19 愛した人
筆記者とは、一体何なのか。
運命とは、何の運命で、
その時、とは。
静寂が包む広くない部屋の中を、疑問が渦巻く。
だが、目の前の男の揺るがない緑色の瞳は雄弁だった。
真実を述べていると、理解る。
マリアの手が冷たい。
男の口から紡がれる言葉が頭に入ってこず、茫然と目の前の男を眺めていたレンは、あまりの冷たさに我に返った。
「マリア、なんか空気に飲まれてる。気を確かに持つんだ」
「レン……私……」
「この男は、魔族なんだ。そうなんだろう」
噛みつくように、レンは声を張り上げた。
男は否定せず、少し、視線を下げるのみだった。
「マリアをどうするつもりだ」
「追手がラシュの女を探している。ラシュが守りの術を使って行ったが、こちらにはラシュを凌ぐ魔術師がいるからな。すぐに見つかるだろう」
「あんたは、それでマリアを見つけたんだ」
睨むレンを男は涼しい顔でやり過ごす。
「この場所を知っていただけだ」
「一番に着いて、マリアを捕らえて、それで手柄になるんだろ」
「俺は、彼女の決断を知りたかった」
「魔族が、マリアの何を知ろうというんだよ。話が分かる振りして、今度はこの子から何を奪おうっていうんだ」
レンの怒りは苛烈だった。
目の前の大きな魔族に一歩も怯まない。
魔族に抗うことは、死に直結するのに。
自分のためにこんなにも怒ってくれるレンに、マリアは勇気をもらった。
そして毅然と男と対峙した。
「あなたが何を知りたいのか、わかりません。彼は、もうこの場所には戻らない。私を殺しに来たのですか。人を愛することは魔族の汚点だから?
私が死んだとして、ラシュがそれを知ることはありません。私を殺すならそれでいい。レンは関係ない。レンは殺さないで」
その言葉に男は小さく息を付く。
感心したような、呆れたような息だった。
マリアを眺めて、強い光を持つ瞳を見て、一人納得したように頷いた。
「ラシュは、あなたのために、弟を殺すのだと思っていた。あなたと逃げるつもりなのだと。だが……」
男はゆっくりまばたきをした。
豪奢な髪と同じ金色の長いまつげが、ばさりと動いた。
「覚悟したのだな。だからあなたたちを隠した」
息を、飲んだ。
この男は知っている―――その事実は、マリアに恐怖をもたらした。
ラシュの血を分けた息子が、フレッドが、ここにいることを。
フレッドは、
フレッドだけは、だめだ。
「それはっ」
「俺は知りたかっただけだ。殺すつもりはない」
マリアの心を読んだように男は言った。
「その子は運命の機軸だから」
「……?」
男の呟きが聞き取れず、マリアは黙った。
男がフレッドを、自分をも殺す気がないということはなんとなくわかった。
「マリア、騙されるな。この男は魔族なんだろう。本心が見えたもんじゃない」
「レン、そうだけど」
「魔族を、信じるのか」
「それは」
人だから、魔族だから、という区切りは、マリアにはないのだ。
答えないマリアに、レンは焦燥を隠さず、マリアの両肩を掴んだ。
「しっかりしろ、魔族なら、おまえの両親を殺した奴じゃないのか」
「!」
「おまえから、幸せを奪った奴だ」
レンの怒りは当然だ。
幼い少女の幸せは、魔族が町を襲ったことで、奪われた。
ひとりになって、町がなくなって、家がなくなって、それで生きるために働きに出るしかなかった。
王宮の下働きは、特に幼かった内は、ひどく粗悪なものだった。
叩かれ、蹴られ、食事も満足に摂れない。
打撲に擦り傷にあかぎれ。
痛みで痺れて腕が上がらないことだってあった。
小さな町で、両親の笑顔に囲まれた日々を送っていた少女がひとりで耐えるには、辛すぎる環境だった。
でも、レンのような友人に出会うことができた。
たくさんの仕事を覚えることができた。
前を向く力を付けることができた。
その力で町の復興を手伝うことができた。
そして、ラシュに出会えた。
フレッドを授かった。
回り道だけれど、幸せにたどり着いたのだと思う。
(たどり着いた、なんて……違うかな)
幸せとか不幸せなんて、不安定で、無我夢中の時には気づかなくて、今の自分を半分ラシュが支えてくれて、少し余裕ができたから、見えただけのことかもしれない。
親のいないマリアは少し常識が足りなかったり、どじでお客さんを怒らせてしまったり、毎日が失敗の連続で、真っ暗な家に帰ってきて一人だったら落ち込んでしまう日々だろうけど、ラシュがいてフレッドがいるから、ふたりの顔を見て、明日も頑張ろうって思うだけで。
マリアは、レンを正面から見て、ふわりと微笑んだ。
瞳には、決意が宿っていた。
「レン、ラシュは……ユアンっていうのは、私が彼にあげた人の名前で、ラシュは、魔族なの。魔族だって知ってる」
「マリア」
「愛した人が、魔族だったの」
「だから、だからだろ。結局お前を一人残して行ってしまったんだろ。一緒に生きることを棄ててしまったんだ」
「ラシュが一人で行ってしまったのは、私たちを守るためだって、わかってる。それに、きっとラシュは、兄としてちゃんと弟に向き合いたいと思ったんじゃないかな。私が一緒にいたら、ラシュは正直な気持ちで向き合えない」
ラシュの邪魔はしたくないな、とはにかむマリアを前に、レンは悔しさを露わにして唇を噛む。
マリアは、レンを諭すように両腕に手を添えた。
レンはその手を、相変わらず子供みたいに小さい手を、握った。
「この男を信じるのか。殺されるかもしれないだろ」
「殺すつもりなら、こんな話をしなくてもいいし、フレッドを見逃す理由がないから」
「フレッドはどうすんだ」
「フレッドには……生きてほしいの」
マリアは、笑顔だった。
レンは、その顔を見て涙を溢れさせた。
頬を伝う涙は、とても熱かった。
説得できない。
「レン。ラシュは、私に与えてくれた。そばにいてくれて、愛してくれた」
「……マリア」
「ラシュのそばにいたい」
マリアは、金の髪の男に向き直った。
「あなたたちは、魔族の追手は、ラシュに『人族の女』がいることは知っている。でも子供がいることは知らない。そうなのですね」
「そうだな」
男は、俺以外は、と付け加えた。
「あなたが先んじてここに着いたことを、他の魔族たちが知ることはないと信じていいですか」
「知る術はないな」
「レンとフレッドを逃がしてください。そして私をラシュのところに連れて行って」
彼が、彼であること。
その隣に、自分がいること。
マリアは目の前の男に望んだ。
男は頷いた。
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