2 夜の君

 彼はいつも真夜中、街燈が消えた夜道の真ん中にそっと現れる。

 私は部屋の窓からその姿を見下ろす。

 背が高くて、ピンとまっすぐに立つ人。


『夜の君』


 一度どこかで見た気がする。

 それで、そのせいで気になる。


(わからない。私、彼をどこで)


 彼は闇を纏って静かに立っている。

 声なんて、絶対に掛けられない。

 偶然彼を見付けたあの日から、私はいつも夜更かしをしている。


 マリアはそんな自分に少し照れ笑いをして、細く開けたカーテンの隙間からこっそりのぞく。


 名前が知りたい、でも聞けるわけない。


 マリアは彼を夜の君と呼ぶ。

 心を込めて。

 憧れを抱いて。



 ◇



 朝陽を跳ね返して薄い茶色の髪が揺れる。

 賑わいを見せる商店街の通りの一角から脇に入る。

 いつものとおり、マリアは小走りで店のドアを開けた。


「おはようございます」


 明朗に響く少女の声。

 大きな観葉植物の鉢の前に立つ女主人がマリアを振り返った。


「おはよう、マリア。今日も頑張っておくれ」


 はい、と大きく頷いてから、少女はロッカーに掛けたエプロンを付けた。

 それからすぐに、通りに面したカウンターの横にずらりと並べられている花瓶の掃除を始める。

 ここは、町一番の花屋。


 一年前、中央の城の女中を辞め帰省したマリアは、ややもしてこの店に勤め始めた。

 マリアは幼い頃に良心と死別し、否応なく城に奉公に上がることになったため難を逃れたが、この町は十年前、魔族の侵攻に遭いすべてが焼かれ、一度は地図から消えかけた。

 風の便りに郷里が復興を遂げたと聞いて、町に戻ろうと決めた。

 生まれた町ではあったが頼る親戚もいないこの町に帰ってきたのは、勢いであった。

 そうしたかったから。

 具体的に理由を聞かれると困ってしまうけれども。


 開店後、常連客がやってくる。

 料亭のおかみ、玄関の生け花を毎朝自分で飾っている。

 マリアはいつものように、花束の中にその日一番よく咲いた大輪の花を入れる。

 どの花を包むか、おかみはマリアに任せていた。


「ねえ、マリアちゃん」


 いつものとおり、昨日の生け花の客の評価をマリアに伝え、それから思い出したように切り出した。


「最近、遅くまで家の灯りがついているでしょう。

 女の子のひとり暮らしだし、危ない気がするのよ。

 どうしたの?」


 夜の君が、と喉まで出かけて抑えた。

 人には話したくない、と瞬間、思ったからだった。


 おかみには、そうですね、気を付けますとそれだけ答えた。

 おかみは何か聞きたそうな様子だったが、商売柄他人の事情をとやかく詮索するのは配慮が欠けると感じたのだろう、そうなさいと言っただけだった。


 夕方、閉店の準備をする。

 マリアはどこかぼんやりしていた。

 おかみの忠告に曖昧に返事をしたが、その時の判断を、マリアは自分なりに考えていた。


(彼が町の人ではないから……ううん、もしかして……)


 マリアはひとりでかぶりを振った。

 夜の君、彼が何者なのかなど、考える必要はない。




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