18 運命はその時へと動いている
フレッドを頼むと言い残し、風に消えた夫の後ろ姿を瞳に焼き付けたまま、マリアは虚空を見上げていた。
抱きかかえたフレッドはいつの間にか泣き疲れて寝てしまった。
(……ラシュ……)
彼は彼だから、全ては些細なこと、そう思っていた心に偽りはない。
だが、愚問だと知っても浮かばないはずもなかった。
(なぜ、私は人族で、彼は魔族だったの)
そんなことを考える自分が情けなくて、憎らしい。
しかし、考えずにはいられない。
マリアは、ただの、普通のひとだった。
どうしてよいかわからない心を引き摺って、マリアはフレッドを抱えたまま立ち上がった。
息子は、二歳になった。
生まれたばかりのとき、腕の中で眠っていた我が子は、脇の下に腕をしっかり入れてよいしょ、とお尻を持ち上げないと持ち上がらないくらい大きくなった。
絵本が好きで、花が好きで、積み木が好きで、
―――おとうさんのことが大好きで
「……」
マリアは、表情を固めた。
そうしなければ、彼が好きだと言ってくれたこの目から、堪え切れない涙があふれてしまいそうだった。
フレッドをベッドに寝かせて、マリアはついと窓の外に視線を移した。
窓から街路樹を見下ろす。
ガラスの向こうには明るすぎる今夜の月がいなくなってしまった夫の姿を映し出す。
硬い背中。
いえ、闇の装束に身を包んだ姿は、そう。
「夜の君……」
掠れた音が、その言葉を紡いだ。
大切に、大切に、紡いだ。
◇
「マリア……っ」
どんどん、と玄関の扉が叩かれる。
早朝、あちこちでさえずっていた小鳥たちが、羽の音を慌ただしく響かせて飛び去った。
床でうずくまっていたマリアは、知っている声に、はっと顔を上げて、戸口を見た。
眠れないまま座り込んでいた脳に血流が追い付かず、ふらふらしながらも、切迫した声色に引っ張られるように歩く。
ぎ、と蝶番が鈍く鳴く。
細く開けた扉の向こうに見えたのは、会いたかった友人だった。
「……レン……」
レンは泣き顔で、扉を叩いた手の形で振り被ったままマリアの顔を見つめた。
マリアの顔を見て涙は引っ込んだようで、唇をぐっと噛んだ。
王宮勤めの時には伸ばしていた髪をさっぱりとショートカットにしていた。
否、マリアが驚いたのは細やかなレンの容姿の変化ではない。
異様だったのは、レンの姿を覆うように背後に立つ、金色の鬣のような髪の男。
大男と言っても差し支えない立派な体躯の男だった。
レンは、マリアを勢いよく抱き締めて、そのまま玄関に転がった。
「無事だったか」
「それは、どういう……」
この人が、と戸口いっぱいの男をくい、と親指で示す。
「あんたが、魔族に攫われているかもって」
どくり。
心臓が、壊れそうな音を立てた。
レンは、何を言って。
いいえ、この男は、レンに何を言ったの。
違う、この男は、何を知っているの?
「……や、やだな、レン。急にどうしたの。後ろの人は、だれ?」
「だれ、って……誰?」
「ちょ、ちょっとレンったら」
素性も分からない男の言葉を真に受けて、レンはマリアの元へ駆け込んだということだ。
「レン、ちょっと落ち着いて。知らない人に何を言われてこんな」
「あなたが、ラシュの」
レンを抱き起しているマリアの動きが、凍った。
戸口に立つ男は静かな、良く響く低音で、言った。
ラシュ、と。
(彼の名前を知っている)
ラシュがこの家に来ていることを最初から分かっていた。
ラシュが私に会いに来ていることを知っていた。
知っていて、私に会いに来た。
当然この男は、魔族———
マリアは固まった思考を気力で巡らせた。
そして、視線を上げて、金髪の男の目を、見た。
深い森を思わせる優しい緑の瞳だった。
「彼は、もうここにはいません」
「そうだろうな」
きっぱりと告げるマリアの言葉に、男は想定の範疇という返事をしてから、家の中に入り扉を閉めた。
大きいから圧迫感があるけれど、男の表情はマリアを威圧するものではない。
レンと一緒に立ち上がり、男と相対した。
レンの手を握ってしまっていた。
レンはマリアの震えに気が付いて、しっかりとその手を握り返した。
「私が攫われているかも知れないというのは、どういうことですか」
金の髪の男は、溜息を付いた。
「ラシュは、弟に命を狙われている」
「弟……」
ラシュは、去り際にそう言った。
マリアはラシュの揺れる瞳を思い出し、眼球が熱くなるのを感じた。
「ラシュは、我らの王だ。王の
「……?」
男の口から出てくる単語がおとぎ話じみていたからかもしれない。
言い方が、まるで他人が書いたあらすじを読むようで、マリアはわずかに眉根を寄せた。
金の髪の男はその様子に、少しマリアに笑いかけた。
「筆記者は言った。
―――運命は、その時へと動いている」
一拍おいて、真っ直ぐ、低く、告げた。
「ラシュが、あなたを選んだからだ」
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