第2章 命の温度と運命の足音
6 空の玉座
「ファイサル様……お休みになられてはいかがですか」
横に立つ女が言った。
ほつれのあるアップの髪はまだ若いなりに相当の色気を醸し出し、好んで付ける紫色の口紅が、我の強さを象徴していた。
「ラシュ様は、きっと本日はお戻りになられません」
「黙れ。下がれアヴェリー」
はい、と女はお辞儀を一つして消えた。
「……最近」
ぎり、と奥歯が軋む音がする。
ファイサルは双対の玉座のひとつに身体を預けたまま、ぽつりと零した。
隣の空席。
闇夜に足元の小さなランタンだけが、ぼんやりとファイサルの顔を照らした。
虚空に向かった声は、そのまま掻き消え、ファイサルは続きを言おうとしなかった。
広い謁見の間に独り。
最近、兄がいない。
いや、最近というのはおかしいのかもしれない。
気付いたのが最近なのだ。
そう、此処何年も、夜、ひとりで出かけているようだった。
兄の放浪癖は百も承知の上で、敢えて思う。
どこへ出掛けているのだ。
そして、あの、穏やかな眼。
あれは、何。
◇
かたり、と音がした。
「下がれと言っただろう、アヴェリー」
「ファイサル」
円柱の隙間から外を見たままのファイサルに掛けられた声は、厳しさを感じる強いアルトだった。
「……何だ、リリィ。
お前も、何の用だ。」
「別に」
今日遠征から帰ってきたの、とリリィはそれだけ言った。
「そうか。
竜の一族は見つかったのか」
「いいえ」
真っ直ぐに答えるリリィの目を、今日は見ることができなかった。
ファイサルの正妻という立場の一方で、魔王ラシュの片腕として、ともすれば分裂してしまう我儘な郎党が多い魔族の統治に関わる辣腕を、ファイサルは高く評価していた。
その出身は獣の一族———魔獣族、その亡き長のひとり娘。
荒くれ者の中で幼い頃から頂点に立つものとしての態度を叩きこまれているだけはあった。
背筋の伸びた戦士と言うに相応しい。
癖の強い広がった巻き毛に端正な小さい顔、獅子らしい気品としなやかさのある表情を持つ彼女をファイサルは誇っていた。
しかし、その実直さを、今日は直視できなかった。
「姿をくらました竜の一族を探して、もう五年になるけど」
リリィはどこかぼんやりとしたファイサルの目を醒まさせるように問いかけた。
話の種は、何でもよかった。
「まだ、探す?」
前魔王を倒した竜の一族の戦士。
魔王を手に掛けた側近は始末したが、一族には連帯責任を取らせる必要があった。
竜の一族は、あの日からどこを探しても見つからなかった。
今日にあっても捜索し続けるのは魔王ラシュの指示ではなく、ファイサルの一念だった。
ファイサルは、リリィにだけ、その密命を与えていた。
リリィが唯一魔王に報告せずにいることだった。
ファイサルは父王を愛していた。
腹心の部下だと思っていた人物に殺された父王の無念を、どれだけ時が流れようとも報復しようとしているところに表れるファイサルの一途さが、リリィは好きだった。
「……そうだ」
「そう」
リリィはファイサルを見つめたまま、言った。
そしてふいに、話題を転じた。
「アヴェリー、何しに来てたの」
ファイサルの虚を突かれた表情。
やっと視線が噛み合った。
何処か子供っぽい表情を、リリィは久し振りに見た気がした。
(あの女)
アヴェリーもまた、ファイサルの妻だった。
アヴェリーがファイサルの側にいても何ら不思議はない。
そして何をしていようが関与する必要はない。
だからリリィは、一度たりともファイサルにアヴェリーのことを問うことはなかったのだ。
「……さあな……」
ファイサルはすぐに目を伏せ、また、表情を消した。
これ以上会話は続きそうになかった。
リリィは玉座に背を向けた。
数歩歩いてから顎を引いてファイサルを振り返った。
玉座の間へ続く厚く重い扉が閉じていく。
扉の向こう、ファイサルの隣の空席に影が滲んで見える。
ファイサルが見つめる夜空には、暗雲が迫ってきていた。
月はない。
暗闇に浮かぶファイサルの白い肌に、ぞっと鳥肌が立った。
低い音を響かせて扉は閉じられた。
彼の一途さが、今は危ういと、そう感じたからだった。
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