17 無責任

奈落の底に落ちる絶望感というものを感じる日が来るとは思わなかった。

執着するものなんて何もなかったから。


これまで向き合ってこなかったわけではなかった。

大切な弟だった。

ファイサル。

父王が拵えた狭い箱の中で、共に生きてきた。


剣の稽古は無心になれるから好きだった。

だからと言って、誰かに剣を向けることは別だった。

模擬戦でも躊躇してしまうのに、人を斬るなんて。

吹き出す血を見る度に、返す刀が心を斬った。

引き裂かれたぼろ雑巾のような自分を見せないように無表情に剣を振るう姿を、化け物と評された。


だが、兄が武功を上げることを、弟は誰よりも喜んでくれた。


否応なく魔王という力を受け継いで、王として自覚する一方で、生来の自分は争いごとが苦手なままだった。

少しずつ、弟が望む兄の姿から外れてしまっている。

魔族として望まれる生き方が、自分にはできない。


そのことを隠していた。


マリアに出会って、蓋をしていた感情が溢れた。

フレッドが生まれたとき命の清廉さに、自分に嘘を吐くことのむなしさを知った。

マリアと、フレッドと一緒に生きたいと思うようになって、気づいてしまった。

自分が、魔王のままでは、思うように生きられない。

自分の我儘を通すときには、いつか、弟に正直に言わねばならない。

だけど、言ってしまえば、弟は自分を嫌いになるだろう。

大切にしているのに。


(……ああ、無責任だな)


嘘を吐いて、隠して、逃げてきた。

それなのに上手くいく方法などない。

その報いを受ける時が来てしまったのだ。


ラシュは、薄く微笑んだ。

ファイサルが向かってきているのが視えた。

一直線に、自分の元へ。

応えなければならない。


魔族の王として。


―――兄として。




床に手を付いて俯いたマリアに手を差し伸べた。

ぐっと唇を噛む姿がラシュにはただ、愛しかった。


(この場所に居てはいけない。

ファイサルが俺に辿り着く前に、ふたりを危険から遠ざけないと)


ふたりを捨てていけるのか、問いかける自分もいる。

ラシュはかぶりを振り、自分の甘さと無責任さを呪った。

それでも、ふたりには生きてほしい、そう願った。


「……行くよ、マリア」


大切に、大切に名を呼ぶ。

そして、静かに抱き寄せた。


「顔を上げて。君の瞳を見せて」


陽だまりのような穏やかさの吸い込まれそうな瞳が、今は雫に濡れて、それでも必死にラシュを見つめ返す。

この輝きが、ラシュを生きる場所に留めてくれていた絶対無二のもの。

執着して、巻き込んでしまった、宝物。


「マリア、たくさん、ありがとう」

「ら、しゅ……」


ラシュ、ラシュ、と柔らかな唇が何度も名を紡ぐ。

その声もみんな飲み込むように、ラシュはマリアに口づけた。

ずっとこうしていたい、このまま世界が止まってしまえばいい、そんな我儘を押し込めて、ラシュがそっとマリアを離した。


「……君を愛せてよかった」


翻る身体は、一瞬で黒の鎧を身に纏う。

灰色のマントを縁取る金青が視界を遮る。

もう、会えない。

その直感に、振り返ってはだめだと拳を握る。


「フレッドを頼むよ」



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