25 羨望

血が目に入る。

虚ろな視界で、眺めている。

ファイサルはぼんやりと考えた。


ラシュの妻に相応しい女。

人族の女だ。

敵意のない直線的な眼光は、誰かを思い出させた。


あの二人に残された時間は、もう僅かだろう。

語らうでもなく、ただ、お互いの存在しか見えていない様子が、なんだろう、甘ったるくて、少し可笑しい。


ファイサルはにやりと唇を歪めた。

その時、小さな気配。

悪意、と取れるその感覚。


ファイサルは喉から絞り出すように声を発した。


「やめろ、アヴェリー!」

「良いざま


マリアがラシュに覆いかぶさるように倒れ込んだ。

眠るようにゆっくりと。

端から見れば幸せなひと時の続きであるかのようにも思えた。


ファイサルの制止の声は届かなかった。

黒い閃光がマリアを貫いていた。

ラシュはこと切れたマリアを、感覚のない両手を震わせて抱きしめた。

気の影に佇む細い人影が、常日頃から隠してこなかった自分に対する悪意をそのままに、こちらを見ていた。

もう、首をもたげる力もなく、目を開ける力もなく、だが、ラシュは短く言った。




羨ましいか




その声が聞こえたアヴェリーの動揺が空気をも振動させた。

アヴェリーは、ずかずかと草を踏みラシュに近付いた。

顔を歪めて、ラシュと人族の女を見下ろした。

笑ったままのラシュの顔を、忌々し気に凝視した。


何故、そんな穏やかな表情をして逝く。

ラシュはアヴェリーが女を殺したことがわかったはずだ。

愛する人が目の前で死んだ。

殺されたのだ。

それなのに、何故そんな顔をする。

私に向かって。


「憎いだろう、悔しいだろう。私に奪われて」


アヴェリーはパープルのグロスの唇を釣り上げた。

勝ったんだ。

邪魔だった魔王を、私が葬った。

その笑みだった。


しかし、返答はなかった。

魔王は女の亡骸を大事そうに守るように胸に抱いて絶命していた。


アヴェリーはぎり、と奥歯が軋む音を聞いた。


「馬鹿な男。馬鹿な男。馬鹿な、男!」


森に喚き声がこだました。

一頻りわめいて、それからおもむろにしゃがんで、ラシュの首筋から下がる銀色のチェーンを引き千切って、湖に投げた。

ばらばらになったチェーンは何の光も跳ね返さなかった。

弧を描いて飛んだ指輪を、紫の視線が追った。


ポチャ、と水面が小さく跳ねた。


踵を返して歩み出したが、足先が土に埋まり、歩行の邪魔した。

アヴェリーは躓いて、手を付いた。

無様な姿勢で、そのまま土を握りしめた。

苛立たしい。

拳に力が入り、次第に震え、それは全身にまで伝染した。

何度も深呼吸をしようとた。

肺に空気が入らなかった。


よろよろと起き上がり、ラシュの躯を振り返る。


「……あんなもの、もうどうだっていいのよ」


心持ちトーンを下げた声で、自分に言い聞かせるように息を吐いた。

ついと目線を上げたその先に、寸分の違いで死にぞこなったファイサルが横たわっていた。


(聞こえたわ。私に、やめろと言った。どうして?)


愛しい夫は最後の最後までラシュの肩を持った。

気に入らなかった。


ぽつりと一粒雨が落ちた。


空が泣き始めた。

ラシュとファイサルの戦いの間、泣くのを堪えていたようだった。

地面に水玉模様が増えていき、あっという間に全てを濡らした。


雨の中、アヴェリーは馬車にファイサルを乗せて居城へ戻っていった。

ファイサルの頭を膝に乗せ、アヴェリーは無表情で瀕死の夫を見つめていた。

ラシュが死んだ今、世界にファイサルを上回る力を持つ者はいない。

それなのに、ファイサルの儚い顔。


幌を叩く雨音は、世界の音を掻き消してしまう。


「……ファイサル様……」


大量の血液を失い真っ白になっている夫の顔に、アヴェリーはゆっくりと指を這わせた。




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