食べた事があるとでも言いそうな様子だ。「ジンノ、あいつが……いや、なんでもない。そういう曲があったんだよ。没歌詞だけどな。あれはグロかった」

「あの、お水か何か貰えますか。あー、烏龍茶でもいいです」

「氷は」と売り子の女性に聞かれたので、少し考えて断った。

 受け取ろうとすると、ダイモンがカウンターに肘を置いて「大丈夫だから」と言った、その顔は青褪めていた。その隣で、レレ子は「ハニーチュロスください」と売り子に告げ、両手をカウンターに引っ掛けて、懸垂の要領で、飛び跳ねて体重を預けていた。

 まさか小部屋がまるごと倒れたりはしないと思うけど。

「まだ撮ってるの。体調悪いマネージャーの映像なんて使わないでしょ」

 カノンに話し掛けたつもりだったけど「せっかくだし」と答えるカノンの向こうから、ADの人が顔を上げて「OPEDの素材にしたりとか」と言った。「それと、もし他にも気になる遊具があれば、行って来ても構わないですけど、一応カメラは回しといてください」

「だって、レレ子。そういえばお化け屋敷はいいの?」

「いいよ」咄嗟に反応したのはカノンだった。スマホを振って、ちょっと睨まれる。

 レレ子は白けた目をしたまま答えた。「お化け屋敷は偽物なので」

「その方がいいよ」本物も、集まって来そうな場所ではあるけど。

「どこでもいいなら、一回ロケバスに戻りたい」とカノンが言った。

「駐車場まで行って、また戻って来るんじゃ、全然休めないと思うよ」

「そういえば」とダイモンが口を開く。「今日まだ観覧車にも乗ってなかったな」

 行って来たらどうだ、と言い、ダイモンが烏龍茶を半分まで飲み干した。


 天を突く歯車は、傾き始めた西日に照らされ、支柱の錆さえも明らかになる。

 案内板には『31stコグライド』と書かれていた。

 柵の向こう、階段を上がると、丸みを帯びた広い溝があって、その左端と真ん中辺りの空中にゴンドラが制止していた。階段の所にはチェーンが張られている。そこで、園長が後ろに手を組んで観覧車を見上げていた。「最近は、暇があったら園内を歩いとるんです」

「あ、そうなんですか。そういうのも楽しそうですね」

「終わりだと思うと、来るものがあります」と言い、改めてこちらを見た園長が、三人とも制服姿な事に気付いて、心配そうに「もう準備は終わりよったですか?」と聞いた。映像に残るなら、と仕方なくベンチコートを脱いで来ただけで、寒いのは寒い。だからレレ子のも脱がしてやりたいのだけど、万が一、奪って羽織るっていう展開も有り得る。

「まだ掛かるみたいだから、その間に何か一個乗ろうかと思って」と答えた。

 園長は寂しげに笑った。「ああ、気付かんで。観覧車、動かした方がええですか」

「お願いします。あ、すぐに乗れるんですか?」

「五分くらいしたら」と園長が答え、マスターキーを取り出した。「一周が二十分くらい掛かるんですが、時間は大丈夫そうですか」その質問に頷くと、園長はチェーンを跨いで、制御室の方に向かった。何か操を作する間、三人で動かない観覧車を見上げていた。

「高いね。これって、観覧車でも高い方なのかな」

 レレ子が案内板を指差す。「五十メートルくらいだから、平均?」

「うちらみたい」と言って、カノンがスマホを押し付けて来る。「うちらみたいだね」

「そうだね。それでゴンドラが、三十一個か。え、奇数なんだ」

 スマホが右に傾く。「珍しいの?」

「いや、知らないけど、奇数なんだって思って」

「元々は三十二だったけど、何か事故があって」物思いに耽りながら、レレ子がその場を右往左往し始める。「それで一個欠けた、みたいな話なのでは。普通に落下したのか。それか、天に上って行ったりなんかしたのか」

 カノンの肩を叩いてやると、重大なニュースに耳を傾けるような顔をする。

「欠けてる所ないよ」と言う。「支柱も等間隔だし、最初から三十一個なんじゃないの」

「でも、さとぴ。回転するのに奇数だとバランスが悪そうじゃないですか?」

「バランスか、悪そうではあるけど。でもそれは作った人が上手くやったんだと思うよ」

 園長が出てきて、階段の上から手招きしていた。

「そろそろ動きよるんで、どうぞ」

 その瞬間、全支柱が傲然と鳴り、微細なズレを修正するようにゴンドラが動き出すと、そのまま時計回りに回転し始めた。レレ子に急かされ、急いで階段を上ると、ちょうど来たコンドラの扉を、園長が開けていた。レレ子が飛び乗る。手を引いて貰って、スマホを受け取り、最後にカノンが飛び乗った。「緊急時以外は中から開けんように、気を付けてください」

 そう言って園長が扉を閉めると、地面がゆっくりと離れていった。

 窓の外には観覧車周辺エリアから、従業員が二人近付いて来るのが見える。

 最低でも何人か、稼働中の観覧車に付いていないといけない、のでは。

「これ、十四番だった」とレレ子が天井を見上げながら言う。「十三番が良かったな」

「誕生日か何かだっけ?」とスマホを向け、カノンが聞いた。

 代わりに答えてやる。「なんか、不吉な数字のやつでしょ」

「絞首台の階段数ですが。ちなみに下の階段は十七段だったけども」

「いや、やめてよ。良かった十四で」

 ほっと胸を撫で下ろすカノンに、わざわざカメラのレンズを覗き込みながら、レレ子は真面目ぶった顔で「でも一と四で縊死とも読めるから。あ、縊り死ぬと書いてイシね」と言い出した。使われるかもしれない映像に何を。と思ったけど「っていうか、不吉な番号って飛ばされるから、ここが十三個目って可能性もあるか」って、思い付いた事を呟いてしまった。

「や、やめてよ!」カノンが怒り、窓の外にカメラを向ける。

 レレ子は座席に膝を乗せて、それでちょっと揺れたのだけど、意に介さず一個前のゴンドラを見上げて「あれ、誰か乗ってるのでは?」と言い出した。ただようやくカノンの手を振り払って窓の外を見上げた時は、もうゴンドラ内が見えないくらいに高低差が付いていた。

「気のせいでしょ」さすがに、寒気もする。「そういえば、振り付け覚えてる?」

「遊園地の?」とカノンが聞き、首を傾げる。「昨日やったし、大丈夫だよ、ね?」

「えあ? まあその、二人を見てれば大丈夫だと」

「早めに戻って動画確認しよう」と言っても、公式で上げたMVの事で、しかも印象の強い文字を並べるだけのハイセンスな映像なので、完成しないパズルを眺めるようなものだ。「せっかくだし何か、ここに因んだ動きでも入れたらどうかなって思ったんだけど」

 ダイモンでも出来る編集といえば、文字、文字、文字! ってだけ。

「ここ……レアランって、なんかダンスとか、分かりやすいマスコットとか」

「あ、一つあります!」元気よく床に飛び降り、またゴンドラを揺らしたレレ子は、人差し指同士、親指同士を繋げた円を鳩尾の辺りに置き、それを横、且つ上に、ちょうど六時から九時の範囲で動かし、そこで人差し指を、卵でも割るようにパカっと開いた。「観覧車ぁ」

 と言って、嫌味ったらしく口の端をひん曲げながらカノンの方を見つめている。

「不吉な事しないで。職員さんに怒られるよ。そんな簡単に割れないから」

 丈夫さを示すように、靴底で床を踏みそうになったけど、怖いからやめた。

「あ、あっ、そういう!」遅れて気付いたカノンが指を突き付ける。「怖い事、言うのは、って……っひぃ、なに!」その手を急に引っ込めて、カノンが天井を見上げる。そこには何も無いけど、じゃあカノンの手に付着して、その一部が床に垂れた赤黒い液体は、どこから来たんだろう。まるでカノンの手から垂れたように、ぽつぽつと床に丸い滴の痕が付いている。

 レレ子が窓の上を見上げるけど、丸みを帯びたガラスの向こうは灰色の空だ。

 一つ前のゴンドラはそろそろ真上に来ようとしている。

「見えないけど、あれだろうね」レレ子が確信めいた口調で言う。「てっぺんの辺りまで行ったら分かると思うけど」

「わ、わわ、分かるって、何が?」

 スマホが震え、画面の中のレレ子が二重にブレて、どちらも消えそうになる。

 その自撮り棒の固定する部分に赤い汚れが付いている事に、カノンは気づかない。

 あるいは、気づかないフリをして、自分が怖がってはいないように見せかけている。

「この観覧車って、昔何かあったの?」

「さとぴ、やめて。聞かないで」

 怯えるのも分かるけど、カノン、肩を掴んでるその手、血で汚れてないかな。

 自撮り棒を受け取っておこうとカノンの手に触れると、指が固く強張ってて外れない。

「来る前に調べましたが」とレレ子が言い、カノンが頭を振って耳を塞いだ。「ジェットコースターが二、サブマリンが四、駐車場で十七、従業員が二。なんだかんだ五十年くらい前からある遊園地だから、すぐ出て来るのがこのくらいって、良い方だなと思いまして」

「良い、事はないんじゃないの」

「まあ。でも時期的にニュースで取り上げないわけにはいかない事故もあったから」

「っていうかわざわざそういう事……っていうか、観覧車入ってないじゃん」

「水中系の方が多くなるのは、注目されてるって事だし、あとはヒーローショーでスタントに失敗して、っていうのもあって。でもこれって、本当にしょうがない事なので」

「な、なんでそんなの黙ってたのよ、今まで!」

 カノンは窓ガラスまで後退り、スマホのカメラを突き付けて、レレ子を問い詰める。

 最初レレ子が何も言わなくて、その理由も明らかだったので、話題を変えてあげようと思ったのだけど、レレ子は観念した様子でゆっくりと口を開いた。「何か起こる前から、こんな事故があって、これだけ犠牲になって、って言い出した方がおかしいのでは、と」

「お、おかしいに決まってるよ、そんなの」とカノンは非難するかのように認めた。

 その前髪に赤い滴が落ち、カノンは前髪に触れ、撃たれる勢いで仰け反った。

「カノン、そんな所に立ってたら危ないよ」って一滴も汚れてないのはレレ子だけだ。


 ゴンドラを支える支柱が、水平よりも上に傾き始めていた。

「てっぺんに行ったら、何しますか?」レレ子がぼんやりと聞く。

 カノンは困惑している。「え、キス、とか? いやうちらカップルじゃないのに」

 少し考えて「一斉にジャンプ?」と聞いて、違うなと自分でも思う。

「さとぴのは特に違うけど。お祓いとか」と言いかけ、レレ子はスカートのポケットに手を伸ばした。ファスナーの隣に垂れているだけの小さな袋は、何か入れるとプリーツを浮かせて目立ってしまう。ナプキンとか、そういう物を。「ああっ、ダメだ。ロザリオが無い」

 それはどういうお祓い?

「レレ子、でも、何か起こるって決まったわけじゃないのよね」

「もう起こってますが。カノンさん、これで済むと思っておられる?」

 激しく首を縦に振るカノンと、何かコツコツとガラスを叩く音が聴こえる。

 肩を震わせ、カノンがわざわざ立ち上がって四方の窓に目をやる。「雨……雹?」

「降ってないけど」

「じゃあ何、っひぃ、どこ、だれ、なんで?」遂に床を這って来たカノンが脚に縋り付いてきて、その体が水のように冷たくなってる事に気付かされた。悪寒が上って来て、それが繰り返されると、震えになる。スマホは扉を映している。「さとぴ、今の何の音?」

 そんな事よりも、カノンの膝で赤い水滴が掠れて伸びて、すごく気になるんだけど。

「ヤモリでも這ってるような」とレレ子が言う。「あ、あそこだ」

 その部分のガラスには赤い水滴が付いていた。

 カノンに付着する物自体は少なくなっていた。まるで真上に何も無くなったから、そうなったみたいだったけど、代わりにガラスの支点側に水滴が付着して、風も無いのに、それが揺れた。というより、指か何かを押し付けたように、いきなり広がったように見えた。

 それこそヤモリでも這っていて、赤い水滴を踏み付けたかのように。

「ところで、そろそろ前のゴンドラの中が見えそうですけども」

「見なくていい、から。見ないで」

「うん、だから撮りたいのでスマホを貸して欲しいなと」奪い取ろうと、レレ子の手がスマホに触れた瞬間、カノンが自撮り棒を胸に抱え込んで拒んだ。深追いはしなかったけど、いつでも受け取れると言うように、レレ子は胸元のスマホに触れ続けている。

「てっぺんに着いたら、お祓いして、あと十分くらいで降りれるし」

「下りの方が早いかもしれないし」とレレ子も言う。いや、そうだったかな。

 窓ガラスや、天井では、今もずっと何かの足音がゴンドラの外側を這い回っている。

 支点側のガラスに付着した水滴が広がり、掠れて、全体が赤く汚れたように見える。

 淡々と時間が過ぎ、そしてそれは、地面から離れるだけの時間で、苦悩を和らげる要素は何も無かった。レレ子は遂に奪い取ったスマホで、周りの風景を撮り始めた。「山に囲まれてるから景色は良くないですね。湖もなんか、上から見ると意外と小さいかもしれない」

 シンプルに良くない事を言っている。「あ、ダイモンが打ち合わせしてる」

「あの人、こっちで何が起きてるか気付いてないの?」

「気づくも何も、下から見たら普通に回ってるだけなのでは」

 そんな事あるか……それも、遠いからってだけで。

 もはや楽しみなんて無くて、思えば最初から無かったような気がした。

 三人で乗れば何か楽しい事が起こる、なんて本気で思ってたわけじゃない。最初から、三人で何かする時は怖い目に遭う事の方が多いって分かってた。だからって、何もしなくなるわけにもいかないだろう。窓の上の方に見えてた一個前のゴンドラは、少しずつ下がっている。てっぺんに近付いて、そしてそこを過ぎれば、あとは下りるだけだ。

 緊張する瞬間は、前のゴンドラと、自分達のゴンドラの間がてっぺんを通る間だけだ。

 その瞬間だけ、隣を、それか窓の外を見なければ、あとは何も見なくて済む。

「そろそろ前の、十二か十三のゴンドラがてっぺんに着きますが」

 とレレ子が何かを勧めるように話し掛けて来るので、カノンが固く目を閉じ、その表情を凝視しているしかなかった。三、二、とカウントダウンを始めたレレ子の声が、止まる。ゴンドラが揺れる。それは、もしかしたらそれは、慣性力で、前に傾いただけだった。

 支柱は既に停まっていて、そしてゴンドラも空中で停まってしまった。

「レレ子、どうしたの?」

「何かトラブルみたいですね。スタッフの人達が観覧車の周りに集まってます」

「それってすぐ直りそう?」

「分からないですけど、停電、とかではないみたいなので」最悪の場合、支柱を伝って梯子を下りていくか、クレーン車やヘリコプターによって救助される事になるのか。そんなのは怖いやら、恥ずかしいやらで来てもいない内から足が竦んだ。

「じゃあ何なの?」と何の根拠もない怒りをカノンが露わにした。

 宥めようと思い、ふと目の端に何かがちらついて、息が詰まる。苦しくなる。

 人の肩に顔を埋めていて、カノン自身は何も見ていないし、何も見なくても済んでしまっていて、そしてレレ子が指を立てて、シーっ、と注意してきても、引き攣った喉は、何か、音を立てようと瞬く間に歪んでいくし、その原因となった光景からは目が離せなかった。

 レレ子も、前のゴンドラの窓際に、人影が見える事に気付いたようだった。

 影というか、あまりにも青白い輪郭の中に、どうしてもそれが人の、顔だと思える要素はないけど、周りが暗くて、黒い髪が伸びているようにも見えると、小さな点が目と口を表しているようにも見えて来る。それが全てだった。その時、金具が弾けるような音が鳴った。

 空気が揺れ、寒風に全身を包まれて、凍りついたように体が動かなくなった。

 閂が外れ、開くはずのないゴンドラの扉が開いている。

 すぐにレレ子が扉の縁に這って行って、慎重に下を覗き、それから上を向いた。

 反対側の壁に背中を押し付け、カノンと二人、身を寄せ合ってレレ子を見守った。ふと思い立って、ほとんど骨しかない足首を掴み、何か命綱にでもなろうとした。「ちょっと、危ないので。何で掴んでるんですか」本当に危ないと思ってるから、足は暴れたりもしない。

「だって、落ちそうだから」

「だからって掴んでたら落ちる時三人で落ちるようになるだけでは?」

 手を離し、カノンの体も離す。ゆっくりと這って行ってレレ子の腰に触れ、腕を回すとペットボトルを手に取るくらい細く感じた。ふっ、ふっ、と笑いが洩れ、身を捩りながら「さわらないで」とレレ子にしては焦った言い方をする。擽ったいのか、コート着てるのに。

 両腕で抱えると、犬よりも弱々しく感じた。

「一人でも、落ちたらやだよ。もう少し下がるか、ちゃんと掴んでおくかして」

「さとぴ、リーダーみたい」感慨深げだけど、一瞥も振り返らない。手を縁から外に出して、レレ子が空中に触れる。上から下に。叩くような動作は、空中でぴたりと止まる。肌を打つような鈍い音は、風の中に溶けて聴こえない。レレ子はもう少し手を伸ばし、指を曲げて空中に引っ掛けた。「見えないけど、階段ありますね。ワンチャン、降りられるかも?」

「それって、上に? 下にじゃないの?」カノンが喚いている。

「あっ」それは良い、とでも思ったらしいレレ子は顔を上げ、ふとそこには雲の切れ間から光が差し込んでいる。「ジェイコブス、ラダー、……もしかして本当に天国に通じてる?」眩しそうに目を細め、現実に存在しない何かを見る。手は愛おしそうに虚空を撫でている。

「上が天国なら、下降りても地獄に落ちるんじゃないの?」

「カノン今日冴えてるね」

「ネガティブなだけだよ」って言ってやる。カノンは無反応だ。「でも階段ってそれ、途中で切れてたりしないの? 見えないのに歩くのは危なくない?」

「そこが問題か。さっきみたいに血が垂れてくれれば」

「めっちゃ滑りそう」

「あ、でも横幅がちょうどよかったら、しがみつきながら降りれるし」

「……一応確かめて」と言うと、早速レレ子が壁の向こう側に手を回し、そちらに目を向けながら、不意に「あっ、やべ」と洩らした。何か、詳細を聞きたくない思いで、とにかくレレ子の体を手前に引っ張ってやる。柔らかい感触は、勢い余ってカノンに乗り上げたらしい。

「ごめん、大丈夫?」

 何も答えがない。

 カノンの手が口元を覆い、見開いた目は隣のゴンドラに釘付けだ。

 もう分かりきった事なのに、あえて確かめる意味なんて、どこにあるだろう。

 それでも前のゴンドラを見るしかなくて、やっぱり青白い人影が、窓辺に立って、こちらを睨んでいた。怖いけど、何に反応したのか。何がやべえのか。その人影が窓を離れ、滑るように動き、ゴンドラの外、空中に踏み出した時にも、まだ気付かなかった。

「早く閉めて」とカノンが叫んだ。「こっちに来る」

 ああ、そうか。隣のゴンドラの扉が開いている。

 空中に透明な階段だか、通路が出来ている。

 じゃあ、このまま「こっちに入って来る?」と思うと、誰も否定しない。

 腕の中から抜け出したレレ子が扉を掴もうとした。

 人影が空中を滑り、それはほとんど瞬間移動だった。

 そもそも、内側から容易に開けられる構造をしていない。という事は扉は、壁に沿うまで全開になった場合に、内側から掴むような取っ掛かりがほとんど無いのだ。構造的には欠陥だと思うのだけど、それでも半世紀近く事故が無いか、少なくともネットに出て来ないだけの、理由があった。要するにたまたま開くような事故が無かっただけだろうけど。

 下の縁を掴んで、ようやく引き寄せる事が出来た。その瞬間「いっ、たいなあ!」

 見えない階段との間に手を挟んだレレ子が慌てて手を引いた。

 見えないから、何をやってるのかと非難も飛ばしたくなるけど。

 人影は何もない空中をゆっくり、時に唐突に滑って来る。

 半ばくらいで顔がはっきりと見え、やっぱり目が二つと、口が一つ、暗い穴があって顔らしく見えるだけだった。常に揺れてるし、髪が長いのか、輪郭が黒いだけなのか分からなくて、ずっと人か人じゃないのか分からないのが、落ち着かない。

 きっとそれが分かる頃には、同じ人でない物に成り果てているかもしれない。

「レレ子! 閉めてよ!」とカノンが怒声を上げた。

 レレ子は扉から離れて座席に腰を下ろした。「無理かも」

 何をへらへらしてるんだ。

 ばん、とガラスが激しく叩かれ、青白い人影が取り付いている。

「いやああ、ぎゃああああ、こわいいい」カノンが首に肩に縋り付いて来て、身動きが出来なくなる。怖がる事も。だからって、逃げようもないし、たとえカノンを転がして、階段の形を確かめる事が出来たとして、もう逃げきれる距離じゃない。案外、この距離でも人影は人影のままで、向こうの空や、ゴンドラが透けて見えるようで、輪郭もはっきりしない。

 両手らしい部分から血管のような筋が根を張るように伸び、赤い液体が滴る。

 口らしい黒い穴が広がり、ゴンドラを揺るがすような不快な音が鳴る。

 ヤモリの這う音が聴こえる。

 頭蓋を這い回られるように音が近くて、不快だった。

 ガラスに付着した血の中に、点々と足跡が走り抜ける。

 人影が揺れた。

 その喉元が抉り取られ、どす黒い断面が見えた気がした。

「食ってる、みたいですね」レレ子が冷静に分析する。

「戦ってくれてる?」カノンが聞いた。

 レレ子がすぐに答えた。「生身の人間も食われるのでは」

 青白い人影は動じない。

 常世の存在は、恨みや妬みしかないから、自分が食われている痛みとか、恐怖を感じられないのだろう。足跡が近付いた所から、手らしい部分が消え、髪らしい暗がりが消え、青白い人影がほとんど消えていた。そしてガラス全体に赤い液体が擦れて伸びる頃には、人影らしい物はほとんど見えなくなっていた。「浄化完了」レレ子が呟く。「で、どうなりますかね」

 足音が扉の方へ動き、音はぐっと近くなった。

 すぐそこに、空気を揺らして直接聴こえるようだった。

 階段に小さな足跡が付いている。

 本当に爬虫類みたいで、どこか可愛らしい。ただし空中だから足跡は見辛かった。

 レレ子が床を這って、うつ伏せになって扉から顔を出した。手を庇に、目を凝らし、しばらく眺めていたのが、顔だけで振り返った。なんか嬉しそうな顔をしている。「階段が下まで届いてるのが確認されましたが」しかし重苦しい金属音に遮られる。「あ、動いた」

 観覧車はゆっくりと回転を再開し、ゴンドラはいつの間にかてっぺんを過ぎている。

 しかも扉が開いたままだから、依然として落ち着かないままだ。


 園長に謝られながら、急いでイベントスペースに向かった。

 レレ子は最後まで、観覧車のてっぺん辺りから点々と伸びているはずの、赤い足跡を探していたけど、地上からは余計に見辛かった。もしかしたら、本当に地獄に通じているのかもしれないし、途中で階段が途切れて、三人を転落させるつもりだったのかもしれないし、そのヤモリも下に降りるつもりで、知らずに転落してしまったのかもしれない。

 三つ目が一番悲しいけど、あんな怪しい階段を降りる方が悪い気もする。

 イベントスペースは後ろから三分の一くらいまで客席が埋まっていた。

 その前にはカメラが設置され、スタッフが慌ただしく表と裏を行き来していた。

 舞台袖の溜まりに通され、簡素な長机に三人で並ばされる。

 舞台用のメイクと、衣装はこのままらしいけど、よく見ると錆びたような赤褐色の汚れがうっすら付いている。まあ夕日が差しているから、目立たないかもしれないけど。激しいケンカでもして来たと思われないといいけど。

 ダイモンが近付いて来て、端末を机に置いた。

 物々しい歌詞が画面いっぱいに表示され、音は出ていない。

「さっき言ってた、MVだけど。振りは大丈夫そうか?」

「そっちはなんとか。リハーサルは?」

「時間ないから、軽く喋ったりなんかして引き延ばせって」

 それか最悪本当に、一曲分の動画がちゃんと撮れれば何でもいいのかもしれない。

 じゃあ何で客なんか入れたのかって思わなくもないけど。「先に別の曲やったら?」

 カノンの提案に、ダイモンが停止してしまった。

「遊園地がメインなんだから」と言い、スタイリストさんがカノンの眉に取り掛かる。

 スタイリストさんがピンボールの要領で三人の背後を忙しなく行き来している間は、何しろやる事が特に無かった。付けといて、押さえといて、開けといてって指示された時に、それをやるか、あとはずっと動画を見て、予習をするだけだ。手も動かせない。

 音を出さないと、余計に不気味な映像だった。

 それは、ダイモンが居たパンクバンドを思い出させる。

 十五秒の試聴部分しか聴いた事がないけど、なんか。……なんか、って感じ。

 メイクが終わり、水を飲みながら、ちょっと振りを合わせたりして開演を待っていると、スタッフが慌ただしく駆け込んで来た。「すみません、ちょっと遅れてます」そのまま走り去ろうとしたのを、ダイモンが無理やり引き止めて、事情を問い質した。

「誰かのイタズラかは分からないんですけど」と、なぜか怯えたような顔でスタッフが話し始めた。「ステージ上に赤い、塗料のような汚れがあって、モップで掃除してたんですが、それが全然綺麗にならなくて。それと、ステージの下で何かが動いてるみたいな音がして」

「そ、そ、それは、解決するんですか」上擦った声でダイモンが聞き返す。

「しないと困るんですけど、ちょっと今、下の方を見に行って貰ってます」

 レレ子が後ろから近付いて来て、肘を小突かれる。

「ヤモリくんもライブ観に来たみたいですね」小声でそう言うと、人差し指同士、親指同士を繋げた円を作り、それを鳩尾の辺りに置いた。「せっかくだから、ヤモリくんの為だけに特別な合図として、これを」

「いや、その。贔屓はしないよ」

「命助けて貰ったんだから、これくらい良いのでは?」

 それを言われると弱る。いや、弱らない。「ステージ汚して迷惑掛けてるし」

「それもそうか」

 頷く間に、舞台袖に人が集まって来て、園長が入って来た。

「園長、準備OKです」インカムで誰かに報告し、指示を待つ顔が切羽詰っている。

 そのスタッフは園長にマイクを渡し、カウントダウンの後、園長をステージに送った。

 まずは園長の挨拶、そして三人が呼び込まれ、そのままミニライブ。という流れ。

「CWBGさん、こちらに」

 スタッフに呼ばれ、レレ子が先に歩き出した。

「一応、音響は問題ないので、本番で調節して、出来れば一発撮りでお願いしたいと」

 わりとめちゃくちゃな事を言っている。

「あとは、マイクの具合を確かめたいので、少し園長とトークなどしていただければ」

 わりとめちゃくちゃな事を言っている。

「さっき観覧車が止まった事話していいですか」とレレ子が聞いた。

「いやダメでしょ。言いたくないし」

「それはやめてください。出来れば今日あった事などをお願いします」それはもっともな意見なんだけど、もし何も覚えてないって言ったら、このスタッフはどんな顔をするだろう。観覧車が止まるよりも衝撃的な事が、無かったわけじゃないけど。「そろそろステージの方へ」

 レレ子が楽しそうだったら、それはそれで、終わってみれば悪くない気がするから。

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