転章

26 棺

「決したか……」


ずっと見ていた男がいた。

戦った兄弟、その果て人としての優しさという曖昧なものの前に命を失った兄、その心を知って猶理解したくなかった弟。

状況を思うがままに進めたと思い込みたい首謀者。

愛した末、愛した男と共に死んだ女。


「王よ」


雨に濡れる草むらに転がる亡骸の傍にアウディルは現れた。

たっぷりとした金の鬣の魔獣族が獅子の面に憂いの表情を浮かべる。

獣の瞳に敬意を湛えていた。


「あなたの気持ちは、わからないでもない……」


明けることのない眠りに落ちた魔王と、その胸を枕にした白い顔の女に目を落とした。

雨粒が、死んだ女の頬で跳ねた。

アウディルは思う。


ラシュの人生は、魔族であろうとした時も、人族であろうとした時も、偽物だったかもしれない。

それとも、どちらも本物だったのか。

死とともに訪れた真実が、ラシュの顔を安らかに見せているのか。


「貴方は、幸せだというだろう。

 無欲な貴方が、ただひとつ、執着するものを見つけることができたから」


アウディルはそっと目を閉じた。

黙祷は長く、アウディルは、魔王の語った未来を総て思い出す。


そして———


アウディルは右の手刀をラシュの肩に突き刺した。

死してあまり時間も経っていないラシュの体から、血が高く舞い上がった。

肉をつぶす音がする。

アウディルは皮膚を剝いだ。

爪の先には色褪せた魔王の紋章が在った。


「これで、貴方はただの人だ」


紋章をラシュの身体から引き千切り、アウディルは微かに笑ったような口許を見せた。

左の腕でラシュとマリアを一抱えにして、アウディルは湖の上へ飛んだ。

湖は空から落ちる涙を吸い込むように黒く、静かだった。

アウディルは、砂を零すように手からラシュとマリアを離した。

湖はふたりを包むように受け入れた。

沈んでいく二人の様子は、しがらみから解き放たれて、自由に見えた。




爪に因果の紋章を刺したまま、アウディルは空を見上げた。

雨は止まない。


「シーシェ、お前の見る世界は残酷だな……」


低く呟いた。







ただ静かなだけの部屋に独り、シーシェはガラスの奥の紅色の瞳で、世界を見ていた。

筆記者として、世界の全てを記録に残す使命を負っている。

世界の全てを、彼女はひとり、見届ける。

出逢いも別れも、喜びも悲しみも。


運命の瞬間も。


シーシェの唇が、不意に誰かの名を呼び掛けて、止めた。

瞳と同じ色をした真っ直ぐな長い長い髪が、どこか寂し気に揺れた。

吐息が、漏れた。

シーシェの紅い視線の先は、また、動き始めた世界。


張り巡らされた運命という名の蜘蛛の糸に絡められた人たち。


無慈悲な時に抱かれて、私たちは皆、運命の瞬間を生きる。




そして、その時へ———




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