第4話 夢を喰らう
〖再び人間界・二週間後〗
それは陽炎の向こうに、ビル群の影が霞むかのような酷暑の昼過ぎだった。彼女は再びお茶の水の喫茶店「ラルム・ダンジェ」を訪れた。
「こんにちは」
遠慮がちにドアを開けて店に入ってきたのは、先日の橋の上で保護した少女、鳴宮結香だった。
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
店主の天野朔夜は、屈託のない笑顔を結香に向けた。まるで先日の会話の中にあった暗い秘密を感じさせない明るさだ。結香は朔夜の様子を見てほっとすると、先日と同じカウンターに腰かけ、肩にかけていたバイオリンを下して椅子に立て掛けた。店内の客はまばらで、カウンターから少し離れたテーブル席に数組女性客がいる程度だった。
「ご注文は?今日のおすすめはグァテマラのアイスコーヒーだけど、どうかな?」
「はい、じゃあそれでお願いします」
朔夜が珈琲を出すとさっそく本題に入った。
「で、その後どう?悪夢は」
「はい、それが……」
結香の話によると、不思議なことにあの後ぱったりと悪夢が途絶えて、今度は別の夢に切り替わったという。病で亡くなった姉を、自分の手にかけて何度も殺す、という恐ろしい夢を見なくて済んだのはよかったとして、気になるのは新しい夢の内容だった。
「ひどく痩せて青白く、顔色の悪い青年が、こちらをじっと見つめ近づいてくるんです。そして私の首を絞めようと……」
結香は思い出してぞっとしたように首元に手をやった。手を離すとそこには本当に人に首を絞められたような赤い痣が生々しく残っている。
「ふむ。その青年の容貌を詳しく教えてくれないか」
「はい。青白く顔色は悪いのですが、かなりの美青年といえると思います。年齢はわかりません。黒いローブを纏っていて、背にはやはり黒い翼が生えていました。」
朔夜の表情が一瞬険しくなった。
「その青年はもしや右手に大きな鎌を持っていなかったか?または髑髏を手にしていたということは……? 」
「はっきりとは見えませんでしたが、言われてみれば杖のような物を手にしていたけれど、あれは鎌かもしれません。あと、青い馬に跨っていたような……。あの、それってつまり……? 」
「あぁ、まず間違いない。死神(タナトス)だ。そのほかに見たものは? 」
「死神!あぁ、ついに私にもその時がきたのね。罰が当たったんです、きっと。姉を殺す夢を見るような人間だもの」
結香は下を向いて、顔を覆うと、朔夜は結香の肩に手をかけた。
「落ち着け。自分や他人の死を象徴する夢は必ずしも凶兆を示すものとは限らない。むしろ新しくい生まれ変わるチャンスの予兆であることも多いんだ。ただ……」
「……? 」
「君が見た死神の姿は余りにも人間界で流布している『死神(タナトス)』を克明に描写しているようで気にかかる。まるで誰かをおびき寄せる罠のようだ」
結香は不安そうな顔でこちらをのぞき込んでくる」
「彼はいったい誰を呼んでいるの? 」
「検討はついているが、今はまだ不確かな事は言えない。君に一つ頼みがある。君の夢の中に入らせてほしい」
「えっ、夢の中に入る?そんな事できるはずが……」
「俺は夢のセラピストでもなければ、占い師でもない。『夢魔』だ。俺の本業は夢に侵入して夢の世界で起こる事件を解決することだ。必要があれば、人間や神の夢を操ることさえできる。だがヒトや神の夢を操るのは相当骨が折れるし、時空を歪め、夢の主の命を危険に晒すことにもなりかねない。だから滅多にしないけどね」
結香はあっけに取られたように、ぽかんと口を開けていた。
「その顔は信じてないね。まぁいいさ。君がもし俺が夢に入ることを許してくれれば、君を苦しめ続けてきた犯人を必ず捕まえて、悪夢を祓うと約束しよう。さぁ、どうする? ゆっくり考えてくれ」
結香は結露で濡れたアイスコーヒーのグラスを傾けると、氷がくるくると回る様子をじっと眺めていたが、やがて答えを出す時がきた。
「わかりました。やります。私の悪夢を祓ってください。お願いします」
「オーケー。じゃぁ、あのガラス細工の棚の後ろにある大きなソファーに座って待っていて」
朔夜は店の最後の客の会計を済ませると、表に「貸し切り」の札を出してドアを閉めた。
朔夜は慣れた手つきで、「夢祓い」の準備を始めた。どうやら今ここで結香を眠らせて夢に侵入するつもりらしい。
気づけば室内は不思議な香りに満ちていた。陰り始めた陽光が西側のステンドグラスから優しい光を投げかけている。
結香は自分を取り巻く不思議な状況に心臓が高鳴って仕方でもなかった。部屋に充満する香りがベルガモットとサンダルウッドだろうか。甘くどこか官能的な香りが、天野朔夜という青年に妙に似合うが気がするから不思議だ。
「このハーブティーを飲んで気持ちを楽にして」
言われるままにカップに口をつけると、芳醇な薔薇のような香りが鼻腔に広がった。
(私はもしかして騙されているのかもしれない。それでも、いいか……)
そう思えるほど、腰かけたソファはどこまでも深く柔らかく、重力を捉えて心地よく体を支え、それだけで眠りを誘いそうだった。まるで幾重にも張り巡らされた軽やかな絹でできた蜘蛛の巣に捉えられ捕食される獲物のように、そして神を求めて彷徨う子羊のごとく従順に眠りにつくが如く。
「さて、そろそろ俺も『仕事着』に着替えようかな」
言い終わらぬうちに朔夜の服はまるで魔法のように、ギリシア風の古風な衣装にみるみる変わり、瞳の色も日本人風の黒い瞳から濃い緑色に変わった。
「さあ、結香。いいかいこれから俺が呪文を唱えるから目を閉じて」
そういうと朔夜の唇からはラテン語のような言葉が発せられ、朔夜の緑色の瞳に意識を吸い込まれるようにして眠りについた。
(天野さん、まるで世界史の授業で見たギリシアの神様のようだわ……)
だがまもなくその思考の途中で意識は途切れた。
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