9 産声

 そんなに広くない部屋を隈なく照らすテーブルの上のランプの灯り。

 オレンジ色の光は、心も満たしてくれる。

 簡素なベッドには、清潔な白いシーツ。

 お日様の匂いにくるまれて眠る、黒い髪の父と赤子。

 寄り添うように頭をくっつけている二人の姿を、マリアは静かに見つめた。

 ふと、ラシュの前髪を、フレッドの小さな手が握りしめているのを見つけ、微笑む。


(……しあわせ)


 眠る二人の姿はとても無邪気で、くすぐったくなるような可愛らしい寝顔をしていた。


「フレッド、だめよ。おとうさんにいたずらしちゃ」


 くすくすと小さくひとり笑いながら、赤子の手を撫でる。


「こうしてるとまるで赤ちゃんがふたりね」


 ちいさな私たちの子。

 まだ人族としては幼いラシュ。

 赤ちゃんが、ふたり。

 これからどう生きるか、希望が光輝く。


「ラシュ……ううん、ユアン、ずっと一緒にいようね」


 この幸せがずっと続けばいいのに、と思う。

 ラシュ、と呼ぶと苦笑いする彼は、いつしか人族の身なりをするようになった。

 魔族の長い耳も、形もない。


(……あなたは魔族という証明をなくしてしまっていいの……?)


 魔族であっても、人族になっても、彼を一己の彼としてしか見ることの出来ないマリアには、名のことであったり、姿のことであったり、全ては些細なことだ。


 でも、それでも、ラシュがマリアと同じ時間の刻み方をしてくれる。

 同じ時間を共有してくれる。

 マリアには、それが嬉しかった。


「このしあわせが、ずっと」


 何故かそう願わずにはいられなかった。

 今夜の空は、いつにも増して月光が強い。


「……マリア」


 小さく呼ばれた。


「あ、起きちゃった?」

「フレッドが……」


 フレッドまで起こしてしまわないよう、二人は小声で言葉を交わす。

 丸い手に握られた前髪にラシュが困った顔をしていた。

 身動きができない。

 あんまり真剣に困っているのが可笑しくて、マリアはまたくすくすと笑う。


「フレッドは、おとうさんが大好きなのよね」


 ささやき掛けながら、小さな手を包み込むようにそっと握った。

 優しく撫でられてフレッドはゆっくりと父の髪を離す。


「……だあ……」


 ぐずるでもなく声をもらしたフレッドをマリアは抱きあげた。

 ふうわりと空気が流れる。

 ラシュはゆっくり起き上がった。


「寝かし付けるつもりだったんだけど」

「上手に寝てたわ、ふたりで」


 マリアが満足そうに笑う。

 ラシュは眉尻を下げる。


「また君をフレッドに横取りされてしまった」

「やきもちかしら?」

「……そう」


 マリアはラシュの横に腰掛けた。

 母の腕の中のフレッドはすやすやと眠る。

 ラシュはフレッドごとマリアを抱き寄せた。

 触れ合う肌を通して、互いの温もりが伝わってくる。

 知らず微笑み合う。


「あたたかいな」

「ええ、あたたかいわ」


 ラシュは瞼を閉じるとマリアの頬、それからフレッドの頬に軽く唇を添わせた。

 やわらかな感触。

 フレッドはくすぐったかったのか、眠りながらも笑顔を見せた。

 マリアがはしゃいだ声を出す。


「笑った。かわいい」

「俺は?」

「もう」


 からかうような声に、マリアは小さく笑みを零しながら顔を上げた。

 ラシュの穏やかな視線と交差する。

 しばらく見つめ合った後、少し首を伸ばすようにして、ラシュの頬に短いキス。


「これが答えよ」


 そう言って笑うマリアは、やはり自分より一枚上手だとラシュは微笑む。

 そして、締まりのない自分の顔を自覚しながら胸ポケットから小さな箱を取り出した。


「なに?」


 マリアは首をかしげる。


「君になにもしてあげられないけど」


 銀色の、指輪。

 装飾など何もない、ただ、裏にユアンと刻印された指輪だった。


 ラシュとマリアの関係を町の人は認めていなかった。

 ラシュを日中見かけることがない。

 姿が見えないことがその理由だった。

 マリアが幸せだとどんなに言っても、その言葉を鵜呑みにする者はいなかった。

 幼い頃に両親と死別し、以来ひとりで働いてひとりで生きてきたマリアを、町の人は哀れに思っていた。

 騙されているのではないか、直接そう言ってきた人もいた。


 日中ラシュはこの町にいない。

 魔族として、仕事があるのだ。

 それがなんの仕事なのか、ラシュは少しずつ話してくれていた。

 人族と争うこともあると、言った。


 だから


 ラシュは、人族の町に入ることは、許されないと思っているようだった。




 そのラシュが正午に町にいた。

 その日は城からファイサルの出征を見送った。

 直後。


 命が。


 新たな誕生の予感を感じて、文字のとおり飛んできた。

 マリアのことが心配で、周りが見えなかった。

 さすがに町に入る前に気が付いて降りたが、自分の鎧兜の装束にまで神経が回らなかった。

 鎧兜が慌てて通りを駆け上がっていくので、町の人は何があったのかと目を丸くして見送った。

 剣幕に声を掛けられたものではない。

 マリアの家に駆け入り、寝室のドアを引きちぎるように開けると、中には二人の女性がいた。

 中年の産婆とその助手だった。

 驚いた二人が声を上げる先に、寝台の上のマリアが汗ばむ体を戸口に向け、小さく、ユアン、と名を呼んだ。

 マリアの声を聞き、震える手で兜を脱いだ。

 産婆は年の功というべきか、一瞬で理解したようだった。

 血の気の引いた男の顔を見て、お父さん、元気な男の子よ、と言った。

 助手がラシュに手招きをして、ラシュは吸い寄せられるように近づいて、マリアを見て、視線の先、隣の籐の籠の中、タオルでくるまれた小さな、赤い体を見た。

 眠る赤い顔。


 その時ラシュが流した一筋の涙。

 自分が一番驚いた。

 マリアが愛しくて、生まれてきた自分の子が愛しくて。


 ただ、マリアにありがとうと、言った。




 後日、ラシュの様子が町の噂になり、悪評は随分と和らいだ。

 今ある自分は、マリアにもらったものでできているのだと、ラシュは思う。


「君に、感謝と」


 ラシュはシャツの襟からチェーンを引っ張った。

 その先に揃いの指輪があった。

 自分たちがひとつであるという、せめてもの証だった。

 マリアのためというよりは、自分のための。


 それでもマリアが喜んでくれたのは、心から嬉しかった。


「ありがとう、ユアン」


 マリアは紅潮した頬でラシュを見た。

 極上の笑顔。

 自分だけに向けられた優しい瞳。


 愛しい。

 マリアが。

 フレッドが。

 この時間の全てが。


 ラシュは、マリアとゆっくりと唇を重ねた。

 聞こえるのはただ、腕の中の健やかな寝息。

 感じるのはただ、愛しいものの確かな鼓動。




 それなのに、運命はもうすぐそこ。

 強い月光の今宵。


 そう、運命はもうすぐそこに足を忍ばせて―――


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