第3話 誰も居ない(だから緑じゃない)
Q1.先日アフリカ中西部で発生した紛争では解放軍と政府軍どちらを支持しますか?
分かりません。
Q2.現政権が崩壊した場合あなたは解放軍が掲げる思想を支持したいと思いますか?
分かりません。
Q3.非営利活動法人アンヘルプランニングが普段行っている活動を知っていますか?
分かりません。
Q4.その紛争地域にあった日本の柔道場がテロの標的にされた事をどう思いますか?
分かりません。
Q5.現地には他に海外のどのような商業施設または宗教施設があるかご存知ですか?
分か……まあ、ハンバーガーショップは南極以外どこにでもあるだろう。
Q6.あなたならこれらの紛争地域に行ってどんな施設を建ててみたいと思いますか?
特にないと思います。
Q7.紛争の原因である土着の信仰についてあなたはどの程度まで理解していますか?
分かりません。
Q8.その地域での女性の学力や地位を向上する為には何をするべきだと思いますか?
少なくとも。
少ないけど、アイドル活動なんてさせない方がいい、気がする。
Q9.異なる信仰を持った人々との間に衝突が起こった場合にあなたは何をしますか?
分かりません。
もう何も分からない。
もう一度、アンケート用紙を上から見返してみても、WEB討論番組の八月第一週放送分の内容に関するアンケート以外の何でもない。『ディースタジオピアー放送前線』とかいうディストピアめいた意味のない番組名も気味が悪いし、怪しいネット論客の下にゲストとして自分達の名前が並んでいるのも気味が悪い。何より気味が悪いのは、あと二枚、同じ物を違う内容で書かないといけない事だ。オカルトマニアと筋トレマニアっぽい感じで。
じゃあ今のこれは、元ひきこもりっぽい感じを出してるのか……出てるのかな。
ダイモンはこれを、なんとなくでいいから、としか言わなかった。
「分からない人に噛み砕いて説明するって流れだから、余計な事は言わなくていいよ」
「着いたぞ」とダイモンが言い、運転席に大きな体を沈めた。
ダイモンが助手席から拾い上げたスマホの充電ケーブルが突っ張った。
画面を眺めているダイモンは、仕事に関する物を確認しているようにも見えた。
ただスマートフォンという物体を観察しているだけのようにも見えた。冷房の風が当たりやすい位置でスマホを冷ましているだけのようにも見えた。だけじゃないようにも見えた。
実際は何も、アプリゲームのログインボーナスを取得すらしていない。
2対2の対立によって、冷房はそこそこに風が強く、設定温度も低くなっている。
そんな中で三列目に陣取ってタオルケットに包まり、スマホとゼロ距離でネットサーフィンをしていたレレ子は、数時間ぶりに体を起こして窓の外を覗き込んだ。カーテンの隙間、紫外線対策も兼ねたスモークガラスの向こうは、不気味に暗く光り輝いていた。
「うわっ、目をやられた」一人でふざけながらレレ子がシートに仰け反っている。
「いいから」とダイモンが言う、何がいいのだか。「早く降りろ」とも言うけど、ダイモンを含めた誰も車から降りようとしない。
フットスペースに横たわっていたカノンが顔を上げ、大あくびを慌てて手で隠した。
「着いた?」とカノンが眠そうに聞く。
「着いたぞ」とダイモンが嗄れた声で答えた。
「もう少し走ってていいのに」とカノンが答えた。
左膝の向こうの金髪は、夏を目前にプリンが拡大してるから、蜂とか、踏切とか、なんかそういう危ない感じに色が分かれていた。膝を伸ばし、カノンのジャージの尻を突いた。「おおっう、っぶないなあ!」と弓なりに反って喚くカノンは、レバーを引いて移動させるタイプの後部座席のシートに押し潰される夢でも見たらしい。
こっちだって、三時間ずっとあぐらで座ってて膝が痛いんだけど。
カノンが体を起こし、まだ眠そうな顔で、目を擦りながら車内を見回した。
目も開いてないし、髪もボサボサで、こんな状態で外には出せない。「んー、外暑そうなんだけど、さとぴ。日焼け止めは?」カノンは顔を覆ったままシートに突っ伏した。片手だけこっちに伸びて来て、手招くように、長くて細い指が動いている。
「入り口すぐそこだぞ。あとでいいだろ」
「良くないですー、一度当たった紫外線って落ちないんですー」
「これでいい?」チューブを乗せてやると手がきゅっと閉じた。ハエトリソウか……。
シートの縁から顔を出して、その下にチューブが消える。「SPF……5? 5って、ただのクリームがたまたまUVカットしただけじゃん」足元で何かボソボソ言ってると思ったらチューブが放り出された。空中でキャッチする。落ちてカノンに当たる。「いたっ」
「さっきこれで外歩いてたよカノン」
「うわ、やられた」ぽんと一つ、額に手を当てて嘆いてみせた後、カノンはシートに転がっていたナップザックに手を伸ばした。麻の巾着袋のような、この無骨な持ち物は、放浪の武芸者のようだとダイモンに言われた事があって、一時期そのイジりに耐えかねて使わなくなっていた。もう捨てたのかと思っていた。
薄手の黒い靴下のような物に右手を差し込み、指を出し、親指だけ穴に引っ掛けた。
あ、アームカバーか。カノンは左手も、肘まで黒く覆う。
縁にはレースなんか飾って、縫い目も花みたいな模様で、オシャレな靴下みたいだ。
カノンが顔を上げ、口を開け、間抜けな顔になる。「あ、いいなあレレ子のそれ」後ろを見るとレレ子が大きなサングラスを掛けて、バケットハットを被っていた。広がった台形、大きな丸が二つ、子供が描いた車みたいに見えた。
レレ子が自慢気に蔓なんか抓んでレンズの端からこちらを覗き込んで来る。
「高そうだし、レレ子なんか嫌な子役みたいになってるよ」
「子役はみんなそうでは?」レレ子が言った。
「みんなそうでもないし」じゃあ特に誰の事なのかと聞かれても、それはそれで困る。
遂にダイモンがエンジンを黙らせた次の瞬間、生温い空気は、車の中の何でもない一点から嘘のように現れた。冷房が嘘で、猛暑が真実になる。窓の外にあった光景はぐっと迫り、暖かいガラスがそのまま肌に押し付けられる、予感がした。
「準備出来たか?」
そう聞いといて、ダイモンは三人の答えを待たずに運転席のドアを開けた。
後部のトランクまで行く間にも、熱気は車内からダイモンを追い掛け、車の後部へ巡って行った。「うわ……」うんざりしたようなカノンの声に、思わず「あっつ……」と賛同したみたいな声が漏れ、レレ子は「うふふ」と笑いを堪えながら顔を強張らせていた。ちゃんと怒っているみたいだった。「降りようか」と言うと、二人が嫌そうに頷いた。
日光には質量があり、傘で避けても地面から跳ね返って来た。
カノンが背中にぴったり巻き付いている。とても暑いのだけど、カノンの傘の中でカノンに文句は言えない。まともに歩けていないから、どうも完全に顔が隠れているらしい。「ちゃんと歩いてよ」と言うと、背中で熱が震える。「何言ってるか分かんないって」
ダイモンはトランクケースを引き、数メートル先をビルに向かって歩いている。
ビルというのは、そのまんま『海辺のスタジオ』と名付けられた四階建てのビルだ。
元々はラジオ局か何かがあったのを居抜きで買い取って、映像の撮影、配信、番組の収録、そのほか録音や機材の貸し出しなど、何でも行っているらしい。ホームページによれば、地域のお祭りや学校行事の撮影、編集、地方テレビ局の番組制作への協力なども行われている。地元企業のコマーシャルも。魚介を元にしたマスコットキャラクターを使い、海が近い事をやたらと宣伝してるけど、西に五キロも十キロも下ってまで、行きたいような場所でもない。
海と言っても有名な海水浴場なんかがあるわけじゃないのに、よく言えたものだ。
田舎だけあって駐車場が広いせいで、ドアからドアへの移動時間ばかりが伸びている。
「あぁまた、こういう所か」いつの間にかカノンの後ろにピッタリくっついていたレレ子が不満そうに呟いた。「こんな、いわくなさそうな所に」
「無くていいじゃん」みたいな音が背中に直接当てられる。
「何で無さそうなの?」後ろも見ずに聞き返す。「おわっ、ちょ、待ってって」急に背中を押され、思わず声が漏れた。日陰のダイモンが眉を顰める。
つまらなそうに説明するレレ子の声は少し遠ざかっていた。「こういう人の出入りが限られてる場所は噂が広まらないし、心霊番組があっても、あんまり自分の所の局は題材にしないと思うので。むしろ夜になると活気があって怖くないじゃないですか、こういう所って」
「そうだけど。それでも何か出そうだったら噂くらい残るんじゃないの?」
「さとぴ、やめてさとぴ。調子乗るからあいつ」肩を揺すられる。
その手を掴み、剥がす。「居ないって話してるだけだって」
「調子に乗るどころか、彼らは殊勝だからこそ話してる所に出て来るんだなあ」
「やーめーてえ」首が、肩を激しく揺さぶられ、首が抜けそうになる。「こぉわいのー」
「何やってるんだ」ダイモンがドアを押して中に入る。「中では騒ぐんじゃないぞ」
カノンが手を止めた。分かりやすく落ち込んだ顔をした、その脇をレレ子が淡々と通り抜けた。「こういう所って人の配置もよく変わるし」とレレ子が言った。ガラスの向こうで、ダイモンが守衛に話し掛けている。「機材とかセットもすぐに新しい物になるし、テレビ局の怪談ってあんまり出て来ないんでね。リアルにパワハラが一番怖いって話ばっかりだよ」
「それは、そうだろうね。早く先行ってよ。暑いからここ」
「中もエントランスは暑いよ」そう言ってレレ子が中に入っていった。
傘を畳んで、それをカノンに持たせようとすると、するりと避けられる。
「ちょっと」引き止めようとしても、もう手はカノンに届かない。「傘どうするの」
ディレクターの本田寿人氏は、横分けのロン毛に丸メガネを掛けていた。
本田寿人氏はダイモンに近づくとヘッドロックを決め、物凄い勢いで会議室の隅の方に連れ去っていった。「悪かったなこんな辺鄙な所に呼び出して。ジンノがお前の事話してるの聞いたからよお」首投げをして、そのまま寝技に持ち込み、腕を取られている。
ダイモンも嬉しそうに悶えてるから、三人でそれを眺めている事しか出来ない。
「バンドのTシャツかな?」レレ子がサングラスを弄りながら小声で聞いた。
「ディレクターの人の?」
と聞くとすぐに頷く。「文字だと思うんだけれども、あの……血管みたいなのが」
「じゃあ血管なんじゃないの?」
「分裂病と腸閉塞と水銀中毒から生まれた子供達、っていう意味のノルウェー語かな」
と答えたのはカノンで、カノンはまだ背中に隠れたまま、顔だけ出していた。
分裂と、なんだそれ。「言うほどバンドなのそれ?」
「ノイジー系管楽器メタル、っぽい。ロゴはね。曲は全く聞いた事ないけど」
「便秘気味のさとぴと癇癪っぽいカノンと、お寿司好き」と、レレ子が最後に自分を指し、にんまりと頬を吊り上げる。「みたいな事だ」
「あ、自分だけズルいやつ」
「あの端っこのメンバーもカノンに似てるような」レレ子が指先を左に曲げながら指したシャツには、悪魔のようなメイクを施した辮髪の男性が、何の楽器も持たず、半裸で、仁王立ちになって左端に立っていた。メンバーは主に三人、青い炎に包まれている。
「まあ、顔はね」って満更でもなさそうにカノンが受け流した。
じゃれ合いは十五分くらい続いていた。「さて、今回三人をお呼びしたのはですね」と長テーブルの向こうから、D本田が愛想の良すぎる笑顔で話し始めた。対面に三人で横並びになって、右にレレ子、左にカノン、角を挟んで右手にダイモンが座っている。
カノンは大きなメガネを掛け、台本の隅にある余白をボールペンで擦っていた。
D本田が資料を捲る。「この度は、非営利型活動法人アンヘルプランニングの、代表を務める阿川典嗣氏が今回ゲストという事で、途上国や興新国における新たな支援について考える会を開く事になりまして、阿川氏には後でご挨拶していただくとして」
「その人はもう来てるんですか」とダイモンが質問を挟んだ。
「まだですね。C、W……えー、スリーマウスさんは初めての参加なので説明も多くなると思って早めに来て頂いたのですが、ちょっと早すぎましたかね。十八時開始で今が、十五時半過ぎか。まあまあまあ」
「すみません、三時頃には着いてたはずなんですけど」
その原因である二人はなぜか、なぜか分からないという様子で顔を見合わせた。
「そうしたらですね、アンヘルプランニングが普段行っている活動はご存知ですか?」
左から、正面に、丸メガネの奥の柔和な目が値踏みするように見つめてくる。
力士やレスラーのような、身体的余裕から来る鷹揚さが滲み出ているけど、D本田自身の体つきはむしろ細かった。カノンは俯いたまま小さく首を振り、レレ子は聞こえてないという顔をした。「軽く調べたんですけど」だから三人を代表し、答える。「途上国に柔道場を建てて格闘技を教えてる、って最初に出て来ました」
「そう、それです。学校、病院、図書館とか、そういう物は結局、ある程度のインフラや人的資源があって、ようやく機能するものです。よく耳にしませんか、井戸を作っても壊されて資材を売られるとか。根付かなければ、それは結局駐車場と一緒なんです」
「と言うと?」ダイモンが顎に手を触れ、台本に目を落とす。
「ところでアンケートを送ったと思うんですが」
「あ、それなら。待ってください確かカバンに」ダイモンが屈んで椅子の横のトランクケースに手を伸ばした。荷物を引っ掻き回すと、やたらと衣擦れの音がする。まさかとは思わないけど、書類とかと一緒に、衣装なんて物が詰め込まれてるのでは。
やっと掘り当てた紙をD本田の前に滑らせ、ダイモンが一息ついた。「どうぞ」
「ああ、なるほど。分からないと。分からない、分からない。まあそうですね」
「あの、どういう風に答えたら良かったのか」言い訳が、口をついて誰かを非難する。
何か黒い物の気配がした方を見ると、レレ子が隣で白けたような目をしていた。
「そこは全然。三人とも字は、あんまり……、移動中に書きましたか?」二枚、三枚と軽く目を通した紙をまとめてテーブルに置いた。「分かりました。放送内でどのくらい説明するかだけ、後で調整しようと思っていたんですが、ええと、柔道場の話でしたね」
それは決して長くなるような話じゃない。
要するにアンヘルプランニング代表、阿川典嗣は焦っていた。
功名を急く必要もないのに、現地を訪れる度に阿川氏は違和感を感じていた。子供達とも打ち解け、老人達の苦痛を取り除き、女性達に仕事を与えて、小さな村々を巡る度に感謝を受けたし、時には賊に襲われたり、猛獣に追い立てられたりもした。
それを充実した日々などと言ってしまうのは単なる欺瞞かもしれない。
しかし確実に何かを掴んでいる実感と、それが零れ落ちそうな不安があった。
阿川氏が見えていなかった物をようやく目にしたのは、どこからか負傷した住民が運び込まれ、彼らに治療を求めて来た時だった。同行していた医者に処置を任せ、その傍らで阿川氏は運び込まれた男性の素性を尋ねた。
その男性はアンヘルプランニングが滞在した村の住人だった。
村に設置した井戸の奪い合いが、揉め事にまで発展し、若い男性のグループが住民達を襲い始めたというのだ。その巻き添えを食ったのかと思えば、そうではない。グループの一員であった彼は、たまたま村を訪れていた人物に、仲間共々返り討ちに遭った。
その人物は白い簡素な服に、黒い帯を締めていた。農具やナイフを振るっていた男どもを片っ端から投げ飛ばし、地面に叩き付けた。特に暴れる相手には、手足を挟み込んで、鈍い音を辺りに響かせた。全てが終わると、彼は何か外国語を呟き、村から去っていった。
その時、阿川氏は違和感の正体に気付いた。
活力も野心も漲り、働き盛りであるはずの若い男性の姿を、滞在中はほとんど見掛けなかった。それなら出稼ぎに行っているものだと思い込んでいた。ではなぜ貧しいのか、働き口がどこにあるのか。そんな物はなかった。人から与えられるのを待ち、あぶれた者は誰かから奪うしかない。そういう諦めにも似た雰囲気が彼らのような人間を食らっていたのだ。
貧しい村の人々と、外から訪れる与える側の人々の双方を。
この意識を変えるには、自らを守る力と心を持たなければならない。
揉め事の真ん中を通り抜け、ただ全てを鎮めて去っていった柔道家のように。
「阿川氏はその後、別の村を放浪していた柔道家、岩村匠地を探し当て、彼らへの協力を依頼しました」D本田はまるで、見て来たように語った。「道中では毒虫に噛まれたり、誘拐されそうになったり、底なし沼に飲まれそうになったり、サバイバル能力に関してはまるっきり抜けていたものの、海外の大会で銅メダルを取った事もあるという柔道の実力だけは本物で、彼ならその国を芯の部分から変えられるかもしれない、そう思ったそうです」
「そんな人が居たんですね」と、長い沈黙の末に、やっと絞り出せた。
左も右も、右手に居るマネージャーも、特に何も感想が無いようだった。
本当は自分もだけど、全員が無言というわけにもいかない。右隣の肩を突っつくと、肘を立てて、組んだ手に額を乗せていた頭が、急に揺れた。まるで司令官のような貫禄で、寝落ちしかけていただけのようだ。「レレ子、起きてる?」と小声で聞く。
「寝てますが」と口の奥から微かに否定の声が聞こえ、ゆっくりと深く息をした。
「そんな人も出ます、今日。岩村匠地さんが。お渡しした資料にもあった通りですが」
ああ、ああそうだった、そうだ。岩村、そうだったかも。
それから簡単な段取りが説明され、レレ子の寝息は大きくなっていった。
「とまあ、段取りはそんな感じで、途中で質問などあると思いますが、それはアンケートに書いて……」ふと黙り込み、D本田はまた三枚の紙を見て溜め息をついた。「詳細はまた後にでも。四階に控室がありますので、着替えやメイクなど済んだら一階のDスタジオに向かってください。衣装は……、一応プロフィールを元にスーツを三着用意したんですが」
「あ、それってスカートですか?」カノンが手を挙げる。「スラックス?」
「両方あります」D本田が即答した。「少し大きめなので、丈は各自で調整して頂いて」
ダイモンが聞く。「舞台衣装でも大丈夫ですか。一応名刺代わりでもあるので」
「それはどちらでも。ブログに載っていた衣装なら、あれでも全然構いません」
カノンが何か言いかけ、余白にマルとバツを書いた。D本田が立ち上がった。
「そろそろ共演者の方も来ますので、スタッフとの、顔合わせも兼ねてまた四時半頃に」
とか言って、着替えとメイクだけとはいえ、三十分ちょいしか無いんだけど。
「ほら急げ急げ。時間がないぞ」と急かして来る声も、どことなく余裕が感じられて、声は遠くから聴こえた。それもそうだ。借りたカードキーでドアを開けて、トランクケースを中に放り込んでから、ダイモンはずっと廊下に立っている。
廊下から、三人が着替えを始めていると思い込んでいる。
鏡の前でスーツを体に当てただけで、カノンは机に突っ伏して寝てしまった。
レレ子は椅子に座ってスマホを見ていた。フリルの大きな襟が付いたブラウスに、裾に向かってラッパ状に広がるフリルのズボンは、レレ子の普段着だ。「地雷っぽいのにスカートじゃないんだね」と自分でもよく分かってない事を言ったら、呆れられ、鼻で笑われた。
「それは本当の地雷。足が吹っ飛んだらさすがに履くと思いますが」と言われた。
「そういうものかな」
パンタロン、というのか。
衣装に着替えたところで、廊下から話し声が聴こえてきた。
「本日の出演者のメイクを担当する本田優羽です。こちらに、C、H……」
「ああ、すいません」ゴンゴンゴン、ゴンと四つもノックの音が鳴って、同時にカノンの肩がほんの少しだけ震えた。「早村、入っていいか?」急にそんな事を言われ、真っ先に自分の服で体を隠していた。ドアのところ、ダイモンの姿はない。壁の向こうに肩が見える。
「ちょっと待って」と答え、二人を見る。「まだ大丈夫です」
「どうぞ」
とダイモンに促されて入って来たのは、黒い服を着た三十歳くらいの女性だった。
デカいショルダーバッグ、腰にもポーチを付けている。
「本田優羽です。メイクを……」と室内を見回した優羽さんは、散々迷った挙句、こっちに近付いて来て、どうですか、と聞いてきた。「準備は出来た?」茶色い髪はショート。前髪を横に分けて、後ろは刈り上げている。切れ長の目が強く、面長で口が大きい。
背も高いから、小さな子を見るように見下ろして来る。
「えーっと。まだ全然です」
「うちはリーダーが全員分やるんで」レレ子がこちらを見ずに答える。
誰、という目をするので、不服ながら手を挙げた。
「じゃあ、リーダーちゃんのだけ先にやっちゃおうか?」
壁に鏡が並んでいて、そこは化粧台になっていた。ちょうど三席あるけど、ちょうど三人で並んでやるのは気恥ずかしいので、二人が動き出さない理由が増えた。椅子に座ると、優羽さんが荷物を置き、後ろに立つ。肩に手を置かれ、横から顔を覗き込まれる。
「もうしてある感じ?」
「朝に一応。一回落とすんですか。時間に間に合うかな」
「いや、ちょっと直せばいいかな」荷物を広げながら、何度も顔を覗き込まれる。「今日はダンスとかパフォーマンスは無いみたいだから、そんなに派手な感じにしないで、綺麗目で、アップでも映りが良くなるように」
「っていうかネット配信ですよね、だったら」
「アプリとかじゃないから、画質は良いのよ。4Kも出せるって」
出さなくても、いいのでは。他の出演者おじさんばっかりなのに。
「それにリーダーちゃん……誰ちゃん?」一瞬止まる。目が更に大きく、青葉のようだ。「早村さんだ。早村さん、結構お肌とか疲れてる感じだし」
誰かが噴き出す。「肌疲れてんの、さとぴ。短気だから?」
「うるさい、レレ子。さっさと顔洗って歯磨いて衣装に着替えて」
「すぐやるので。あ、メイクの人」鏡の隅っこに、まだ座ってるレレ子が見える。スマホを操作する手を止め、珍しくレレ子が顔を上げた、と思ったら、工具を手に持っている時によく見せるような嫌な笑いを浮かべている。「ここって、何か怖い話とかあるんですか?」
「怖い話、それってお化けとかの事?」
「はい。古い建物っぽいので」
カノンが飛び起きた。「ちょっ、トイレ!」
ジャージ姿のまま、廊下に飛び出して行ったカノンの背中を見送り、それから優羽さんが話し始めた。「ここって地元のイベントにも協力しててね」肩にタオルを掛けられ、髪をクリップで上げられる。肌っていうか、顔が疲れてて眠そうに見える。隈がある。「倉庫にも、うに虎くんの着ぐるみがあるんだけど、ある日、真夏の暑い日にイベントに行った帰りで、着ぐるみ担当の人があとは片付けておくって言って着ぐるみを倉庫に連れてったのよ。後々になってよく考えたらおかしくて、他のスタッフは全員居たのに、その担当の人に支えられて、着ぐるみが自分の足でふらふらになりながら歩いてたの。でもその時は誰も気付かなくて」
レレ子は完全にスマホから目を離し、優羽さんの話に集中していた。
眉を整えられ、パウダーを叩かれ、グロスを重ねられ、特等席で話が続いた。
「その後、若いスタッフの子が倉庫に寄った時、しゅー、しゅーって空気の抜けるような音が聴こえたんだって。着ぐるみって、形を保つ為に電動のポンプで空気を入れてるんだけど、最初それかと思って、着ぐるみを調べたんだけど、萎んでて、それなのにちゃんと人の形をしてたから、不審に思って頭を取ってみると、……中でね、若い女の人が衰弱して亡くなってたんだって。服もボロボロで、痣とかがあって、口と手が縛られてて」
髪が下ろされる。「っていう話は聞いた事があるけど、あんまり怖くないかな」
「それって、誘拐って事ですか」とレレ子が聞いた。
「そう、現地で手伝ってくれた女の子が中で弱ってて、だから……ちょうどいいからそのまま連れ去って襲っちゃおうって思ったんじゃないかな、だってさ。スプレーする?」と聞かれたのが、最初何の事か分からず、優羽さんが手に持っているのを見て気付いた。
「踊らないんだったら、大丈夫です」
「髪型は、いつもこのまま下ろしてる? 少し巻こうか、真面目な番組だし」
「あ、大丈夫です」うに虎くん、可愛いって思ったのに。「レレ子、着替えは?」
「先にトイレ!」スマホを持ったまま廊下に出るレレ子とすれ違って、両手にビニール袋を持ったカノンが戻って来た。暗い顔をして、まるで生き物の死体を手放すように、持っていた荷物を机の上に放り出した。
「みんな長旅で我慢してたのかな。早村さんもトイレ行っとく?」
「平気です。あ、あとで行きます」
「あ、あのぉ!」カノンが声を上げ、カノンが近付いて来る。「本田さんって」
「どうしたの、カノン。その袋何?」
「スタッフさんから差し入れだよ。本田さんってディレクターさんの奥さん?」
「そうだよ。収録の時は音声スタッフとかもやってるけどね」
それを聞いたからか、きっと怖い思いをしたからだろうけど、カノンは急に殊勝になって着替えを始めた。知らない人が居るので、レレ子のタオルケットを体に巻いて。着替えれば早いし、完全に一人だけで衣装が着られるのは、カノンだけだった。
洗面台で顔を洗い、カノンが隣の椅子に腰を下ろし、両手を膝の上に揃えた。
「カノンさんは肌キレイね」
口の端をムズムズさせて、やっぱり嬉しそうだ。何か言ってやりたくなる。
「よく寝てるからね。浮腫んでない?」
「今日何も食べてないし水しか飲んでないから」
「え、ちょっとでもいいから、お腹に何か入れといた方がいいよ」
カノンが顔をやって貰ってる間、台本に目を通しながらカフェオレを飲んだ。
コーヒーを飲むとトイレが近くなる、小も大も。直腸で摂取するモデルの人も居る。そのうち、今度は元気のないレレ子が戻って来て、さっきと同じ位置に座り、タオルケットを体に掛けた。何か聞く前にレレ子が湿っぽい溜め息をついた。「血が付いてた」と言った。
「え、体調平気? どうする、ギリギリまで休んでる?」
「あれ、レレ子って先週もじゃない?」カノンが鏡越しに尋ねる。
「そう、だから先週お腹緩くて、今日久しぶりにちゃんと出たと思ったら」
「え、血って……お尻が切れたって事?」
俯いたまま、レレ子が小さく頷く。「ペーパーが真っ紅に染まりまして」
「番組って座ってる時間長いからね」と優羽さんが言い、見ようによっては笑いを堪えているようにも見える。「ドーナツクッションあったと思うから、あとで用意して貰うね。レレ子ちゃんはお尻温めときな」
「カノンのカバンにあれ入ってたでしょ、コットン百パーのやつ。貰いな」
「ありがてえ、ありがてえっす。ついでに、お尻も温めて貰いてえっす」
「それは嫌。それくらい自分でやって」
「ドライヤー貸そうか?」優羽さんに提案され、レレ子が慌てて首を振った。
控室を施錠し、一階に下りる。Dスタジオは奥から二番目だ。
広い部屋の一隅にカメラや照明の機材が集められている。
そして壁沿いに緑色の幕が、壁から床まで張られていて、副編集室もあるにはあるみたいだけど、コードの束は床を張って、近くの長机でパソコンや機械に繋がっていた。緑色の一画にもデザインの凝ったテーブルと、クッションの付いたスツールが並んでいて、テーブルの上にはネームプレートが置かれていた。『C・W・Bガールズ』は、略称が安定しない。
他には『政治評論家 佐野盾』
『愛国タレント 瀬戸内大寒波』
『アンヘルプランニング代表 阿川典嗣』
『柔道家 岩村匠地』
『作家 木之本∀=i』は、著書『「考える」を止める時』も置かれている。
最後に『MC キト・ウナク』で、ざっと九人が集まる事になって、なんか窮屈そうだ。
座っているのは柔道家の岩村匠地だけで、あとはスタッフと話していたり、顔すら分からないけど、まだ来ていないのかもしれない。ダイモンがD本田を探し、三人を待たせて挨拶をしに向かった。ストローで水を啜り、カノンが「またじゃれてるね」と呟いた。
「ジンノって人、ダイモンがバンド手伝ってた時の先輩かな?」
「知らないよ。たぶんそうじゃない?」
バンド時代の事を、ダイモンは狂騒と激動の時期だったとしか言わない。
「失礼、お嬢さん方。通っても良いかな」と男の声が聞こえた瞬間、カノンが背中に張り付いて来た。長身で丸坊主の男性が、入り口の所に立って、主にレレ子と向かい合っていた。「今日出演するチェリー……ぅんん、ガールズの子だね。阿川典嗣だ、よろしく」
手を差し出して来る気配を察知したレレ子が先に手を上げた。
額からずっと上に、手刀を下に向けるようにして、親指を開いている。
「握手が高いね」と言い、阿川氏がレレ子の手を下から握り返す。
「よろしくです。あの、マネージャーが今、ディレクターさんと遊んでて」
手を離し、レレ子が視線を逸らした方に阿川氏も目を向ける。「相変わらずだな。ああ、岩村さんもう来てたのか。じゃあ後で……そうだ。アイドルさんに一つ聞きたいんだけど、今って海外にも劇場を建てて興行を打っているグループが居るそうだね」
「そうだっけ?」レレ子と、後ろのカノンを見ると、カノンが無言で頷いている。
「でも途上国とかじゃなくて、単身赴任の日本人に向けてやってる感じのやつだよ」
「最初はそうだ。演者も、観客も、同じ文化を共有する」阿川氏は、返答まで分かりきっていたかのように、すぐに言葉尻を受けて投げ返した。「でも歌や踊りは、どんな国や、村にも独自の物があって、そこに入り込むには言葉と同じくらい重要なツールだ。そして、アイドルというのは、それを一定の客層や、世代に浸透させる力を持っている」
「そう、かもしれないですね」
「かもしれないんだ」確信に満ちた返答を重ねられる。
阿川氏が真っ直ぐ見据える先にある物がそれをする事になるかもしれない。
今は、それはCWBGという略称で呼ばれるような存在、かも。かも。かも。
嫌だなあ。「あ、じゃあ誰かが、そういうグループを作るかもしれないですね」
「我々アンヘルプランニングからプロデュース出来ればそれが最善だけどね」
「非営利なのに」レレ子が聞くと、阿川氏は静かに唸った。
腕を組み、そのまま横にずれた。「その辺りは、また本番で話そうか」と呟き、緑色の一画にある、テーブルへと歩いて行った。途中でD本田が阿川氏に近付き、ダイモンと一緒に話し始めると、三人はこちらを見て笑い合っていた。
「さとぴ、飛行機乗れたっけ?」
「レレ子、シャワートイレ無い所無理でしょ?」
「あ、それを!」飛び掛かって来たレレ子に腕を掴まれる。「それを言うのは!」
「だったら携帯シャワー持って船で行けば大丈夫なんじゃないの?」耳元で何か聴こえたと思ったら、肩の重みがすっと消えた。「そんな事よりダイモンが呼んでる」と言って、カノンが緑色の一画に歩き出した。テーブルが置いてある方と、もう一つ、小さなブースがあって、そっちにはカメラが固定で置いてあるだけで椅子も何も無い。
D本田がスタッフと話している間に、ダイモンがこっちに近付いて来た。
「SNS用の告知動画を撮りたいそうだ。うちのファンが集まるかは分からんが」
「じゃあ何でこれ受けたんですか」と逆に聞き返す。
「地方に根付いたアイドル、みたいな括りで、一番簡単に捕まったかららしいよ」
「先週九州で保育園のお祭りに参加しといてちょうど良かったですね」
「今週が詰まったのは、悪かったと思ってるよ。どこかで埋め合わせる」
「でも八月はイベントいっぱいあるのでは」
レレ子が聞くと、ダイモンは苦々しそうに頷いた。
「動画撮るんでしょ。早く行こうよ」とカノンが言い、一人で小さなグリーンバックのブースに向かった。カメラマンに促され、緑色の敷物を跨ぐと、その足が、というか左半身が、というか全身が見えなくなった。「あれ、あそこって緑の、何ですかあれ?」
カメラマンの人も目を擦ったり、慌ただしくファインダーを覗いたりしている。
「あれは合成で色抜く為に床と壁に緑色の幕を張ってるだけじゃないのか」
レレ子が駈け出した。「ちょっ、レレ子待って」後を追い、更にダイモンが走る。
グリーンバックのブースには誰も居ない。
レレ子はカメラマンに話し掛け、パソコンの画面を覗き込んでいた。映像では緑色の幕を背景に、カノンが一人で立ち竦んでいた。声もスピーカーから聴こえる。「え、何ここ、何で何も無いんですか。ちょっと、だ、誰かぁー」腰が引けたまま、カノンが歩き出した。カメラマンがカメラで後を追うと、幕の外に向けられたレンズは、壁と、床と、よく見れば天井まで緑色に覆われた空間を歩くカノンの姿を捉え、画面にだけ映し続けていた。
「戻って、戻って」とレレ子が誰も居ない空間に呼び掛ける。
カノンに何も反応が無いので、レレ子が近くにあったスケッチブックを破り取り『元の場所にもどって』と殴り書いて、丸めてブースに投げ込んだ。その紙は緑色の幕の上に転がっただけだった。「スマホは」とレレ子が懐から取り出し、連絡を試みる。
「いや、カノンはちゃんと置いて来るから」
というかレレ子はポケットも無い衣装のどこにスマホなんか持ってたんだろう。
「どうしたんですか、大声出してたみたいですけど」
異変を察知したD本田も、阿川氏との話を切り上げ、ブースの近くまでやってきた。カメラマンが「アイドルの子が一人ブースに入ったら、姿が見えなくなって。カメラには映ってるんですけど、今もうグリーンバックじゃない場所に動いてて」と見た物全てを簡潔に説明し、その証拠として十分に信頼出来る、パソコンに映したカメラ映像を見せた。
「これはまた」俄に興奮したような声で、D本田が言う。「とにかく見失わないように」
ダイモンを見ると、もう両耳を手で塞いでその場にしゃがみ込んでいた。
幕を揺らしてみる。
カメラのマイクに呼び掛けてみる。
映像の同じ位置にメッセージの紙を映してみる。
出来る限りの事をD本田とレレ子が行い、スタッフが協力し、他の演者達は事情を聞かされた上で、余計な事はしないようにスタジオの反対側に避難していた。優羽さんは「変な怖い話しちゃったせいかな」と申し訳無さそうにしていたけど、それはレレ子への非難の言葉にもなるし、何だったらレレ子はいつもそういう話を聞いたり調べているだけだ。
やっとカノンが落ち着いた場所は、反対の壁の隅の所だった。
カメラと、配線とパソコンと、それを設置する為の長机を運んで、カメラマンを中心に数人でカノンが居るであろう位置を囲んだ。「こ、これはもう、誰かがスマホとか、連絡手段持って一回中に入ってみるしかないのかな」と独り言みたいに言って、レレ子は人見知りみたいに周りの顔色を窺った。誰も何も言わず、じゃあ誰がやるのか、という究極の問いに対する答えとして、無言の抵抗を試みていた。
ダイモンは役に立たない。
ただそれはこっち側でも同じ事だから、放り込んでもいいかもしれない。
後ろの方で腕組みをして立っていた木之本氏が言う。「実際それで連絡が取れる保証もないのだから、入る前にあちら側から取り得る対策を練っておくべきでは?」
「どんな対策ですか?」
D本田に聞き返され、木之本氏は露骨に狼狽えた。「それは、まだ」
「一番は脱出したいから、その方法かな」レレ子がこっそり誘い水を投げる。
「だとしてもどうやって入るかが分からないのではね」
「グリーンバックの所に決まった速さで、決まった角度で入るとか?」と言ってみる。
レレ子がすぐに付け加える。「決まった時間に、選ばれた人間が、の方がありそう」
「時間と言えば、もう五時を過ぎてますね。放送まで一時間を切ってる」D本田が立ち上がってスタッフに呼び掛ける。「準備だけ済ましといてください。最悪、二人だけで出るか、せめてこの映像を被せる事が出来れば……こんな状態を映してもしょうがないか」
こんな状態というのは、三角座りをして、膝の間に顔を埋めている状態の事だ。
緑の空間でそうなってるだけならまだしも、戻ってもこのままって可能性もある。
「カノンって他のカメラには映るのかな?」レレ子が小声で聞いてくる。
「これって他のカメラにも映るんですか?」それをそのままスタッフに聞き直す。
すぐにカメラアシスタントが別のカメラを持って来て、カノンが座っている辺りにそのレンズを向けた。映像を出すまでもない。「緑じゃないし誰も映ってないです」と言って、カメラアシスタントは寂しそうにカメラを下ろした。
「じゃあ、他の人が他のカメラで緑の所で撮られたらどうなるんですか」
「やってみますか。ダイモン、マネージャーなんだから少しは協力してくれ」
D本田に言われると、まるで運動部の後輩かのように、ダイモンは素直に従い、泥の中を歩くような不快そうな足取りでブースに向かった。「一人につきカメラ一台、というわけでもないでしょうけど」とあんまり乗り気ではない様子のD本田に見守られながら、向こうの隅にある緑の幕の上にダイモンが足を踏み入れた。カメラの前で、怯えながら辺りを見回すダイモンの姿はずっと見えていた。皆の姿が見えて安堵したダイモンはすぐに幕から飛び出した。
「このカメラだけが特別って事なのかな。でもカノンを見失うわけにはいかないし」
というか、レレ子にしては動きが遅くて頼りない。
だからってなぜか偶然スマホを持たせていたら、それは都合が良すぎてキモいけど。
いつもみたいに工具とか、お札とか塩とかで何とかしてくれないものか。
戻って来たD本田はパソコンの画面を覗き込むと、マウスカーソルをでたらめに動かしていた。「スマホじゃなくても何か、連絡が出来る手段はないもんですかね」後付の音声や字幕などが、向こうでカノンに見えたり聞こえたりしたとしても、それも都合が良すぎる。
「あ、本田さん」優羽さんが恐る恐る手を挙げる。「ピンマイクは付けてます」
「と言っても、逆位相の電波をぶつけて音を鳴らせるわけでもないし」
「出来ないんですか?」
「そういう使い方をした事はないから分からないですけど、少なくとも今急に聞き取れるレベルの指示を送るような技術も設備もあるとは……ありますか?」D本田の問い掛けに、色の良い返事をする人は居なかった。「AD、一応調べておいてください」
懸念はもう一つ、電源を付けたまま、マイクがバッテリー切れになる事だ。
カノンはもちろん、こちらに声が届いているなんて思っていない。じゃなきゃ、黙り込んだまま十分も二十分も経ってはいない。だからもう一つ、それに気付いて電源を切ってしまう恐れもあったけど、あの怖がりのカノンなら、電源を切る前に話し掛けては来るだろう。
来たところで、っていうだけの話だ。答えようがない事は変わらない。
レレ子が何も思い付かないなら、いよいよ手詰まりって感じがする。
最終手段としては、かつて異界に取り残されたカノンの代わりに、少女の霊がメンバーとして加わった事があるので、このピンチに颯爽と駆け付けてくれるのを期待するまである。名前は何だったっけ。骨だけで埋まってた彼女。結構可愛かった気がする。
「カメラ、映像、通信、緑、緑色、グリーンバック、合成……カノン」
「番宣動画って背景どうするつもりだったんですか?」とD本田に聞いてみる。
「あ、何かしたかったですか。緑のまま出そうかと思ってましたけど」
「あ、そうですか。別に緑でも。……あの」何か、不吉な予感がする。自分の口から出て来る言葉って、いつも信じられるわけじゃないって話だ。「カノンのその映像、ちゃんと残しといて欲しいんですけど。何かあったら、これが最後になるから」
「残してますけど、最後にするつもりは、ん?」
「な、なに?」とスピーカーから声が聴こえ、画面の中のカノンが顔を上げていた。
「動きありました」とカメラマンが言い、全員がそれとなくパソコンの画面に注目した。
カノンは立ち上がろうと、地面を矢鱈滅多に蹴り付け、すぐに尻餅をついた。
地面に手を付いたまま、怯えた顔をして後退って行く、その後を何かが追い立てるようには見えない。カメラマンがカメラを肩に担いだ。映像の中では、何かがカノンに飛び掛かり、覆い被さったように、カノンが地面に横たわった。地面は緑色で、そしてカノンの上にある物も緑色だ。「映像、ちゃんと残してますよ」とD本田がさりげなく不吉な事を言った。
右手を上にかざし、それが、何かが食い付いているようにしか見えない。
そして、悲鳴。「やだやだやだ、やめて。痛い、いや、痛いいういぃ!」内蔵の小さなスピーカーではすぐに音が割れ、そんな時に限ってカノンの声量の凄さに思いを馳せてしまう。もう一度、生声で歌を聴きたかった。歌だけは本当に凄いんだ、カノンは。
こんな悲鳴じゃなくて。
もうカノンは「やだ」と「痛い」しか言わなくなっていて、あとは意味のない呻き声が長く長く、肺が二つじゃ足りないくらいずっとずっと続いて、聞いている全員の気持ちを落ち込ませた。そしてカノンの右手は更に引っ張られ、短くなっている。
よく見ると、手首から先がいつの間にか無くなっている。
湿った物を打つような、どしゃっ、という音が生々しく聴こえた。
「なんだ」と思わずカメラマンが呻く。
レレ子が緑の幕を指差して言った。「腕が、落ちてる」
カノンの衣装の袖の部分と、細くて白い腕が緑の幕の上に落ちていた。
「腕だけ……いや」D本田の声が一気に明るくなる。「動いてる、生きてるみたいです」
確かに暴れているし、それに、その腕の切断面は緑に隠れていて、よく見えない。
「助けてくれてるんでしょうか……そいつは、あの子をこっちに戻してくれるつもりで」
「それか、向こうにとって異物なのかも」レレ子が余計な事を言い始めた。「マイナス質量の世界に迷い込んだプラス質量のカノンを、外に捨てようとしてる、だけかも。あの、カメラマンさん」そして、レレ子にしては珍しく、初対面の大人に自分から話し掛けている。
カメラマンが振り返りもせずに、言う。「今手が離せないから、ごめんね」
「離していいです!」とレレ子は言いきった。
画面の中では、腕を失ったカノンが悲鳴を上げ、緑の上を這い、緑に体を押し付けて支えながら、どこかに逃げていた。「そのカメラで撮ってください」とレレ子が言った。「向こうに行って、カノンを連れ戻したいんです」その方法について、あえて言わない。
何かに食い尽くされるまで、カノンが逃げないように押さえつけるつもりだ、なんて。
カメラマンは頷き、向こうに行ったカノンを、初めて画角から外した。
胸に縋り付いて泣きじゃくるカノンの頭を撫でながら、D本田の説明を聞く。
レレ子はもう、満足したような顔をして、持って来たサンドイッチを食んでいる。
一体絶体、異形の怪物に食われに行く事に、どんな達成感を感じられるのか、まともな人間には一つも分からない。だけど、緑のブースに手や足がぼとり、ぼとりと落ちて、バラバラになっていたのも見たし、胴体にそれが及んだ時に、なぜか繋がっていったのも見た。
そのレレ子は「戻って来れて良かったね」としか言わなかった。
でもカノンが言うには「骨折より痛かったんだよ」という事らしい。
D本田に関しては、その痛ましい光景に気が引けつつも、面白い物が撮れたかもしれないと言っていた。実際のところ、緑の空間で若い女性が痛がっていただけなので、映像を残したところで悪趣味なのだけど、改めて再生してみると緑色以外は何も映っていなかった。
マイナス質量の世界が元に戻るっていうのは、そういう事なのかもしれない。
「色々ありましたけど」D本田は持って来たパイプ椅子の横に立っていた。「なんとかセッティングも済んだので、これから放送開始という事でよろしいでしょうか」
ダイモンが答える。「はい、お願いします」
「お願いします」と一緒に言うと、レレ子もついてくる。「おまういうます」って。
ほとんど言えてないけど。
今日に関してはカノンを救ってくれた事実があるので、叱る気にはなれなかった。
あとはカノンだけど。
「メイクだけ直してもいいかな」と優羽さんがD本田に伝え、カノンに話し掛けようとしているのに、しゃくり上げるばかりでカノンは全然落ち着かない。胸の辺りには、カノンの吐息の熱と、涙か、他の体液の湿り気すら感じる。衣装が、背中の辺りを強く掴まれている。
優羽さんは困り果てて「どうしようか」とこっちに話し掛けて来た。
「時間が掛かると思います。ダイモンさん、登場遅らせる事って出来ますか」
「ゲストとして呼び込む形にするって事か。本田さん、それでも構いませんか」
「五分十分くらいなら。ただ今回のテーマに絡んでるからずっと居ないわけには」
「分かってます。それまでには落ち着かせます」
そう言って、ダイモンは頼りになるマネージャーの顔をしようとした。
まるで耳を塞いで縮こまっていた人と同一人物とは思えなかった。飲み物に手を出したレレ子も、眉に唾をつけ、疑るような目でダイモンを見ている。「レレ子、今飲んだらトイレ行きたくなるでしょ」と注意しても、レレ子の達成感を薄れさせる事は出来なかった。
「五分十分の間に行くので問題なしですね」とか宣うから。
見ている方としても、なんだか喉が渇いて来るような気がした。
「カノン」と耳元で呼び掛けてみる。「ずっと泣いてるけど喉とか渇かないの?」
圧迫感が消える。やっと顔を浮かせたカノンは、案の定、アイラインが溶け、目の周りを赤くしていた。何か不満そうにこちらを睨み、鼻を啜り、粗く息をしている。「喉なんて」と掠れた声でカノンが言った。「何かに体食べられた事がないさとぴには分からないよ」
「分からないけど、レレ子も食べられてたよ。レレ子、何か言ってやって」
「出血などで血圧が急激に低下した状態で水を飲むのはかえって危険ですけれども」
「カノンさん」優羽さんがカノンの肩に手を置いた。「少し落ち着いた?」
カノンは顔も上げずに激しく顔を振り、また人の胸に顔を埋めようとしてくる。
引き剥がして、優羽さんに向き直らせる。「もう時間ないから」
ただまあ確かに今回も特にカノンには非が無かった点には同情もするけど。
今度は優羽さんに抱き着き、その黒い服を濡らし始めるから、本当にキリがない。
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