第31話 過去編⑤
二人は順調に成績を維持したまま、冬の時期を迎えていた。
しかし、麗羽を取り巻く家庭環境は依然として改善されることはない。
麗羽の母親が言った通り、どんな事があっても麗羽の前では「良い義父」という顔をしている。
大前提として、行っていることが最悪なので、何をしても不愉快なのは間違いない。
だが、こうして偽りの顔をして自分を騙そうとしてくるところに、気分が悪くなる。
「……あんまり顔色が良くねぇぞ。無理しない方がいいんじゃないか?」
悟としても、麗羽の様子が日に追うごとに悪化していることは感じていた。
あれだけクールで棘がある感じだったのに、今では不安そうに側へ引っ付いてくることも、珍しくなくなりつつあった。
体調不良ではなく、何かしら精神的に追い詰められている要因があることまでは、悟の中でも察しが付きつつあった。
「だ、大丈夫だから……」
「その様子で言われても、説得力が何も無い。一体、何があったんだ。聞かないほうが良いと思ってこちらからは聞かないようにしてきたが、どんどんおかしくなってきてる。流石にほっとけない」
彼女が話さない以上、踏み込んではいけない領域だと考え、触れないように過ごしてきた。
しかし、ここまでおかしくなってくるとそのままスルーすることなどとても出来ない。
「……数ヶ月前に母親が再婚したの。でも、その相手がDV男で、母親が苦しんでる。でも、私にはどうすることも出来ない。私に被害が及ばないために、関わるなって。その言葉通り、必死に知らない顔をするけど、それが辛くて! そして、あの男が恐ろしくて憎い!」
「……」
やはり聞くべきではなかったのではないかと、悟は瞬時に感じてしまった。
大人の男でも、こんな話を聞いてどうするべきか的確に話せる人がどれほど居るだろう。
ましてや中学三年生というガキには、こんな問題の解決策を出せるような頭も力もない。
聞くだけ聞いて、返す言葉がない。
この話の重さから逃げることはしなくても、受け止めきれるほどの能力がない一つ備わっていない。
そうなってしまったことに、激しく後悔した。
「そんな中で、お前はこれだけ頑張ってんのかよ……」
何とか出たのは、こんな状況に置かれても結果を出し続ける事への驚きの言葉だけだった。
「だって、母親と約束したもの。私は『荒んだりしない』って」
忠実に、母親との約束を守ろうとする麗羽。
それは、反抗期真っ只中の悟にとって、胸に突き刺さるものがあった。
何の罪もないのに、耐え難い苦しみを持っている同い年の女子が、これだけ親のことを慕っている。
それに比べて、何の不自由もないのに何かに付けて親に噛みついて喧嘩をしている自分は一体何なのか。
この重すぎる問題に対して何一つ力になれない無力さと、彼女と比べて自分が如何に甘えったれているかを感じてしまい、自分に腹が立ってしまう。
(やっぱり、俺は俺のことが嫌いだ)
その感情は、自分自身を破壊してしまいたいという危険な衝動を呼び起こす。
ただ、だからといって何か自分で傷付けるほどの行動を起こすわけではない。
ただ、頭の中で一人で勝手に怒り狂って暴れて混乱している、そんな表現が正しいのかもしれない。
「あなたまでそんな顔、しないで欲しいわ」
「す、すまん……」
「あなたのことだから、きっとこの話で色々と私のために考えてくれているのでしょう? そして、もどかしい気持ちになってしまっている」
「……余裕ないくせに、本当にそういうところはきっちり把握するよな」
「でもね、これだけは分かって欲しい。あなたのおかげで、私はまだまともで居られる。あなたが側で話し相手になってくれて、こうして居られるだけ一緒に居てくれる。それが何よりもの私にとって、唯一の癒やしになっているのだから」
あまり良くない顔色ながら、悟に向かって精一杯の穏やかな笑顔を向けてくる。
「……そうか。なら、もっと俺が癒してやれることはないのか?」
「そうね。じゃあ……」
麗羽はそう言うと、悟と向かい合うような位置に座っていたが、立ち上がって悟の隣に座った。
そして、静かに悟へ体重を預けてきた。
「ちょっとだけ、甘えたい……かしら」
「……ちょっとと言わず、いくらでも甘えたら良いだろうが」
悟は優しく彼女の頭を撫でた。
すると、麗羽はより悟の方へと顔を埋めてきた。
「……あなたが居てくれて、本当に良かった」
「最初のきっかけは、最悪だったけどな」
「あ、あれは忘れて頂戴」
「それでも、こうして今は誰よりも一緒に居るんだから、分からないものだな」
「……そうね」
そんなやり取りをしながら、彼女を落ち着かせるように頭を撫で続ける。
置かれている状況からすれば、あまりにも微々たる力にしかならないが、それでも彼女が求めることに対して、ただひたすらに。
そう思っていたときだった。
「!」
突然、麗羽のスマホが音を立てて震えだした。
彼女が手にとって画面を見た瞬間、ようやく落ち着いてきた様子が一変した。
小刻みに震え、顔は今日一番真っ青になってしまっていた。
「……ごめんなさい。今日はもう帰るわ」
「ど、どうした。何があった!?」
「だ、大丈夫。何でもないから……」
「そ、そんなわけないだろ!」
絞り出すようにそう言った彼女を見て、どう見ても大丈夫だとは思えなかった。
「本当に大丈夫だから! だから、今日はもう解散しましょう」
そう言うと、彼女は荷物を持ってそそくさと店から出ていってしまった。
※※※
早く帰らなくては。
暗い夜道の中、麗羽は必死に足を動かして家に向かっていた。
連絡してきた相手は母親で、「DV男が、飲み会帰りのついでに麗羽を迎えに行くと言って聞かない。早く帰って来て欲しい」との連絡が入っていた。
これまでは、男と麗羽が二人っきりになることは一度もなかった。
しかし、ここで迎えに来るということは、見つかったりでもしたら、一対一の状況が出来上がる。
そうなったとき、どうなるのか。
考えただけでも恐ろしいし、自分の心が保てるような気がしない。
だからこそ、何とか遭遇しないうちに帰らないといけない。
いつもどこで居るかなどは一切口にしていないので、悟と居た店のことを把握されているわけではない。
逆を言えば、どこで自分の事を探しているか分からない。
つまり、どこでも遭遇する可能性があった。
「あ、見つけた」
「っ!?」
その可能性を考慮したとしても、この日ほど自分の運のなさを恨むことは、もう一生無いと思える。
この世で一番聞きたくない声を、この最悪の状況で聞くことになってしまったのだから。
「麗羽さん、だめじゃないですかぁ。いくら勉強してるって言っても、こんな暗い夜道を歩いちゃ」
男は若干、呂律が回っていない。
連絡を受けた通り、酒に酔っている。
「す、すみません……」
「お前には関係ない、黙れ」という言葉を、喉元で必死に抑えながら話をする。
「だから心配なって、待ってたと言いますか? この道は通るだろうなって思いましたし」
後半の言葉に、恐怖で腰が抜けそうになった。
こんな男に、自分がどう行動するか予想される気持ち悪さと怖さが度を越していた。
「さ、帰りましょう。お母さんも心配しているでしょうし」
「……」
反抗するわけにもいかず、大人しく一緒に帰ることしか出来ない。
僅かに距離を離して隣り合うような状態にしようと試みたが、男はその間を詰めてきた。
小刻みに震える足を何とか動かして、前に進む。
「しかし、本当によく頑張りますね。お母さんの言う通り、麗羽さんは非常にいい子だ」
男はそう言うと、麗羽の頭を撫でるように触れてきた。
その瞬間、麗羽は何かを汚されるような感覚がした。
先程まで、自分の事を大切に思ってくれる人に優しく撫でてもらったことで得た、癒しそのものを。
「触らないで!!!」
その時が限界だった。
不愉快さと恐怖だけなら、まだ自分を大人しくさせる事ができていた。
しかし、今の自分にとって無くてはならないものを汚されると感じたときの怒りだけは、どうしても抑える事が出来なかった。
男の手を思いっきり振り払った瞬間、麗羽は男の顔を見て凍り付いた。
その時に初めて、その男の"本性"を見ることになった。
元々、麗羽に対してはずっと隠していたものが、酒に酔っていることもあって、こうしていとも簡単に現れた。
「ったく、父親である俺の言うことを素直に聞けないのか! ったく、躾が必要だな……」
「い、嫌だ……。何をするつもり」
思わず後ずさる麗羽に、男は容赦なく近づいてくる。
そして、麗羽の腕をしっかりと掴んだ。
「何って、ちゃんと躾けないとな。俺の言う事を聞くようにな。なぁに、心配することはないさ。お前の顔は良いからな。何をしたって都合のいいようになる。俺の言う事を聞くようになれば、尚更だ」
この時は、何を言っているのかよく分からなかった。
しかし、このままでは自分の考えを遥かに凌ぐような恐ろしい目に合わされることは、本能的に察していた。
「俺のためになってもらうからな。なんたって俺はお前の父親だ。それなりにしてきてやったこともあるだろ? 親孝行ってやつを、お前も俺にしていく時期だと思うがな?」
「あ、あなたなんか私の父親じゃない……」
それは紛れもない事実。
だが恐怖や絶望が支配して、思ったように声が出ないし、震えている。
「じゃあ尚更、今からやる躾だって何ら問題ないよなぁ!? 父親じゃないってことは、家族じゃないってことだもんなぁ!?」
「っ!」
この時点で、何となく察しがついてしまった。
家族じゃなければ問題ない。
そんな言葉が成立するようなことで、こんな男が求めることなど、それしか無い。
恐怖で涙が止まらない。
覚悟を決めて目を強く閉じた時――。
麗羽を強くつかんでいた力が、緩まっていくのを感じた。
「何だ、お前?」
それに合わせて、不機嫌そうな男の声も聞こえてくる。
「その子から手を離せ、このクソ野郎」
その声は、これまでずっと自分の心を穏やかに安らぎを与えてくれていたもの。
目を開けるとそこには、悟が怒りの形相を浮かべて男の手首を握り潰しそうな勢いで摑んでいた。
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