20 笑顔を遺して

マリアは、奥の扉に向かった。

フレッドが眠っている部屋だ。

部屋の薄暗さはカーテンを閉めたままだからだったが、隙間から零れる朝の眩しさはひどく白く、瞳を刺すようだった。


これだけ騒いで起きてこないのは、昨日余程泣きつかれたのか、金の髪の男が何か術でも掛けたのかもしれないと考えながらベッドに近付き、フレッドの眠る横に膝を付いた。

顔を寄せると子供の甘い匂いがした。


「フレッド、あなたは本当にいいこ。あなたはきっとお父さんのような素敵な人になるわ」


ラシュ譲りのフレッドの黒髪を撫でる。

頬を撫でて、キスをする。

かわいい寝顔でフレッドは、くすぐったさに少し首を縮めた。

何かを求めるように、指を少し曲げる。

マリアはその手をまた撫でた。

愛しい。


子供に語り掛けるマリアは穏やかで、慈愛に満ちて、神々しくさえあった。

扉の枠に肩を預けて、レンがその様子を眺めた。

こつんと頭を木枠に当てた。

マリアの死んだ母親も優しい人だったと、昔マリアは言っていた。

マリアの母も、マリアと別れるその瀬戸際まであんなふうに優しかったんだろうか、ふと思った。


「フレッドをあんたと同じ目に遭わせるのか。両親がいない寂しさを、苦労を、マリア……あんたはそれでいいのか……」

「それでも、生きてほしい」


マリアの返事は明瞭だった。


生きていれば、フレッドにも、幸せが訪れる瞬間が必ず来るから。

私がレンに出会えたように。

私が、ラシュを愛せたように。


マリアはフレッドの小さな手を握りしめた。

まだ幼いフレッドを置いていく母の罪、物心ついたときに深く傷つくだろう、自分のことを憎むだろう。


(これは、私のわがまま)


許してほしいなんて言えない。

でも覚えていてほしい。


「お父さんもお母さんも、あなたのことが大好きよ」


マリアはまっすぐな眼差しでまばたきもせずに見つめた。

愛しい姿を瞳に焼き付ける。


笑顔が……震える。


フレッドに笑顔だけを残していきたかった。

笑顔のまま別れたかった。

慌てて背中を向けて、それから左手の薬指のリングに視線をふと移した。

ラシュが贈ってくれた指輪は、静謐な銀色を湛えていた。

彼との繋がり。


マリアはリングに指を添えた。

あまりにぴったりのリングは外れたくなさそうだった。


(私ったら)


苦笑しながら節を抜いて、掌に取る。

内側の刻印を見る。


ユアン———


その文字だけで、マリアの胸は張り裂けそうになる。

ラシュを愛している想いが、膨らむ。


この気持ちが、力になればいい。

この力が、どうか正しい道を照らしてくれますように。

フレッドを守ってくれますように。


「レン、お願い」


差し出したマリアの手から、レンは指輪を受け取った。

レンはもう何も言わなかった。

マリアは大好きな友人に、ありがとう、と言った。

それからその背をぎゅっと抱きしめた。





「では、ここへ」


金の髪の男はマリアを招き寄せた。

マントの影にマリアを隠し、男は呪文を唱え始めた。

マリアはその端正な顔を眺めて、ぽつりと言った。


「……あなたは、どうして。ラシュの味方なんですか」


男は、表情を変えずに、だけど透き通ったエメラルドグリーンの瞳を僅かに揺るがせた。

答えが返ってきたのは意外だった。


「俺は、ラシュが作る国をもう少し見ていたいと、思っていた」


ぎゅん、と上に引っ張られる感覚があった。

町が眼下に遠ざかる。

毎日世話をした花壇も、勤めた花屋も、お得意さんの旅館も、小さくなる。

いつも食べていたパン屋のジマさんの家から香る小麦の焼ける匂いがした気がした。

それもあっという間になくなって。

町の空気が通り過ぎていく。

離れていく。


(ラシュ……早く会いたい)


悲しい結末だと知った。

だけど、彼との出逢いを悔やむことはない。



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