第2話 喋らないで(噛まないで)

「九月一日金曜日、時刻は午後一時二十五分になりました。改めまして、ラブ高森一階サテライトスタジオからお送りしている高森スノウハーバーステーション、パーソナリティの秋吉ぽーると」

「FM高森アナウンサーの斎藤一子です」

「はい、というわけで……いやー、勝ったね。先週来てくれた、あの子ね」

「ほんとですねー、まさかあのまま逃げきれるとは思いませんでした」

「ウィナーズファイナルからストレートで勝ち上がるなんて最近無かったからね」

「まさに番狂わせという感じで」

「で優勝したのが弱冠二十歳の若手選手でね。前大会から頭角を現して来て、注目はされていたものの、前回16位タイから今回の優勝、という事で。ここからまたシーンがガラッと変わるんじゃないかと」

「ベテランの方では前々回、前回優勝したアレックス選手も大健闘でしたが今回は一歩及ばずで、残念でしたね」

「でもね、海外選手も年々層が厚くなってるんで、色々注目ですよ。今回で言えば、南米出身のドゥーム、マーティンドッグ、ターヤなんかも。斎藤ちゃんなんかは誰か、気になる選手は居た?」

「私が気になったのは、アフリカ出身の十五歳の子ですね」

「凄いよね十五歳。斎藤ちゃん十五歳の頃って何してた?」

「普通に学校行って、毎日テニステニスで。真っ黒に日焼けして」

「はは、えーっと君は? 早村、何ちゃんだっけ?」

「え、いいんですか。もう出て」

「いい、いい。もう皆に見えてるんだから。本日のゲスト、えー、C・W……?」

「あ、元チェリーウィークエンドブロッサムガールズの、パープル担当、早寝遅寝、いつでも夢の中で待ち合わせ、早村聡瑠こと、……早村聡瑠です」

「ねー、ほんと。自己紹介まで急いで考えていただいて」

「仕事なんで、たぶん」

「そんなわけでゲストの、チェリー……色々あって、ですが。斎藤ちゃん今日の予定は」

「本日二時から名産グルメデスマッチ。投票していただいたリスナーの方にプレゼントもあります。三時からは街の声を聞いて。今日のテーマはいくらまでなら人に貸せるか、金額を発表して貰います。そして四時二十分頃にゲストコーナー。本日はアイドルグループ、C・Wブロッサムガールズ。メンバーの加賀崎海音さんの名前にちなんで北陸の思い出なんかを話して行きたいと思います」

「というわけ、なんですがあ。早村ちゃん、北陸の思い出といえば何かある?」

「え、今言うんですか?」

「さすがにお金の貸し借りはしないでしょ。メンバー同士で」

「服とか化粧品とかは貸してるっていうか、ほぼ三人分用意してます」

「女子ってそういうの多いんだ。やっぱ物が多いからね、斎藤ちゃんはどうなの?」

「私はあんまり無かったですね。自分に合う物を揃えるので、新しいの試させてー、とかそのくらいで」

「新しいの、むしろ他の二人にも興味あって欲しいんですけど」

「なるほど、意外な話も聞けたところで、一旦早村ちゃんとはここでお別れです。また三時間後。よろしくまいね」

「は、はーい、よろしくおねがいしまーす。外の皆さんも、楽しんでってくださーい」


 ラブ高森は、地上五階、地下一階のデパートだ。

 敷地面積も広く、ファッションフロアには十店舗くらい入っている。

 まず紙のフロアマップが置かれてる時点で相当だ。

 立体駐車場も同じくらい立派で、本館の二・五階分の高さに、土日の買い物客が一気に駐車出来そうな広さがあった。そして搬入口の脇にある、別の入り口から入れる立体駐車場の一部が従業員用駐車場だ。ワゴン車の横に立っていると、目の前の通りを歩く家族連れや、お年寄りの集団が、こちらを見て微笑んでくる。

 手を振り返すしかないけど、なにか釈然としない感じがする。

 衣装では。

 ステージ用の衣装を着たままでは特に。

 体にぴったりと沿って、フリフリの飾りが肩や胸や腰を強調するように広がって、それらがパステルカラーで統一されたシルエットは、遠くからでも可愛いと言われたがっている。ニーハイソックスも、左右で高さが違う。六つの絶対領域。ベンチコートなんて物は無い。

 上着が要るような寒い季節でもないから。

 後ろでは地下でサイレンが鳴るような音が聴こえる。

 ただ強く、断続的に伸びて、どこにも響かない音。何回かまでは数えた。それがもう何回か繰り返されたから、二十何回は鳴ったんじゃないかな。

 ドアに耳を当てて、わざわざ確認するまでもない。急に開けられる心配もないから、地面に踵しか付けないで、全体重をドアに預けていた。砂埃が付いたくらいで、くすむような衣装じゃないから。篭ったサイレン。もう三十回は鳴ったかな。少し止まって、再開。

 道幅は広く、高い建物が少ないから開放感がある。しかも、民家も少ないし、塀なんかで区切られてないから、街全体が巨大なミニチュア模型みたい。なんだそれ。急に木が生える所なんか、街路樹というより、森の中の遊歩道みたいになってる。石畳はずっと向こうまで続いていて、真ん中に煉瓦の箱で作った花壇が置いてあって、何も植えられていない。

 ブロッサムの欠片もない。土に埋まっているのは不吉の予兆。

 黒いスーツの男性が歩いてくると、それはダイモンで、駐車場に入って来たところでダイモンはやっと携帯を顔から離して通話を切った。

「間に合いそうですか?」

 尋ねるとすぐに「ああ」と頷いて、それをどこかに仕舞おうとした。

 カバン、車の中じゃないかな。ドアに手を掛けようとして、ダイモンが固まってる。「これは何の音だ?」って聞かれたから、後部ドアの前から動いて、少し距離を取った。

「カノンがストレスゲージ溜まったから異常行動してるところです」と答える。

 ダイモンは一文字も理解出来なかったみたいな、逆に清々しい顔をしていた。

「こんな、大声? 出して喉大丈夫なのか」

「今日歌わないんでしょ。トークならミステリアスハスキーキャラでいいですよ」

「明後日もあるんだが」ダイモンが窓を覗き込み、耳を当てた。カーテン越しに暗い車内の様子は分からないし、声は離れてても漏れ聞こえてくる。「はあ、早村、リーダーらしく何か上手い事してやれないか」

「防音材でも買って車に付けてあげたらいいんですか。レレ子は?」

「もうすぐ、二時前には着くよ。母親も一緒に。収録、見てくんじゃないか」

「一週間ずっと移動。一昨日は四国、明々後日は関東って。頭おかしくもなりますよ」次の一発のサイレンは、賛同するようにも聴こえた。そして不意に止んだ。「なんでレレ子だけ帰れるんですか?」

「未成年だからな、何日も連続でっていうわけにはいかないだろう」

「それは……そうですね。この後は? お昼はどうするんですか?」

「それなんだが。ここ楽屋が無くてな。スタジオの裏から従業員用の通路に入ると」フロアマップを広げると、当然だけど何も書かれていないところをダイモンが指でなぞった。「非常階段が奥にあるんだが、四階に上がって、そのままオフィスの一番手前の会議室を貸して貰えたから。食事はデパート内でした分は後で出してくれるらしいけど、食べ過ぎるなよ」

「分かりました。食べ過ぎません。一回、着替えていいんですよね」

「いいけど、四時までにはまた衣装に着替えておけよ」

「っていうかラジオなんだし、私服でも良いと思うけど」

「いや、少なくとも目の前で観てるリスナーと、パーソナリティの人達にはそれが名刺になるんだから、着た方がいい」知った風な事を言うダイモンも、ちゃんとネクタイは締めているから、意識にまで文句は言えない。「それにさっきは、良かったな。着ておいて。急に話す事になったもんな」

「まあ、はい」急に話す事になっただけなら、声がちゃんと出てれば良いのでは。


 CM中だったから、斎藤ちゃんに手を振って貰えた。どう見てもカノンの方に目が行ってたけど、まあカノンだから仕方ない。ジャージ、ハーパンにマスク、メガネでほとんど顔が見えなくても、その涼しげな目元に女子はみんな心を奪われる。

 伊達の上に更に遠視気味で、はっきりと物を見ていないだけなのに。

 セキュリティも何もない鉄製のドアは、サムターン錠を捻れば開いてしまった。

 薄暗い通路は、四角くて緑色がどこまでも続き、その途中の右か左に空いた横穴から、倉庫に繋がってるらしい。差し込む光と共に、トラックがバックで入って来る時の音がした。

 ピー、ピー、バックします。

「ご注意ください、って言わなかったっけ。トラックって」

「言ってたかも」カノンは虚空の思い出を見上げる。「あー、で。お出口は右側です?」

「普通にそれ電車じゃん。階段どっち?」

 レレ子が指差して言った。「それなら右の奥に。でもバックヤードって何か」

「店員さんに!」

「うぇぐっ、なになに?」カノンの喉が締まり、その力で腕を掴んで来る。

「急に会ったらびっくりしそう、って思って」嫌な予感は即座に遮るに限る。

 レレ子は不服そうに黙ってしまった。

 その何かを実際に示す事も出来ないからって、そのままカノンの後に続いて歩き出した。それって枯れ尾花の事だろうか。柳の下か、眉の上か。

 二階、三階、四階に上がって、オフィス区画の通路を左に出る。

 すぐそこのドアにもう、張り紙があった。

 黒いマジックで『スリーマウス・エージェンシー様 控室』と書かれている。

 壁の上の方には、会議室A、と書かれたプレートが付いていた。すぐ隣の部屋はロッカールームだし、BもCもいらないとは思うけど、とりあえず会議室だ。ドアは一個しかない。ダイモンが借りて来た鍵でドアを開けると、暗い部屋の中には、二つの四角い窓だけが、銀幕のように光っていた。

 部屋には長机が四つと、パイプ椅子がいっぱい。

 片隅に掃除用具入れのロッカーが設置されている。

「本当に普段からこんな所貸し出してるのかな」

 カノンの疑問も尤もだけど、じゃあ他にどこを貸し出してるのかと考えれば「来てすぐ出演してすぐ帰るんじゃないかな、他の人は」という事くらいしか思いつかない。

 レレ子が明かりを付け、近くの机に荷物を放り出した。

 真っ赤な光沢のキャリーケース、リュックサック、ショルダーポーチ。

 それとは別にお財布。

 リーのバリバリ言うやつなんて、どこの店で買ったんだっていうやつ。

 レレ子は飲み物を机に出し、スマホの充電器を勝手に壁のコンセントに差した。

「レレ子、充電は」

「お店の人が良いって言いましたが」

 真っ先にそれ聞いたんだ。「良いって言っても、あんまり良くないでしょ」

「あんまりだったら別に良いと思うけど」

 結局コンセントは抜きに戻ったけど、それは単に、座った場所まで充電コードが届かなかったから、諦めただけかもしれない。カノンは机に突っ伏して寝ていた。

「ダイモンがお昼食べて来いって。その前にメイク。の前に、顔洗って来な」

「それは後でいぃーよ」レレ子がわざわざ顔を上げて、本当に面倒そうだ。「ご飯食べたらまた直さないといけないじゃないですかあ」

「一応、他のお客さんも居るんだから」

「あ、オフの人達だ、としか思わないのでは?」

「だからって、その怖いマスクはダメでしょ。さっきから何見てるの」

 近付いてって後ろから覗くと、レレ子はスマホを傾けてくれる。

 検索フォームにはちょうど『デパート 怪談』と打ち込んで、続くワードに、異界とか結界とかって書かれていた。昭和の名残りある三十年、四十年前の建物でも、レレ子にとっては不気味さは足りないようだ。「無いんじゃないかな」って言っておく。「そういうの」

「どういうのが?」眠そうな声が反対から問い掛けて来る。

「なんでもないよ。カノン、準備してお昼。もう二時になるから」

「お昼、後でよくない? あんまり食欲ないのよ」

「あんなに叫んだら無いだろうけど。こっちは空いてるから。レレ子は?」

「ペコっ腹です。お菓子ちょっと食べただけなんで」レレ子がページをスクロールダウンしている。錆びた、薄暗い、無機質な、コンクリートのどこかの室内の写真が流れる。「ダイモンは何してるの? 食べる物買って来させれば?」

「段取りの確認だって。昨日も打ち合わせしたのに。ここで食べる気?」

「昨日してませんけども」

「レレ子あんまり喋んないからね。あ、好きな肉の部位だけ考えといて」

 椅子の擦れる音が鳴った。立ち上がったカノンが、目を擦りながら背後をゆっくりと移動していった。「さとぴ、顔やって?」って人のカバンを勝手に持ち出して、席に戻ってカバンの中身を広げてる。その中から取った小さくて太いボトルの蓋を、ちゃんと捻って開けて、それを左手に出していた。

「ミルクティーだよそれ」

「ちょ、うわっ。なんで入ってるのよ?」

 やっと目が開いて、自分の手を見ながら、それを舐めている。

 ティッシュを投げてやる。「やるから。どうする?」

「軽くナチュラル系でいいよ」

「でいいよ?」隣に椅子を持って行った。前髪を上げさせて、このまま、はい終わり、とでも言ってやろうかと思った。「千番掛けて、サフ吹いて、トップはマット系で」このままでも悪くはない、でカノンが何か言ってるし、でも好きなすっぴんってだけだ。この上、ダメにするわけじゃない。商用にする。「モノアイはLED仕込んで」

「多めにパウダー叩いてシャドウもラインも無しで透明マスカラだけ、チークは抑えめ……ピンクベージュ辺りで、唇は、がっつりモスグリーンでいい?」

「あ、モスいいね。キングでもいいけど。テリヤはないかな。ドムは絶対ないな」

「空いてんじゃん」

「二時なら空いてるって、ドムは」

 頭が回ってないな、酸欠なんじゃないかな。

「やっぱり駐車場かトイレか。マネキン関係と、あとは、調理場……はいはい生肉系ね」

 さて、レレ子が変な物を調べてるから早くしないと。


 四階で六割、五階では四割に店舗面積が減っている。

 それだけ、オフィスの割合が広がっているって事で、もしくは外から見た通りに、建物自体が先細っている。四階がレストランエリア、五階がゲームコーナーというのも、分かりやすい古いデパート像だけど、逆にジム、歯医者、葬儀屋、百円均一なんかが四階、五階に混ざっていると、結構浮いて見える。

 オフィスを抜けて四階の売り場に出れば、ちょうど歯医者の前らしい。

 そのオフィスを通り抜けるというのは、初めて来た人間にはハードルが高かった。

 三階の売り場を通って行こうと言い出したのはカノンだ。「来るのは分かってるかもしれないけど、ウロウロされたら迷惑でしょ」というわけで、階段を下りて、一つ下の階のバックヤードに足を踏み入れた。四階か一階どっちかと構造はほぼ同じはずだから。

 それにしてもカノンの顔は良い感じだ。

 髪は小さなおさげにして、両耳の下辺りで物足りなそうに跳ねている。

 もうちょっと伸びたら編み込んでもいい。根元がまだ全然黒くないので、頻繁に染め直してるわけでもないなら、もうしばらく掛かるだろうけど。エロい子は伸びが早いは嘘として、海藻か鶏肉でも食べさせたらいいのか。それだと今のジャージハーパンという格好もアスリートの休日じみてくる。それにレレ子はマスクを付けたままだった。

 黒くて顔の半分を覆っているマスクは一瞬だけ暴走族か何かに見える。

「そのマスクどこで買ったの?」

 そう聞くとレレ子は律儀に思い出そうとする、がすぐに溜め息を返される。

「たぶん、薬局? 以外に何が?」

 なんか、自分で作ったりしそうなイメージあるけど。

 構造はとりあえず一階に近いようなので、来た時と逆の道順を辿ってみる事にした。

 薄暗い通路に人は居なくて、並んだドアや、ドアのない長方形の入り口は倉庫だったりするようだ。そして行き止まりの所に鉄製のドアを見つけると、カノンが肩に引っ付き、レレ子は一人で前に出た。「ここですが」振り返って、言う。「向こう静かだね」

 三階は確かレディスファッションと下着と学生服と手芸用品の階だった。

 レレ子が行って、カノンを先に行かせてから、最後にドアを潜った。

「あ、待って」と、何か話し掛けようとしたくらいの、のんきな声に制止された時には既にドアを閉めていた。レレ子が落胆してみせる。「あぁー。仕方ないか、さとぴだしな」

「私だと何なの」

「開く?」とだけ聞かれても、何の事か訳が分からない。

 触れていたドアノブに目をやってみれば、こちら側にサムターン錠が無いようだ。

 かと言って、ドアノブを捻れば開くという事もなく、ラッチボルトが引っ掛かった。

「開かないけど、帰りはまた一階から戻ればいいから」

「戻れればね」とレレ子が言い、カノンの肩が震えた。「な、なにがっ?」

 売り場は、まず中央に四角いエリアがあり、その下辺に沿ってエスカレーター、壁側は細い通路にテナント、他の三辺の壁沿いにもいくつかテナントが並んでいて、中央エリアを囲むように、床の色を分けただけの四角い順路が通っている。

 吹き抜けも長い通路もなく、ほぼどこからでも四角いフロア全体が一望できた。

 できたはずだった。

 しかし今そこは左右を壁に阻まれた狭い通路で、突き当たりで右に折れて、その先は見えなくなっていた。なぜだろう、光は全く無い、本当になぜだろう。いつの間にかレレ子がスマホのライトで照らしていただけだ。

 壁には黒い汚れがあって、ドアも、窓も無く、ポスターも、消火栓も無い。

 緑色の非常灯。駆け込みのピクトグラムも見当たらない。

「消火栓もだし、報知器も。ここで火を付けたら、外部に何か情報が伝わるのかな」

 カノンが怒る。「ちょっとレレ子やめて、変な事考えないでよ」

「火気なんて無いけど、まあスマホのバッテリーを発火させるっていう手はあるか」

 カノンは黙る、けど両肩に食い込む指と爪が怒りの強さを表してる。

「肩痛いって。爪立てるんだったら離して」

「やだ離したら怖い」

「とりあえず先に行くか。それともそのドア破ってみるか、決めてもろて」

「道具あるの?」

「さとぴ、普通の女子がスチールを焼き切れる道具なんて持ち歩くわけ?」

 両手を天に向け、やれやれと頭を振る仕草に訳もなくイライラする。スマホのライトは天井とレレ子の顔の横を照らし、なんだか不気味な雰囲気を加速させる。「それやめて」ってカノンが言うと、レレ子はあっさりと手を下ろし、こっちを照らして来る。

 カノンが肩口から顔を突き出して、ライトの強さに眉を顰めた。

「ダイモンに連絡したら? 三階の、向こう側からドア開けて貰えば」


 言われてみれば確かにそうなので、早速レレ子がダイモンに連絡してみた。

 打ち合わせを終えて四階に居たらしいダイモンは、すぐに階段を下りて、ドアを開けて三階の売り場に出たという連絡を寄越してきた。こちらから叩いても、何の反応もなかった。「なるほどね」とレレ子が言った。「タイミングで異界に通じるドアか。バスやトンネルの怪談に近い感じかな」

 開かない鉄のドアの前に立って、レレ子はドアを愛おしそうに撫でていた。

「え、ちょちょ、何か起こったわけじゃないでしょまだぁ!」

 カノンの声が耳の近くでキーンと響いた。

「うるっさぃ」やがて通路の静寂が余計に誇張される。「カノン、声でかい」

「ごめん、レレ子が変な冗談言って怖がらせて来るから」

 ダイモンは、店員の女性に見られて恥ずかしい、と送ってきた。

「とりあえず、勘違いだった、戻るのは少し遅くなる、って言っておこう」

「なんで」

「ダイモン怖がらせたら助けに来るのが遅くなったり大事になったりしそうだから」

 それもそうだ。

 戻れないなら進むしかない。あるいは冷静に、新たな来訪者が偶然ドアを開けてくれる可能性に賭ける提案もあって即却下されたけど、レレ子が先に進むので、背中にカノンを引き連れて、レレ子の後を追った。

 描く物と言えばスマホのメモかペイントツールくらいだ。

 フロアマップを撮影し、そこに編集で線を引いていく事にしたけど、早々に有り得ない事に気付いてカノンが怯え出した。「いぃ、い、今下どうなってんの?」

 右に左に折れながら、通路は売り場の外側にはみ出した空間を通っていた。

「三つ」とレレ子が親指人差し指中指を立てた。「上下階も同じ形に変化してる、上も下も存在すらしてない、現実の何もない空間に突き出てる。予備として、線を長く描き過ぎただけっていうのもある。どれがいい?」

 それは十一か三十一まで数える時の手だ、とレレ子から聞いた事がある。

「四、こんな場所はない!」力強い声でカノンが答えた。

「カノンも実は存在しなかった、なんて事あるわけないですからね」

「ぐぬぬ」言うほどぐぬぬか。「じゃあ予備にする」

「この壁とか床を壊したらどこに出るのかな」とレレ子に聞いてみる。

 不意を衝かれたらしいレレ子はノックするように近くの壁を叩き、考え込んだ。

「レレ子がそんな道具持ち歩いてないのは知ってるけど」

「そうだね」と呟いた。「ここはもう、何も無い。かもしれない?」

 歩き始めたレレ子に気付いて、カノンに背中を押された。次の角を曲がる前に、追い付いて歩調を緩め、何か言わないか待ってみる。「建物ごと引っ張り込まれたとか。人間を迷い込ませる為に作られたとか。あ、さとぴ。向こうにドアがあるよ」とはいえ、突拍子もない方向に話題が転がっても困るけど。

 指差した方向、右の壁をライトが照らし、そこに長方形の枠が浮かび上がる。

 斜めに傾いた線の端に、真っ黒い闇が挟まっていて、それは薄く開いたドアだった。真ん中の辺りに丸いドアノブが生えている。両肩を急かして来るのは、元のデパートに戻れるかもしれない、という淡い期待の現れだろうけど、違う。違うってすぐに分かる。

 通路よりも暗くて、何の音もしないんだから。

「いや。待って」片手で制され、レレ子が先に進んで隙間から光を差し入れた。

「内開きって珍しいね」隣で、なんとなく小声になってしまう。「中に何かある?」

 レレ子が顔を避け、スマホの位置を下げた。

 怖がっているくせにカノンまで顔を突き出して覗き込んでいた。「うひっ!」

「なに、カノン。怖いなら見なくていいよ」

「じゃな、ちが……あの、床の所の」

「なに?」

「血溜まりかな」レレ子が見もしないで言う。

 床に黒いシミのような物があって、それを書道家がドジを踏んだとか、タールでも零したのかなんて、思いはしない。よく見ようとすると、両肩を後ろに引かれる。丸く広がるのは、まさに粘り気のある液体で、掠れた線はまさに、何かが引き摺られた跡だ。

 荒い息遣いが耳元で聴こえる。

 緊張も不安もない、巨大な生物が、むしろ安心しているかのような音だ。

「カノン?」しかし腕を叩かれ、レレ子が口元に指を立てていた。「え、なに?」

 マスクを下げ、何か言う。「な、か」と口の動きが言っている。

 顔を掴まれる。と、自分がドアの隙間に目を向けようとしていた事に気付き、レレ子が何かを見ないように止めてくれた事にも気付いてしまった。次の二文字は簡単だ。レレ子はゆっくりとスマホを通路に向けながら、口を動かした。「に、げ」

「さとぴ、行こう!」とカノンが叫んだ。

 既にカノンは通路の先に向かって駈け出していた。

 偉いのはカノンが、悲鳴を上げて周りを不安がらせたり、腰が抜けて立てなくなってしまったり、現状は袋小路でしかない方向に引き返したりしない事くらいだ。レレ子に促されて、急いで後を追った。角を二つ、三つ曲がる。「カノン、右!」とレレ子が叫んだ。

 左に曲がる。

 すぐ先で右手の壁に光が吸い込まれて行くのが見えた。

 そして今度は長方形の形に沿って通路が照らされ、その光に向かって飛び込むと何か「あだぁっ」にぶつかって体が固くもない重くもない物に押し戻されそうになった。それはカノンだった。「さとぴ、危ないって」

「ごめん」すぐに入り口の脇の壁に身を寄せて、通路から身を隠した。

 ゆっくりと腰を下ろして、完全に壁に背を預けながら、入ってすぐの所に立っている方も悪いんじゃないか、なんて思い始めている。「なんだったの、さっきの?」

 カノンは、レレ子さえも、手で自身の口を覆って、こちらを見つめていた。

 ゆっくり後退っていくカノンの背後には、窓のない小さな壁があって、スチール製の棚が左右に設置されている。怯えているのはカノンだけで、レレ子はスマホを構えたまま、むしろ近付いて来ようとしていた。手がポケットに入り、出て来たのはペンチだ。

 スチールを焼き切る道具ではない。

 息を止めて、這い寄って来るレレ子の手が、顔のすぐ横を通り、何かに触れた瞬間、勢いよく捻り上げた。「取れた」とレレ子が言った。白い小さな石を掴んでいる。床に滴り落ちた赤黒い液体は、血だ。血が、どこから垂れて来たんだろう。

 天井は、暗くて見えない。

 またあの息遣いが耳元で鳴っていて、しかも生暖かく、生臭さも混じっていた。

 まるで終わりかけの二日くらいの。

 でもカノンは反対の壁に居るから、今背後には誰も居なくて、誰も息をしていない。

 何も無いと分かっている時が一番怖いから、レレ子を見るしかない。

「こっち、こっち」と手招きをしている。動いて、いいのか。前に手を付いて、ゆっくりと床を這いながら、なんとなく振り返っていた。何か、見間違いのような物が、浮いているように見えただけだった。視界の端に焼き付いた、瞬きの度にちらつく光のようだ。

 血痕の真上に、もっと明るくて濡れたような赤色の、空間がある。

 縁取るように並んでいる物は、まるで歯だ。

 中央で白っぽく汚れている山は、まるで舌だ。

 奥の方に向かうにつれて狭まるのは、じゃあ喉か。

「のどちんこまで見えてんじゃん」

 つまり上部から垂れ下がっている部分は、口蓋垂、というわけだ。

 そうなると反対側の壁際に立っているのは職業意識の低い同僚かな。

 レレ子に縋り付いて、やっとそれを冷静に見る事が出来た。まるでそれは「何も無い空間に何かが口を開けてるね」という事だった。そしてレレ子が差し出して来たペンチで、思わず手の平に、白い石を受け取ってしまった。「前歯折れるかと思ったら折れてんの」

「な、なに笑ってんの。どんな握力してんのよ。……歯かこれ」

「握力は33だけど、もしそれがテコとタイミングの技術だとしたら?」

「うん、ならすごいね」歯科衛生士になるには胸囲が足りないけど。「あれ、何?」

「気配がするので、怖くなって逃げた。振り返ると、そこに目だけあって、見られていた」

「有名なやつ?」

「そこそこ。重要なのは、聞いてさとぴ、目は光を取り込む為に透明化出来ないっていう問題があってね。SFとかの設定の話だけど。目が見えるのって見られる為に、逆か。目が見られるのって見る為だから。だから、目があって見えるのは普通」

「よく意味が分かんないけど、ねえ。この歯、どうしたらいいの」

「持ってていいよ。でね、口しかないって事は、何も見えてないんじゃないかと思う」

 確かにその口は、犬みたいに舌を出したり、息を吸ったり吐いたりしながら、入り口の脇の辺りをふらふらと漂っていた。「口があるなら味とかは分かるんじゃないの?」

「歯や舌に触れた触覚。あと鼻の方に繋がってたら嗅覚も、たぶんある」

 ぞくりと、肩が震えるのが分かった。匂いなんて。

「カノンめっちゃヘアオイルとかヘアミストとか使ってるんだけど」

「やーだ、やーだぁ」と繰り返し、両耳を塞ぎ、聞こえてはいるようだけど、両目は膝の中に埋めて、何とも向き合う気は無いようだから、カノンはもう役に立たない。「知らない知らない知らない知らない」呪文のように呟く口だけはカノンも大概幽霊じみている。

「それは好みがあるのかもしれないし、実際さとぴについて来てましたけども」

「知らないよ、どうするの、あれ。ああっ、こわ。あの口」

「諦めて引き返すのを待つしかないかもしれない」と、勿体を付けるような顔付きで、少し間を置いてからレレ子は言った。「歯まで折られてるのに、黙って引き下がるなんて事、ないとは思うけどね」

「だ、黙ってんじゃんずっと」カノンが怒りだしたから、もう後が無さそうだ。

「とりあえず待ってみようか」と言い、レレ子の背後に回ると、すぐに鼻で笑われる。

 構うものか、鼻があるという時点で、そっちはそんなに怖くはないんだ。


 血は垂れ続けていた。

「何かのドッキリだったら良かったのに」とカノンが愚痴っぽくなっていた。

「だとしても嫌なくせに」こっちも嫌味っぽくもなる。「うちらの為にあんな通路作る?」

「それに見合ったビビり方するもん」……何を言ってんだ、この人は。

 血は垂れて床の上で乾き始めていた。

 あと分かったのは、他の部分は透明ではなく、存在しないという事だ。

 それこそ唇、顎、肩などに血が伝う動きも無ければ、床に落ちたそれを踏んで広げたり、擦ったりする動きもなかった。あくまで人型を想定した場合に、無さそうだと判断したに過ぎないけど、本当にそれはただ虚空に開いた穴のようだった。

 部屋の奥の壁際に並んで座り込んで、ずっと三人で室内を動き回る口を眺めていた。

 今のところ、危害を加えられる心配がないと分かると、段々と恐怖も薄れて来て、カノンも遠巻きに見ている分には取り乱さなくなった。虫か、怒鳴ってる人と遭遇してしまったくらいの距離感だ。

 それにしたって、近くを通ればそれは異形の存在に変わりはない。

 危害、と言わずとも何かしらの干渉があるとすれば、それは噛み付かれるとか、捕食とかをされるに決まってる。舐められるだけでも気味が悪い。そして、本体が何もないなら、どうやって抵抗する事が出来るのか。「まっずい物を口に放り込むとかね」

「人食べようとしてるようなのだったら味なんて気にするかな」

「珍しく鋭いね、さとぴ」

 ほとんど嫌味で言っただけなんだけど、それを評価されても。悪くはないけど。

「他に何か、無いの?」

「もし口を閉じさせたら、どうなるのかっていうのは一個考えてる」

「どうなるの?」

「少なくともこっち側には何も存在しなくなる、と思う。その歯以外は」

「どうやって閉じさせるの」

「普通の人だったら、中の物が溢れないようにとか、中に異物が入らないようにとか」

「……水、とか?」カノンが怯えきった声で答え、レレ子を頷かせた。

「人間だったらだけど、それはあるね。水道あるかな?」

「そんなの無いよ。トイレだってずっと……」と急に黙り込んだカノンは、居心地悪そうに膝をぐっと閉じ、わざとらしいくらいに大きく息を吐いていた。トイレどころか、さっきの部屋とこの部屋以外に、ドアは一つも見なかった。今後あるかもしれないけど、その見かける頻度は極めて少ないだろう。考えたくもない事が一つ。

 そのどれかがいわゆる出口だったとして、見つけ出せるのか、とか。

「ダメだ、カノン」レレ子が意外にも弱気な口調で言った。「女子の尿は、逆に飲みたがってるかもしれない。だからさとぴに付いて来た可能性もある」

「だったらじゃあ、さとぴがおしっこすればいいじゃん」

「飲ませる事は決まってんの?」

「口を閉じさせる為だけど、ちなみに」

「無理」

「早いて」

「出ないよ」

「そっか。じゃあ、出るやつで代用するしか」

「む、無理無理、もっと。そんなの使えないでしょ、ネバネバしてるのは」

「違うよ」何が、とはレレ子は言わなかった。「血、軽く抜いてもいいなら」

「それでも無理だって」

 ふと、カノンが顔を上げている。「それで助かる?」

「カノン、やめてよ。ていうか左手一番ボロボロそうなのってレレ子じゃん」

「それはネットの意見……、じゃあ。布でも被せるてみるか」

「布?」

「口の部分に中とか外とかって概念があるのか分からないけど」

 レレ子によれば、口だけなら包み込めてしまえるだろう、との事だった。

「そんなので、なに。捕まえられるの?」

「まあまあ、とりあえず布か袋を……カノン、下に何着てる?」

「え、普通にTシャツ、接触冷感の薄いやつ」

「オーケー、カノンは武器の準備だ。シャツ貸して」

 って、掴み上げる勢いで差し出された手に、カノンは怯んでみせ、それから三人の服装を交互に見回した。でもそれは、もう役に立たないカノンに与えられた唯一の役目、っていうだけの事だ。決心か、諦めたような様相で「後ろ向いてて」とカノンが立ち上がった。

 がさがさする衣擦れを聴きながら、隣を窺うとレレ子はしっかり見ていた。

 レレ子は受け取ったシャツを広げ、両方の半袖を持って縛り始め、もう一回縛ると柔軟剤の強い匂いに鼻を打たれた。誰にも照らして貰えないカノンは、まだジャージを被るのに苦戦していた。「これで袋状になった。小さくなっちゃったけど」

 行ってくる、と歩き出したレレ子の背中を照らしてやる。

 カノンが近付いて来て肩を掴まれ、光の中でレレ子の背中が揺れた。

 金魚すくいみたいだ。

 両手で袋を広げたレレ子が、ちょうど結び目が重くて下に垂れてるのを、口のある辺りでゆっくりと持ち上げた。背後からは、そもそも見えないから、正面からだ。完全に口が隠れた瞬間にレレ子が袋の口を握り締めた。そしてなぜかこっちに戻って来る。

「え、なに。どうするのそれ。待って来ないで」

 騒ぐカノンの目の前で横に曲がり、壁に設置されていた棚の引き出しを開け、そこにシャツを突っ込んで引き出しを閉めた。「ふうー、これでよし」汗なんか拭う仕草をして、胸に溜まっていた物を吐き出した。レレ子が入り口の脇を見やって、満足気に頷いた。

「いいんだ。なんか、シャツを噛み千切ったりとか」

「飲み込んだりとかね」レレ子が引き出しの写真を撮った。「宇宙に紐を伸ばして、宇宙の端から端までを通って、戻って来た端を掴んで両方を一気に引っ張るんだけど」

「え、なんの話?」疑問符を押し退け、カノンが明るい声を出す。「それ知ってる!」

「もし宇宙に貫通創、って言うのか知らないけど穴があって、ドーナツ型である時、紐は途中で引っ掛かって回収出来ない、っていう予想が科学の世界にある。たとえば人が頭に被った袋を飲み込んでも頭に引っ掛かって途中で止まるわけじゃん」

「そういう問題? それは」

「でも口しか無いとしたら、どこにも引っ掛からないわけだから、最後の最後まで飲み込んだら袋は全部無くなるんじゃないか、って思うんだけど」

「どっちかって言うとブラックホールじゃない、その口?」とカノンが口答えした。

「まあどっちでもいいけどね。とりあえず、早く行こう。二人とも立って」

「どこに行くの?」

「気になる場所が一つあります。さとぴ、書いてた地図もう一回見せて」


 半開きのドアの所からは走るのに必死で、大した距離じゃないとはいえ、地図なんて記していなかった。元のデパートのカバン屋を掠ったり、また離れたりして、ほとんど意味を為さないと思ったからだ。気になる場所、というのは、まさにその半開きのドアの部屋だった。

 入り口を左に出た。

 あとは最悪の最悪のケースとして、通路の構造が変わっている、という事が無いように願いながら、一本道の通路を三人で引き返した。走ったのなんて二、三右左折くらいだ。長いか短いか、よく覚えてないけどすぐだろう。

 人の利き腕を掴みながら、カノンは自分のスマホを見つめていた。

「もうそろそろ三時半だ。さすがにお腹空いたわ。さとぴ、お昼中華は?」

「いやもうお昼食べれないでしょ、そんな時間じゃ」

「え、四時に入るんじゃないの?」

「少し早めに入っとくの。しかも衣装に着替えないとだから」

「あー、そっか。時間ないね」と納得してるのはカノンが、ジャージの下に下着しか着けてない状態だからだ。先を行くレレ子が無言で止まり、後ろに手を振って、意味を示し合わせた事もないハンドサインをした。まあ止まれって事だと思うから立ち止まる。

 左の壁沿いに、長方形の枠があって、僅かに斜めに傾いていた。

 だから来た時には右の壁にあったんだって事を今更思い出した。

「また口出て来ないよね」カノンが身を寄せて来る。「今度は目とか鼻とか」

「鼻の穴が宙に浮いてても怖くないと思いますが」とレレ子が言った。

「怖いの!」変な所でムキになったカノンを無視して、レレ子がゆっくりとドアを押した。

 部屋の中は、備品倉庫らしい。四畳半くらいの正方形の部屋の壁一面に、スチールの棚が置かれていたり、段ボール箱が積まれていたりした。レレ子が先に入って、それから二人で後に続いた。自分のライトでも照らしてみると、何か、決定的に違う部分がある。

 さっきの部屋には無かった物だ。

 奥の壁に小さなガラス窓があった。

 レレ子が避けていたから、自然とそれを避けていた赤黒いシミは、やっぱり血溜まりのようで、だけど出血した何者かは、そこには居なかった。鉄っぽい臭いが微かに漂っていて、それで気が滅入るだけだ。「生臭いね。冷蔵庫に入れ忘れた生魚みたい」

「カノン一人暮らしだっけ」

「え、実家」

 家族が居てどうやって忘れられるんだ。

 棚から壁へ、ライトで調べていって、レレ子は部屋を一周した。

 窓は開かなかった。

 向こう側が真っ暗で、開いても何も無さそうで、それどころか吸い込まれたら、どうとも言えないけど、なんか宇宙の話をしたばかりだから、ブラックホールとかのイメージがあって少し怖かった。ライトは再び部屋の中心の床に、大きな赤黒いシミを照らした。

 レレ子が靴の先で擦ると、赤黒い汚れが掠れながら伸びていた。

「まだ乾ききってはいないか。靴汚れちゃったな」

「いや、そんな事より、誰の?」

「さあ。ここに居ないって事は、先に進んだか、あっ……ここから帰れた?」

「え、どうやって? 帰れるの?」

 カノンの問い掛けを無視して、レレ子がドアに近付いていった。

 置いて行かれるかと思って「待って、置いてかないでよ」とカノンは口に出した。

 レレ子は戸口に立って、ドアを見上げていた。ライトが長方形をなぞって一周すると、もう半周して、ドアノブがある場所で止まった。丸いドアノブの真ん中に、サムターン錠が付いていて、それは内側から解錠のみ可能なタイプのようだ。

 しばらく、十五秒くらい見ていただろうか、レレ子はいきなりドアを押した。

 音を立ててボルトが噛み合い、ドアはぴったり壁に嵌まって、平坦になってしまった。

「閉めた?」と聞いた。

「で、出られなくなったらどうするのよ!」カノンは激高した。

 レレ子はドアノブを照らしながら、サムターン錠を捻って、それからドアを引いた。

 部屋の中に明かりが差し込んで来る。

 奇妙なのは、背後からも、まるで雲が退いて太陽が顔を覗かせるように、光量は瞬く間に室内を満たしていった。ドアの向こうから薄く喧騒が聴こえる。斜めに蛍光灯の光が差し込んでいる。そして放送の声が、スタッフを呼ぶ五番の符牒は、恐らく害虫発生だった。

「開いたね」振り返ってレレ子が言った。「早く出よう、こんな所」

 立ち上がって、安堵で力が入らなくなったカノンを立たせ、レレ子と両側からカノンを支えて備品倉庫を出た。「うわ、え、誰?」途端エプロンを付けた女性と鉢合わせ、ブリッジしそうなほど仰け反られた。

「あ、道に迷っちゃって」と答える。「スリーマウス・エージェンシーの」

 なんでこんな気恥ずかしい事にならないといけないんだろう。

「ああ、そう。……この部屋、大丈夫だった?」

「え、何かあるんですか?」

「いやあ、ちょっと。鍵が開かなくなって人が閉じ込められた事があったって」

「開いたので。良かったです」

「あ、あの床の」と、レレ子が妙な事を言い出しそうだったので、行くよ、と急かしてカノンを引っ張った。大岡裁きで負けるつもりは無い。引っ張られてたたらを踏んだレレ子は、踏ん張って、その足を床に擦り付けた。赤黒い汚れなんて付かなかった。

「じゃあ、失礼しましたー」と言い、カノンが慌てて「ました」と被せた。

 レレ子は不満そうに足元を見ながら、それでも諦めて歩き出した。

 さて、売り場に出るドアはもう通りたくないから、階段で四階に上がると、会議室Aの前にダイモンが立っていた。「どこに行ってたんだ。もうすぐ行くぞ」腕を組んだダイモンは怒りの化身のようで、この時だけは不安を隠す為に腕を組むという心理学的な講釈も通じなさそうだった。カノンを押し込んで、レレ子が来て、ダイモンも入ってきた。

「昼飯は食ったのか? 領収書か、レシートは」

「あの、食べれてなくて。とりあえず着替えるんで出てって貰えますか」

「ああ、すまんすまん。十分くらい掛かるか。……いや、俺は下で待ってるよ」

「はーい」

 現金なもので戻って来たらカノンが元気になって、真っ先に着替えを済ませ、勝手に給湯室を借りて歯磨きまでしてきた。レレ子は顔もやってないし、一番遅い。二人でレレ子のやたら重い荷物を整理しながら、やっと会議室Aを出た時には二十分が経っていた。

 施錠して、階段を下りる間も、また異界に入らないかと少し不安だった。

 売り場に通じるドアを開けて、決して閉めないように押さえたまま、両手にビニール袋を下げたダイモンと合流した。「揚げダコ買って来たから、時間見て食っとけ」全部両手に持たされて、どうしろって言うんだろう。ダイモンは先に歩き出していた。

 追い付いて、横から聞く。「食べる場所なんてあるんですか」

「腹が鳴るよりマシだろう。他に、すぐ買える物が無かったんだよ」

「さとぴ」横から伸びて来た手を跳ね除け、さっさとブースに入る。

 空いている時間帯とはいえ、奇妙な集団だと思われているような視線を感じた。

 可愛いけど。

 そういう事じゃない。

 そういう目だ。

 やっぱりラジオくらいなら普段着で入っても良かったんじゃないかって思った。


 ディレクターは、彼自身もドーナツとコーヒーを広げながら作業しているからか、食事をするくらいなら構わないと快諾してくれた。「本日はよろしくお願いします」ダイモンが挨拶している横で、三人で椅子を並べて膝の上にタコ焼きを広げている。

 ソースと油の匂いは調整室に広がって、みんながお腹を空かせていた。

 ラジオブースでは斎藤アナとMCの、秋吉さんが喋りながら、調整室の様子をなんとなく横目で窺っている。今読まれているメールの内容も、聞いておいた方がいいだろうか。子供がやりたいと言って駄々を捏ねるので仕方なくやらせみたら思っていた以上に上手でむしろ自分が反省したみたいな、夕方のFMらしい内容に、何か言う事はあるだろうか。甥か姪のほっこり話をした方が喜ばれるだろうか。レレ子はそういうカテゴリーに入るだろうか。

 落ち着かない。

 落ち着かなすぎて、揚げダコを咀嚼しながら息が上がっている。

 耳のすぐ近くで、生暖かく、生臭さのある荒い呼吸が繰り返される。

 まるで異形の口が空中に開いて、自分が獲物として狙われているように。

 そして右からは肘を突っつかれて、タコ焼きを上手く掴めない。

「レレ子もういいの?」と聞くと、白い石を摘んで、こっちの小舟に置いてきた。

「それ持って来ちゃったせいかな」

「これ何、歯?」割り箸で掴みたくないんだけど。「せい、って何が?」

「あの口もうちらと一緒に逃げたかったのかもしれないと思いまして」

「どういう……」カノンがもう話を聞かないようにと軽く背中を向けている。

 それがラジオブースの中からだと軽い不仲のように見えているかもしれない。

 違う、これは。

 カノンと怪異はとても仲が良いから、それで照れてツンケンしてるんだ。

 不安が、緊張が、心臓を高鳴らせて、渇いた息が何度も何度も喉を通り抜ける。

 自分のじゃない。喉しかない存在そのものがだ。

 顔のすぐ左上を見上げる事が出来ない。

「早村、お前が……ううん?」ダイモンがやたら目を凝らして、こっちを見て来る。「何だお前、疲れてるのか」と言って、結局目を逸らしてしまった。ディレクターの人も口の周りを汚しながら、一瞬だけこっちを見てすぐに目を逸らした。

「大丈夫です。もうお腹いっぱいかも」

 本当はそれに気付いて目を逸らしただけなんじゃないかと少しだけ疑っている。

「そうか。次の次のCMで入るから、そろそろ準備しとけよ。台本は覚えたな?」

「え、もうそんなですか。レレ子大丈夫?」

「頭は空っぽです。好きな肉の部位はホルモン全般です」

「それでいいや。ゴミ片付けといて」

 はぁー、はぁー、ってこの息遣いはマイクに入ったりしないだろうか。

 それとも、小舟を取り出したビニール袋のサイズを、改めて確認してみる。

 始まるまでに、どうするか、どうもしないか、決めないと。


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