第5章 魔族の王

21 痛み

闇だ。

四方が鏡張りの迷路に、迷った自分の情けない顔だけが無数に浮かび上がる。

手探りで進むにも、触れれば道は消え、ぽっかりと黒い穴が開く。

暗すぎる。


真っ直ぐに歩けばよい。

そう示すのは自分の内側の声で、毛先がちりちりと焼ける感覚だけを頼りに進む。

この先にいるのは血を分けた兄弟。

どこかで違えた道を再び交わらせるために、その場所へ向かっている。




真夜中の空には星が瞬いていた。

その光が途切れる場所、人族の治める地と魔族の治める地の境界には、深く広い森がある。

木々の密集が途絶えるところには、広い湖水。

大きく開けた湖の上に、ひとり、ファイサルが立っていた。

空の闇を映した水面に沈黙して立つ。


何と声を掛けようか。


ラシュは湖に下りずに、宙で止まった。


眼下に、銀色の髪が、下から煽られて広がっていった。

ファイサルのいる場所から波紋が広がる。

ゆっくりと顔を上げたファイサルの金色の目がラシュを捕らえた。


「……ラシュ。俺は」


ファイサルは、絞り出すような声で言った。


「俺はお前を許さない。魔族の王は、俺だ。俺が相応しい!」


ファイサルは剣を抜き、一撃を放った。

ラシュの頬を灼熱が掠めた。

ファイサルの炎は夜の闇を焼いた。

握る剣の柄から刃先まで紅蓮の炎を纏わせる。

炎に、ファイサルの白い肌が赤く照らされた。

金の目にはラシュの姿が染みのように落ちている。




つい昨日も会っているのに。




否、顔を合わせただけだな、と自分の思いを否定した。

まるで別人の形相をしたファイサルを前にラシュは、逃げていた自分を省みた。

そしてラシュは、自分のこんな冷静さを、薄情なのだろうと思った。


大事な弟、自らの半身、共に生きてきたファイサルと、相容れぬ状況を作り出してしまった。

こんな殺気の含んだ剣を自分に向けさせてしまった。

こんな状況を望んでいなかった。


(……それが甘いというんだ)


ラシュの黒い瞳が翳る。


マリアが隣町のお祭りの入り口の花壇を作りに行くって言っていたな。

泊まり込みだから、日中は助産院のあの子がフレッドを預かってくれるんだっけ。

明日移動貸本屋が来たときに、フレッドにまた虫のスケッチの本を借りておけばいいかな。

マリアの方が夢中になって読んでいたけど。


マリアとの日々が、フレッドと三人で過ごす幸せが続けばいいと思っていた。

穏やかだった。


リリィが治める魔獣族の領地に、荒れ果てた竜の一族の宝物庫を移して保護する計画はつつがなく進んでいるようだな。

東の大鬼の一族から耳長族の生き残りを助け出すのはアウディルに頼んでいるから心配ないけど、経過報告をすると言っていたから時間を合わせて。

アヴェリーが研究所の予算を息子に割り振ったっていうから、ちょっと補填してやらないと気の毒だな。

ああ、今度の古都の調査はロキに同行するように言っとかないと。


王城へ帰れば、山積みの問題に直面する。

王としての責務を果たしているつもりで。


結局、どちらも傷付けた。


「……」


ラシュは一呼吸付いて、黙って剣を抜いた。

大振りの剣。

鋭い風を纏う銀色の刀身は、ラシュの心を反映するかのように、曇りなく光った。

ラシュは剣の重さを感じさせない動きで振り被る。

正面に捕えたファイサルの身体を剣気が直撃し、ファイサルはかっと眼を開いた。

銀色の髪が弧を描く。

中で大きく体を反らせてしなるように剣を繰り出すと、ラシュは刃だけを避けてファイサルに踏み込み剣を持つファイサルの右腕ごとすくい上げるように斬りつけた。

ファイサルは伸ばしていた腕を縮めるついでにラシュの頬を肘でうち、剣を躱す。

二人が身を翻す度に高い金属音が鳴る。

お互いの剣を、一刀一刀弾く。

受けるはこころ、返すは想い、金属の音だけが無言の夜に響き渡った。


均衡を破ったのは、赤い霧。

鮮血が、散る刹那の桜のように輝いた。


「……?」


痛みだと気付くまで、ラシュは一瞬の間を必要とした。

その時間を逃さずファイサルが鬼の形相で間を詰め、第二撃を繰り出す。

ラシュは身を引いたが、利き腕に剣の跡は長く、水面におびただしい血が落ちた。

眼を見開いたままのファイサルが、哄笑った。

ラシュは哄笑うファイサルの胸を斬り返した。


「……がっ……」


湖を避けて、ファイサルは地面に下りた。

硬い鎧はラシュの剣撃で割れていた。

ラシュの大剣が打ち据えた心臓が、大太鼓のように鳴っているのを、抑え込むようにファイサルは胸を掴んだ。


ラシュは、ファイサルの前に降り立った。

とん、と地面が音を立てた。

ラシュは血塗れの右腕をだらりとぶら下げていた。

それから、ちらりと右腕に視線を落とす。


(痛いな)


痛みを感じたのはいつ以来だろう。

痛いと思うことが、ラシュには嬉しかった。

斬られれば痛い。

人にしてみればそんな当たり前のこと、と言うのだろう。

人であれば痛いのだ。


「……ふ」


自嘲した笑い。

ラシュは自身に問いかけた。


(いつまで痛いと思える?)


ラシュは迷ってはいけない。

この痛みはもうすぐ消える。


(いつまで)


この剣が、ファイサルに届くまで。





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