第32話 過去編⑥

 悟は、麗羽のただならぬ反応を見て、流石に放っておく事ができなかった。


 悩んでいる問題を聞いたこともあって、必ずその男が関わっているだろうと考えた。


 そうなると、麗羽が一人であった時にどうする事も出来ないのではないか。


 そう考えると、行動せずにはいられなかった。

 彼女に気づかれないように、かなりの距離を開けて麗羽の跡をついて行った。


 ストーカーだと思われて嫌われたとしても、彼女に何事も無いことが確認出来ればいい。


 そう思っていた。


 だがしかし、物事はそんな望み通りにはならなかった。


 遠目から見ても分かるような明らかな異変から、その現場に追いつく頃には、男は麗羽に向かって牙を向いていた。


 すかさず悟は、その男の腕を力いっぱい掴み上げた。


「何だ、お前?」

「その子から手を離せ。このクソ野郎」

「さ、悟……」


 許せない。


 単純に彼女のことが大切という理由もある。

 それ以上に、何故これだけ苦しみながら必死に頑張る子が、こんなに怖い思いをして泣かないといけないのか。


「クソ野郎だと? 最近のガキって、言葉遣いも分かってねぇのか。俺のこと、分かってんのか?」

「ああ、知ってるさ。とんだ暴力を振るう最低DV男なんだろ?」

「はぁ? 好き勝手なこと言いやがって……。俺はそいつの父親だぞ!」

「面白いことを言うな。父親が娘をこんなに泣かせるのか。説教にしたって異常すぎるぞ!」


 一先ず、麗羽をつかんでいる腕を話させるべく、悟は思いっきり男の手首を捻りあげた。


 物理の原理で、人の手首の可動域を考えれば時計回り・反時計回りどちらでも良いので思いっきり回せば、どんな相手でも痛みで怯ませることが出来る。


 思った異常に痛かったのか、男は顔を苦痛を浮かべてすぐに麗羽から手を離した。


「っ! てめぇ、何してるか分かってんのか!」

「さぁ? 手首よく見てみろよ。何の跡もないし、お前が勝手に痛がっただけだろ」

「クソ生意気な……! 他人かつガキの立場のくせに、家族の問題に口を出す気か? 」

「家族だとするなら、こんなことを彼女にするわけがない。その感じだと、麗羽に対して最低な事をしようとしてたみたいだしな。お前のその最低な欲望のためにその言葉を盾にすんじゃねぇよ」

「こ、こいつ……!」


 悟と、男は激しく言い合いを続ける。

 しかし、冷静さが一貫して全くない男は、次第により激しく苛立つようになった。


「ヒーロー面したカッコつけ野郎が……。ぶち殺すぞ!!」


 遂に限界を迎えたのか、怒鳴りつけるようにして恐ろしい言葉を吐く。


「悟、ダメ! 本当に襲われる! 早く逃げて!」


 麗羽は泣きじゃくりながら、必死に悟の服を後ろから掴んで逃げるように訴えてくる。


 だが、ここで逃げるなどという選択肢は、微塵もない。


「やれるもんならやってみろよ!」

「どこまでも調子に乗りやがって……。後悔しやがれ!」


 男は握りこぶしを作って、思いっきり悟の頬を殴りつけた。


 それを見た麗羽は、声にならない悲鳴をあげた。


 悟は殴られた方向に、顔の向きが勢いよく変わった。

 明後日の方向を向きながら、悟の中にあった心の闇が完全に爆発した。


 それは、「自分が嫌いで、自分自身を破壊したい」という感情。


 自分で傷付けるほどの行動を起こすことは出来ないので、ただただ自分嫌いの感情を溜め込んでいるだけに過ぎなかったもの。


 そんな中で、遂に自分自身が破壊されかねないレベルで傷付くことになる出来事に遭遇した。

 それも、麗羽というずっとそばに居て大切にしたいと思う人を守る状況にも置かれている。


 その二つの条件が合わさった今、悟は自らが傷付くことに高揚感を感じるような狂気に支配されていった。


 そして、ゆっくりと男の方にゆっくりと向き直る。

 口角から血を流しながらも、笑みを浮かべながら。


 それはまるで、創作物でよくある力尽きること無いロボットやゾンビが、どんなに攻撃を加えられてもターゲットへ視線を向け直すかのように。


 少しだけ理性を取り戻した男にとって、その狂気に目覚めた悟の姿は、あまりにも恐ろしいものに見えていた。


「な、何だお前は……!」

「……ほら、もう終わりか? ぶち殺すんじゃなかったのかよ?」


 笑いながら、男との間合いをゆっくりと更に詰めていく。

 恐怖を覚えた男は、悟の詰め寄る幅と同じだけ後退りをしていく。


「こ、こっちに来るんじゃねぇ!」

「何だ、偉そうな口を聞いておいてビビってんじゃねぇか、いい気味だな。だけどな、その何倍も麗羽は恐ろしい目に遭ってんだよ! お前のせいで!」


 悟は、更に男を追い詰めていく。


「うわあああ! こっちに来るな、化け物があ!」


 追い詰められた男は、再び悟の頬を殴った。


 ただ、一発目とは全く意味が異なっていた。

 二発目は、自分に迫ってくる「得体のしれない恐ろしいもの」を振り払おうと、咄嗟に出たものだった。


 一方の悟は、何も変わらない。

 殴られても、再びゆっくりと男の方へと向き直る。

 口から血を流しながら、ケラケラと笑いながら。


 その一つ一つの動きが、男にまた一段と恐怖を与えていく。


 その後も、男は何度も"自分の身を守るために"、近づいてくる悟の顔を殴った。


 それでも、悟は倒れない上に何も変わらない。


 しばらくすると、男が完全に心を砕かれてその場にへたり込んでしまった。


「警察だ! 何をしてる!?」


 後から聞いた話だが、近所の住民がこの騒動を目撃して通報していたとのことだった。


 現場の状況を見て、無傷なのにへたり込んでいる男と、顔を血だらけにしているのに何もなかったのような顔をしている男子中学生、そして泣きじゃくる女子中学生という異様な状態に、駆けつけた警察は困惑していた。


 現場の状況から、男は傷害罪で現行犯逮捕されることとなった。


「悟……!」


 男が警察に逮捕されると、麗羽はすぐに悟に近づいて抱きついた。


「……ごめん。やっぱり心配なったから」

「私の方こそごめんなさい! こんなことになるなんて……」

「俺は大丈夫。だって、麗羽のこと守れたから」

「だからって、こんなにケガすることになるなんて……」

「良いんだよ。これであいつはきちんと警察に拘束される。それに……」


 警察が来る直前の男は、完全に悟に怯えていた。


 傷害罪でどれほども懲役が科せられなくても、あれだけ恐怖を感じていれば、自然と麗羽達に近付くことはしなくなると思えた。


 皮肉にも「自分嫌い」の限界が、男の社会的立場、そして精神的なものを完全に"殺してしまった"ということになる。


 それも、全く男へ手をかけることもなく。


「俺がいる限り、怖がってあいつは麗羽のところに来ない。だから……」


「心配するな」って、最後の一文字まで格好をつけて喋るつもりだった。


 だが、その言葉が出ることはなかった。


 異質な高揚感によって感覚が麻痺していたが、やはり成人男性からの殴打が、小さなダメージで済むわけがなかった。


 視界が歪んだと感じた後は、急に体に力が入らなくなってその場に倒れ込んだ。


 麗羽が涙目になって必死に何かを言ってくるが、それもよく聞こえなかった。




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