第20話 いきている




「ピイッ」

「あ! ピィピィ」

「ピッピピィッ」

 耳の先をツンツン。あっちにいこう、ついてきて、とでも言っているみたいだ。

「行くよ、行く行く」

 すっくと立ち上がり、ノートを片手にピィピィに続く。ずんずん歩いて、歩いて歩いて。もういい加減着かないの? なんて不満を漏らさずにはいられないほど歩いて、ようやくたどり着いた場所。

 ひたすらに続く壁と窓。その途中、貧相な扉が不自然に取り付けられている。

「ピイッ!」

「分かった分かった」

 ピィピィが耳さす扉をコンコン、とノックして、「失礼します」と呟きながらノブを捻った。ギィと軋みながら、開く。

 扉を開けた先で、目をまん丸にして驚いていたのは、薬のおばさんだった。

「わぁ! いる!」

 思わず叫んだ。失礼とかそんなことは考えていられない。

「なんで……なんでここが分かったんだい!」

 見られたくないらしい。おばさんは手元にあるいろいろな器具を、体と手と、その辺の布で急ぎ隠す。そして、扉の向こうからひょっこりと中の様子を覗くピィピィに気づいて、合点がいったらしい。「お前は捨てたんだよ。戻ってくるんじゃない」と呆れたように吐き捨てた。

「あの! あの薬、どうしたら効果が無くなりますか?」

 この人なら絶対わかる。

 そう思って、訊いた。

「なんでそんなこと訊くんだい?」

「友だちが、友だちがあの薬のせいでおかしくなったからです!」

「おかしいって……あの子の意思だよ」

「意思なんかじゃない!」

「じゃあ、なんだってんだい」

「はじめは……はじめは意思かもしれない。でも、今は違うと思うんです!」

 おばさんは大きなため息を吐いた。その拍子に、口からもくもくと暗い色の煙が出た。黒とか紺とか、紫みたいな濃い色の煙が。

 タバコとかの煙だとしたら、白いんじゃないだろうか。

 なにか、たとえばタイチに渡した薬を自分も飲んだりしていて、それが吐息に混じったりしているんだろうか。

 普通に生きている人間が、普通に吐く息じゃない。

「まぁ――」


 言葉を選んでいるらしい。訪れた沈黙に音符を並べるように、カチャカチャと器具を片付け始めた。

 僕はただ、「まぁ」に続く言葉を待った。

「あれだよ」

「なん、ですか?」

「キミは、チョコレート食べるか?」

「え?」

「今じゃないよ? あげないよ? チョコレートをおやつとかで食べるかって訊いてる」

 論点がズレたような気がする。問いただそうか刹那悩んで、けれどひとまず会話に乗った。

「食べます。まぁ、チョコレートは虫歯になりやすいからって、しょっぱいおやつを食べることが多いし、ジュースを飲みながら食べるなら、甘いものって合わない気がして。だからよく食べるわけではないです」

「はぁ……。ジュースを飲むならチョコレートを食べてもいいと思うけどねぇ。どうせ歯磨きするんだろ?」

 たしかにそうだ。何も言えない。けれど、会話が大脱線していることについては文句を言ってやる。

「話がズレてます。僕は薬の効き目を――」

「だからねぇ」

 僕の言葉を遮って、おばさんは話し始めた。

 バカにしている感じはない。ただ、分からず屋に懇切丁寧に説明をしてやる優しい人、とでも思い込んでいるかのような口ぶりで、

「なんでチョコレートの話をしたかって言えば、あの味を知ったらやめられないからだよ。もちろんね、チョコレートにアレルギーがあるんだか知らないけれど、そう言う『食べたら死にます』ってことになったら仕方なしに食べなくなるんだろうけどさぁ。たとえ糖尿になろうと、量は減らせど口に放り込みたくなるもんなんだよな。あのジュースだってそうさ。味を知ったら、やめられない」

「それは……覚醒剤みたいなものってことですか?」

「またまた物騒な言葉を使うねぇ。まぁ、そうだねぇ。うーん。このホテルにおいては、そうだねぇ。しかし、キミが言いたいことを察するに、覚醒剤、というよりも、非覚醒剤と言ったほうがいいような気もするがね」

「どうして、そんなものを配ったり、売ったりするんですか?」

 急に、おばさんがすごく優しく微笑んだ。

 ずっと、悪い人だと思っていた。それこそ、魔女だと思っていた。けれど、この時。お母さんみたいな、すごくあったかい笑みで僕を見た。

「ここにいる間は、絶対に生きているからさ」

「……え?」

「ここでどれだけやさぐれようとね、生きているからさ」

「えっと……」

「死んだ人間は、この場所にはいないんだよ。みーんな、生きてる。私はただ――現実から逃げて、現実の外側で好き勝手過ごすことができてもいいじゃないかって、そう思っているだけさ」

 おばさんは、棚から手帳を引き抜いた。僕には中が見えなかったけれど、何かを優しく撫でている。

「じゃあ、お金をとる理由は? 働かせる理由は?」

「人生経験さ」

「でも、溺れて……薬に溺れてしまったら、そんな経験なんて」

「意味、あるんだよ」

「え?」

「キミみたいな、『コイツをどうにかしたい』って思ってくれる人がいる奴は、たいてい元に戻るんだ。それが、飲まなくなるからか、飲めなくなるからか、拒絶するからかはその子次第だけどね」

 僕みたいな人がいるなら。

 それは、裏を返せば、僕みたいな人がいなかったらずっとここにいるってことか?

「ここの記憶をなくしても、ここで身につけたことは忘れない。ほれ、そろそろ帰っておくれ。私も仕事に行かないといけないから」

「仕事? これは、仕事じゃないの?」

「ん? これは副業。別の仕事もあるもんだからね。ほれほれ、行った行った」

 もっと話を聞きたかったけれど、おばさんにはこれ以上話す気はなさそうだった。

 ありがとうございました、と頭を下げて、扉を開く。


 扉の外には、ここへ来た時とはまるで違う景色が広がっている。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る