第4章 銀色の夜を越えて
16 日常
近頃伸びてきた父親譲りの黒髪をくしゃくしゃにして、小さなフレッドがおぼつかない足取りで母の後を追う。
「おかーしゃ、おかー」
おかあさん、とまだ発音できないフレッドが、何度も呼ぶ。
ラシュは書類から顔を上げて立ち上がった。
「フレッド、こっちにおいで」
洗濯かごを持って振り返ったマリアの足にしがみ付く我が子を抱き上げると、フレッドは抱っこに満足して笑い、父の首に短い腕を回す。
「おとー、おしごと?」
「大丈夫。絵本かな?」
ううん、とフレッドは首を振る。
「きち、のつづき」
昨日作りかけた積み木の基地を作るらしい。
ラシュはわかったわかった、とフレッドを下ろして部屋の隅の木箱を運んだ。
「ユアン、いいの?」
近頃山のような書類と共に帰ってくる夫をマリアは心配した。
忙しいのだと思う。
「大丈夫」
フレッドに言ったのと同じようにマリアに返事をして、それから思いついたように洗濯かごを指さした。
「それとも、そっちをしておこうか」
「だめよ。この町の人は一瞬で洗い終わって乾かす、なんてことしないんだから」
マリアは即座に不許可にした。
去年マリアが疲れて寝てしまった時に、ラシュが魔法で洗濯を終わらせてしまったことを思い出しているのだ。
綺麗になりすぎて驚いた。
冬の時期にその日に着たものが乾くなんてことも、あってはいけなかった。
ラシュは笑った。
「加減は覚えたよ」
「もう」
冗談を交えたやり取りも幸せで、マリアもつられて微笑んだ。
窓の外は、月明かりが家々の屋根をやわらかく照らす。
「あ、そうだ」
洗濯かごを勝手口の横に置いて、マリアは台所のキャビネットから手紙を持って戻ってきた。
希成色の封筒から便箋を取り出した。
封筒の消印はひと月も前だ。
「ねえ、ユアン、近々レンが来るの」
今日届いた手紙なんだけどね、とマリアはラシュに便箋を差し出した。
フレッドを胡坐の足に座らせたまま片手を出して便箋を受け取ると、ラシュはざっと目を通した。
「レン、て、王宮勤めの時の同僚の?」
「うん。レンも王宮をやめて自分の町に戻っているの。北のアーボルト山の谷合の町に住んでいるんだけど、来週、隣町のバザーに工芸品を出品に来るんだって」
「へえ、工芸品」
「うん、レンの家は刀鍛冶だけど、レン自身は鍛冶師じゃないから、たぶんアクセサリーだと思う。レンはすごく器用だったし、センスもよかったから、あの頃からブローチとか作っていて」
マリアは幼い頃に王宮の食堂で下働きに入り、勤勉さが認められて宮殿内のメイドとして勤めることになった。
傍らにいていつも苦楽を共にしていた一つ年上のレンは、今でもマリアの心の支えだった。
王宮勤めをやめてからも、時折手紙のやり取りをしている。
なかなか会いに行けないけれど、いつかレンにユアンとフレッドを紹介したいと思っていて、レンも心待ちにしてくれていた。
「通り道だからこの町に寄るって書いてあるんだけど、来週のバザーなら、明日あさってにはこの町に寄ると思うの」
心を許す友達に会えることを楽しみにしているようで、少女そのものの笑みが零れるマリアの表情を、ラシュは目を細めて見つめた。
「そうか、それなら泊っていってもらえばいい」
「そうね! よかった、ユアンがそう言ってくれて」
マリアはラシュの肩越しにフレッドを覗き込み、お母さんのお友達が来るよ、と告げる。
「おもぉ、だち?」
「うん、お友達。レンは、フレッドに会うことを楽しみにしてるって」
「わかった!」
勢いよく返事をして弾けるフレッドの笑顔につられて、マリアもころころと笑った。
ラシュも自然に顔がほころぶ。
幸せだと、噛み締める日常だった。
今日は座り、明日は立ち上がり、日毎成長する我が子を、間近で妻と肩を寄せ合って見つめる幸せ。
三人でじゃれ合うように過ごす日常、その、日々広がり、溢れんばかりに光り輝くキャンバスに
―――黒い染みが落ちる。
ラシュ……
……ラシュ……
(!)
ラシュの目に緊張が走った。
底なしの沼から涌いて心臓を一突きにするような呼び声に、つい、背を震わせた。
ラシュは、フレッドを膝から下ろし、ゆっくり立ち上がった。
その一挙動をマリアが強張った顔で見る。
「……ユ……アン、ユアン? どうしたの……」
ラシュは、左肩を掴んだ。
右手の甲に血管が浮き立つ。
左肩を引き千切らんばかりに力を籠めて、握る。
「ユアン!」
母の悲愴な声に、フレッドが泣き出した。
ラシュは、一呼吸、吐いた。
気配がする。
長い間忘れていた気がする。
便箋が、はらはらと舞い落ちた。
マリアがぺたりと床に崩れ落ち、震える指で、夫の足に手を伸ばした。
「……ラシュ」
その言葉に、ラシュの意識が戻った。
「マリア、すまない……」
マリアの側に膝を付き、肩を寄せ、泣くフレッドの頭を撫でた。
マリアを正面から見た男の、悲しみと、焦りと、怒りなのかもしれない、奥底に秘めたパンドラの箱が開いた瞳の色。
久しく忘れていたもの。
黒く、暗い。
一己のひとという容れものに詰め込まれた、神が与えた多くの感情の欠片を聞く。
「弟が、俺を殺しに来たよ」
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