第26話 いくしか
最近はひどく疲れてる。しもべ生活も半月以上。お給料をもらえたら良いってわけじゃないけれど、何も見返りなく、ただ仕える――寝ている時間をそれに費やすのに疲れた。
薬を薄め続けていたら、僕のやる気も薄まってしまったのだろうか。また始まるのか、と思うと、眠たさがどこかへ飛んでいく。
はじめて、チェックインし損ねた。
時間を過ぎても、眠れなかった。
眠りたい頭と体。
でも、眠りたくない心が勝った。
気づけば窓の外は白みはじめていた。朝が来たんだ。
動きたくもない。たぶんこれまでの苦労が泡と消えたと思うと、何もかも投げ出したくなった。
「あれ、コウジー? 早く起きなさーいっ!」
久しぶりにお母さんが起こしに来て、ボーッと外を見つめながら瞬きをする僕をそっと撫でた。
「ねぇ……今日は、お休みする?」
お母さんの手も、声も、すごくあたたかい。
「いいよ。最近、頑張ってるもんね。休んじゃおっか、学校」
あたたかいけれど、心に染み込むのを、心が阻止してる。そんな気がする。
「先生に連絡しておくね。お母さん、今日お仕事休ませてもらうから」
そんなことしなくたって、いいのに。
「何か食べやすいもの、用意してくるね」
頭をポンポン、と触って、お母さんは部屋から出て行った。
たった一晩眠れなかっただけで、こんなに世界は変わるんだ。全てが終わった気がした。
お母さんが作ってくれたお粥には手をつけなかった。ただ、ボーッと寝っ転がっていた。
「ねぇ、気分転換にショッピングモールとかどう? 隣町の。いや、もっと遠いところでも良いなぁ。どこか、行かない?」
お母さんは僕の機嫌を取ろうとする。相変わらず、心のバリアはそのままで、お母さんの言葉は僕に届かず跳ね返っていった。
リビングから、着信音が聞こえた。お母さんはまた僕の頭をポンポン、と触って、出て行った。
『え、本当ですか!?』
お母さんの大声が響いて、頭が痛くなった。布団をかぶって丸くなる。限界を迎えた脳みそが、僕を今とどこかの狭間へ連れて行った。
タイチと遊んでた。体はひとまわり小さい。今じゃない。たぶん、思い出。
懐かしい。笑い合って、肩を抱き合って、楽しかった。
戻れない、過去には戻れない。
書き換えられない思い出を見つめていた。
視界に汚れが広がっていく。
それは、目の前の思い出を上書きしていくようだった。
書き換えられないなら塗りつぶしてしまえと、インクを垂らしたようだった。
ウトウトしていた。けれど、騒がしい音で鼓膜が揺れるたび、少しずつ意識が戻ってくる感覚があった。
ドタドタとした音の原因を知るために、ベッドから抜け出した。慌ただしく外出の準備をしているお母さんが目に入る。
やっぱり、仕事に行くのか。急だもんな。そんなに簡単に休みなんて取れないよね。
踵を返し、部屋へ戻ろうとした時。
「コウジ! タイチくん、起きたって!」
そう叫ぶお母さんの声。言葉の意味を理解して、僕の体は、硬直した。
しっかりしてよ、と何度も揺すられて、ハッとした。お母さんが「せっかく休んでるんだもん。行くっきゃないでしょ!」と、僕の腕を引っ張った。
フラフラしながら病院へ行ったら、面会受付にいた人に「受付はあちらですよ」と診察受付を指し示された。
お母さんは、「あぁ、こっちが先がいいんです」と言いながら、名前を書く。面会相手の欄にタイチの名前を書くなり、なるほどだからこんなに焦っているのかと納得がいったのか、テキパキと手続きを進めてくれた。廊下を競歩で進む。と言っても、僕は競歩のお母さんに引きずられていただけだけれど。
コンコン、とノックして、ガラガラと扉を開けた。
ベッドを起こして、座っているタイチが、そこにいた。
「よぉ、コウジ」
少し恥ずかしそうに、手をひょいとあげながら、タイチはそう言った。
言った。
表情も、声の柔らかさも。
それはウトウトした時にみた、ひとまわり小さいタイチにそっくりだった。
「お前、ヨロヨロだな」と笑ったかと思えば、「なんか俺、ずっと寝てたらしいよ」と頭をかいた。
「そう、ですね」
「なんだよ。なんかテンション低いな」
テンションが低いわけじゃない。ちょっと心が死んでるだけ。それに、これは癖だ。しもべの癖。全力で今を受け止めようとすると辛いからって身につけた、表情と返答。
お母さんたちは何か話してる。よかったですね、とか、今日は休んだんですか、とか、調子悪いのにごめんなさいとか、そんな話を。
お母さんたちの話は途切れない。けれど、僕とタイチの話は、ちっとも弾まなかった。
「俺、なんで寝てたんだろ。ウケるんだよ、なんかさ、寝ながらトイレ行ったりしたんだって」
ガハハと笑っているタイチを、ただぼーっと見ていた。
夢でも見ているんだろうか。そんなふわふわとした心地だった。
先生や検査室の都合がついたと看護師さんが言いに来て、タイチは連れていかれた。ウトウトしながらトイレに行っていたくらいだから、筋力にそれほど問題はないらしい。しっかりとした足取りで、歩いていった。
「じゃあ、私たちはこれで」
「すみません、急に電話して。それに、来てもらっちゃって」
「ううん。教えてもらえてよかった。なにか助けになることがあったら、なんでも言って。力になるから」
「ありがとう」
お母さんたちの話を聞き流し、診察受付を素通りした。
本人不在の覚醒祝いをするためにと、ケーキを買って帰ることにする。
平日昼間のお店は久しぶりで、こんなに人がいなかったっけ? なんて不思議に思う。まるで、夢の中にいるような気分だった。
家に着くなり、僕は「少し休んでくる」と、ひとり、部屋に戻った。
ドアを閉め、ランドセルに手を伸ばした。時間割表の裏に隠した封筒を引っ張り出す。
昨日、チェックインの文字を見たきりだ。ウトウトはしたけれど、リトルホテルには行かなかった。
この招待状は今、どうなっているだろう。
まだ、チェックインと書いてあるのだろうか。
僕に記憶があるんだから、強制的に拒絶手続きをされたわけじゃないはずだけれど。
もう、あそこへは行けないのだろうか。
相沢さんが僕にみせた、ちょっと悲しそうな顔がぼわん、と浮かんだ。
相沢さんに、また会いたいと思った。
彼女なら、何かを知っているはずだ。
会いに、いかなくちゃ。
もしここに、もう二度とくるなと書いてあっても、どうにかして行かなくちゃ。
唾液をごくんと飲み込む。
封筒の中に指を入れた。硬い板に触れた。一思いに、それを引き抜く。
ぱっと見て、いつもとは違う文章がそこにあることに気づいた。よくよく読むために、窓から射し込む光にかざしてみる。
ドクンドクンと、打つほどに強くなっていく鼓動。
瞬きを忘れて、僕はその文字を何度も追った。
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