5 貴方の名前

とんとん。


控えめにドアをノックする。

中から軽い足音が近付いてくるのが聞こえる。

玄関のドアが、開く。


「おかえりなさい、ラシュ」


家の中の光が、冷たい夜の石畳を手の届く分だけ温めた。


「……ユアンと呼んでくれ」


マリアは小さく笑いながら、言い直してくれる。


「おかえりなさい、ユアン」

「ただいま」


幾度となく繰り返してきたやり取りだけれど、未だに照れ臭いこの瞬間が、たまらなく幸せだった。

家の中に身体を滑り込ませると、ドアを閉める。

両腕を伸ばし、華奢な肩を抱き寄せる。


(指に滑る、髪の感触が好きだ。

真っ直ぐに見つめる、大地の色をした瞳が好きだ)


この町に通い始めて四度目の春。

少女は、少女の瞳を持ったまま、大人になった。


マリアと出会って、ラシュは一層自分が魔族であることを疎むようになった。

そして、マリアの肩に残る傷跡を見るとき、何より自分を疎んだ。


(違う自分になりたい。

 せめてマリアといるときだけでも、違う自分に)


時折眉を寄せて目を伏せるラシュのその姿に、マリアもいたたまれない気持ちになる。

魔族であることも、彼自身であること。

マリアは全然かまわなかった。


けれど。


(自分自身が許せないのですか。

 あなたは優しくて、誇り高い人だから。

 でも、自分が嫌いだということは、とっても辛いでしょう)


「ラシュって呼びたいのに。

 素敵な名前」


そんなに苦しまないで夜の君。


「だって。貴方の名前よ」


そんなに悲しまないで、愛しい人。


ラシュは、マリアが微笑むので、そんな風に思えないでもなかった。

だが。


「それでも、ユアンが良い。

 お前が付けたこの名が」


ユアン・ブラッドリー。

マリアの付けてくれた名に、マリアのファミリーネーム。


それが今、この時の己のすべて。



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