第25話 きょぜつ




 話が終わり、ここを去る前に、出してもらった紅茶を飲み干そうとカップを手に取った。

 ぐいと飲み干すと、カップの底には、絶対に溶けないぞと気合で耐えでもしたのか、僅かに砂糖の結晶が煌めいていた。

 はたと意識が相沢さんからタイチへと移っていく。同時に、不安に押しつぶされそうになった。

「そうだ! リラクゼーションルームでくつろいでいるのは良いんだけれど、薬、どうしよう!」

 もし、タイチが自分で作ってしまったり、誰かに作らせてしまったらゲームオーバーだ。

 手のひらがジトリと湿りだす。焦りが汗となって吹き出していた。

「まだ間に合います。安心してください。お友だちが待つお部屋まですぐに行けるよう、これから館内のレイアウトを組み替えます。ここを出たら、三回、大きく深呼吸をしてください。そして、ピィピィについて行ってください」

「深呼吸に、なにか意味があるの?」

「いいえ。ただ、私が処理を施す時間を頂きたいだけです」

 相沢さんの顔は、本当のことを言っている人の顔で、すこし恥ずかしがっている可愛らしい顔だった。

 言われた通り、部屋を出るなり三回ゆっくりと大きく深呼吸をした。肺丸ごと、空気を入れ替えるように。

 脳みそにたくさんの酸素が送られたからか、スッキリとした気分だ。ピィピィは大人しく飛び回っていたけれど、僕の視線に気づくと「ピィッ」と耳で敬礼した。

 任せてって言っているように見えた。

「タイチのところまで案内して」

「ピピィッ!」

 ずんずん歩く。床の色が変わる。

 これまでの移動と比べると、驚くほど短い距離だった。ピィピィが耳さす扉を、「失礼します」と言いながら開く。

 するとそこには、前に入った応接室よりも、もっとすごい空間が広がっていた。

 ゲームとか、ちょっとした遊具まである。

 視界に人影はなく、声もしないけれど、物音が少しだけ聞こえた。その方へと、おそるおそる進む。

 広い広いバスルーム。まん丸の形の湯船がブクブクと泡を吐いていた。ジャグジーだ。そこに満足げな顔をしたタイチが浸かっている。

 男同士とはいえ、きちんとした声掛けなしに裸を見るのはどうなんだろうか。いや、ダメだよな? うっとりと目を閉じて浸かっているタイチは、僕に見られたことに気づいていないようだから、バスルームの外まで後退する。

「失礼します」

 そう何度も言いながら、バスルームに入り直し、タイチに近づいた。

 声に気づくとタイチは僕を見て、「いやぁ、いいご褒美を貰えたよ」と満足げに笑った。ジャグジーに浸かったまま、仕事を頑張ったご褒美にとこの部屋へ招かれたと教えてくれた。

「それはよかった、です」

「あぁ、そうだ。風呂に入ったら喉渇いたからさ、作っておいてくれない?」

「はい」

 一足先にバスルームを出て、監視の目がない状態で粉を溶く。僕がこの役目を担いだしてから、いちばん薄いジュースができた。

 お風呂に入って気づかぬ間に肌から抜けていった水分を、喉が、体が欲していた。タイチはゴクゴクと美味しそうな顔をしながら、薄いジュースを飲み干した。

「この後は……?」

「しばらくこの部屋にいていいって聞いてる。えっとねぇ、お前が寝て、起きるくらいまで」

「そう、ですか」



 チェックアウトを促すアナウンスを受け、タイチに一礼して部屋を出た。通路を抜け、フロントで鍵をもらって、自分の部屋へ行く。疲れていたこともあってか、ふかふかのベッドに身を投げるとすぐ、眠りに落ち、覚醒した。

 忘れたくないことを急ぎメモして、キッチンへ向かう。

「おはよう」

「おはよう、コウジ。最近目覚ましの音がしない気がする。早起きだね。すごくいい体内時計でも入ってるの?」

 お母さんに茶化された。

「なんか目が覚めるんだよね」

「そっか。そうそう、卵焼き作ろうと思ってさ、卵割ったら双子だったの! なんかいいことありそうじゃない? 溶いたらご利益減りそうだから、目玉焼きにしちゃった」

 フライパンの蓋を取ると、ブワッと蒸気が逃げ出して、目玉焼きが姿を現した。けれど、一気に三個分焼いたからだろう、双子といえば双子だけれど、強引にそうなるように焼いたようにも見えた。

 たとえば、僕をいい気分にさせるために、そんな小細工をした可能性だってあるわけだ。

 僕が反応しないことを、信用されてないと捉えたのか、はたまたフライパンを分けずに、ないしは焼かずに割った状態で保存しなかったことを悔やんでか、お母さんは「うぅ」と唸る。

「本当に、双子だったんだよ? ここ、コレ。分かる?」

「ふふ、分かる分かる。コレ、こっちよりちょっと黄身が小さい気がするし」

「ゆで卵にすればよかった」

「それじゃあ双子かわからないよ」

「じゃあ、ポーチドエッグ」

 お母さんと僕が卵の話を楽しんでいるのを、お父さんがリビングから、優しい眼差しで見ていた。


 タイチがいないままだけれど、学校は平穏を取り戻している。

 リトルホテルへのチェックイン拒絶手続きをおこなった人が続出したからだ。みんなが行かなくなると、これまでは当たり前だったヒソヒソ話が減って、リトルホテルを知る前の教室が戻ってきたように思えた。みんな、何ごともなかったかのように、生きている。

 拒絶手続きの仕方は、説明書に書いてあった。時々黒塗りされてたり、「絶対ダメだよ!」って落書きされてたりもしたけれど。

 みんなもう、リトルホテルを忘れてる。けれど、それでいいんだ、と思う。記憶が消えたからこそ、今、普通に話ができて、他愛もないことでゲラゲラ笑えているんだから。



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