第5話 パラディソ ―楽園の夢—

 そこは荒涼とした砂漠のようなところだった。いや違う。海の香りを感じる。

ここは陸地から遠く離れた孤島。砂漠と思えたものはまるで永遠に続くかと思われるほど遥かに広がる白い砂浜だった。振り向けば背後に広がるのは深い深い永遠の青を湛えるかのような紺碧の大海だった。

(不思議だわ。見たことのない景色なのになぜか懐かしさを感じる)

 懐かしさのあまり涙がこぼれそうになった。結香は裸足のまま不吉なほどに美しい白浜を、当てどなく歩み始めた。

 ふと耳の奥がキィンとなり、この世のものとは思えないほど美しい歌声が海の向こうから響いてきた。心の奥底にある郷愁を掻き立て賛美するかのような悲しみと哀愁に満ち、その癖どこか艶めかしさのある妖しい歌声。

「その歌声に気を取られるな。魂を奪られるぞ」

 聞き覚えのある声に思わずびくりとして振り返るとそこには天野朔夜が立っていた。

「天野さ……」

「静かに。意識をこちらに向けて。たとえ女であろうともセイレーンは容赦はしない。歌声に心を奪われては駄目だ」

 真剣な眼差しに思わず気を取られていたが、この夢の中の天野は、人間とは思えないほど神々しい美しさに満ちていて思わず見惚れてしまった。そして背中には見慣れない物が生えていた。翼だ。天野は天使なんだろうか、それとも悪魔?どちらでもあるようなそうでないような。どちらにしろここは、夢の中だとわかっている。自分が夢の中にいると認識している夢の事を明晰夢というらしい。それにしてもやけにリアルで生々しい現実感に満ちている。だが隣にいるこの異国の美しい青年、天野朔夜だけが非現実の世界の中にいるようだった。

「あのセイレーンの島の海底に冥界、あの世の入り口がある。夢の世界と死の国は表裏一体、隣り合わせなんだ」

 結香は「死の国」という言葉にぞくりとした。それは同時に亡くなった姉のことを思い起こさせた。姉・愛花もそこにいるんだろうか。もし愛花がいるなら冥界よりもこの島がいい。暖かく、南国の花々は心地よい風に吹かれ、微笑むように揺れる。こんな綺麗な場所でなら魂は安息できるのではないか、と思えた。

(まるで物語に出てくる天国(パラディソ)のような……)

「天野さん、あちらの森に行きましょう」

「なぜ? 」

「わからない。でもあの森の中に姉がいるような気がするの。愛花が私を呼んでいる」

「あの森の向こうには……。まぁいいだろう。俺が連れて行ってやろう」

そういうと朔夜は結香の手をとり、地面を蹴るといっきに空まで駆け上がった。

「きゃっ」

「手を離さないで。落ちるぞ」

 ぐんぐんと雲に近づき地上からは遠ざかっていく。木々も森さえもまるで自分の手のひらに収まるかのように小さく見え、世界が愛おしく感じられるほどだった。天空から人間の世界を眺める神様はみなこんな気持ちなのだろうか。

 自分の手をしっかりと取って、空を飛ばせてくれている天野の横顔はまるでギリシア神話に出てくる神々の彫像のように精悍で整っていて、思わず鼓動が高鳴り顔が火照ってきた。

(今までどうして気づかなかったのかしら。この人凄い美形だわ)

「あ、あそこ!愛花がいる」

「よし、あそこに下りてみよう」

 そこは広い島の中にぽっかりとあいた穴のように広い原っぱが広がっていた。

南国の鳥の声が聞こえる。原っぱの中央には澄んだ泉があり、滔滔と水が沸き上がっていた。泉の中には神殿のようなところがあり、色とりどりの花に囲まれた祭壇の前で一人の少女が祈りを捧げていた。朔夜と結香は地上に静かに降り立つと、愛花と思われる少女がこちらに気づいて振り向いた。

「結香?どうして、いえ、どうやってここに……」

 だが隣居る有翼の青年の顔を見るなり跪いて、こうべを垂れた。

「夢の神・モルペウス様。お初にお目にかかります。ですが何故我が妹と共に」

「やぁ、僕の顔を知ってくれていたとは光栄だねぇ。今日は君たち(・・・)を助けにきたんだ。その前に念のために聞きたいんだけど、君はなぜ今もここに留まっているのかな。本来なら君はもう天界(パラディソ)に移るべきだろう? 」

「それは……」

「奴か?タナトス(死神)だろう」

愛花はコクンと頷いた。

 やりとりを聞いていた結香は混乱していた。

(天野さんが夢の神様?どういうこと?それにタナトスって死神のことなんじゃ……)

ふいに原っぱを横切る影が見えた。その影はみるみる大きくなり、地上に近づいてきた。

「来たな、タナトス」

「モルペウス。久しぶりだな」

「よく言う。自分で呼び寄せたクセに」

「どういう意味だ」

「どうもこうも、この子の夢に侵入(はい)って精神を操り、破滅に追いやろうとしていた。違うか?加えてあまりに『人間界』の死神像に寄せた外観とイメージ。お前が俺たちをここにおびき寄せる為の罠であることは明白だ」

「罠などと、人聞きの悪い。それに誰が小娘のつまらぬ夢など操るものか。彼女が勝手にそんな夢を見ただけだろう?『良心の呵責』に耐えかねて」

 タナトスは意地悪い目つきで、まるで値踏みするかのように結香とモルペウスを見て薄笑いをした。

「良心の呵責?どういう意味だ。だいたい何だ?自分は死神の仕事をほっぽりだして、人間の女と駆け落ちしておきながら、どの面下げて戻って来た? 」

「駆け落ち?何のことだ。一時、特別任務で冥界を離れていただけの事。私は今もハーデス様の忠実な部下で、人間を死に誘惑し、魂を狩る者。今でもその矜持は失っていない。ハーデス様は何か誤解なさっているようだが……」

「何? 」

「この女は渡さない。彼女は私の手中にある。彼女の音楽は狩りの助けになる」

「……ペルセポネー」

その言葉を耳にすると、タナトスの表情が変わった。青白く端正な細面を紅潮させ怒りを露わにした。

「タナトス。お前はハーデス様の妻、ペルセポネー様を愛している。違うか? 」

「は、何をいう。何を根拠にそのような戯言(たわごと)を……」

タナトスは低い声で笑った。

「変わってないな。図星を刺されると笑うクセ。愛花と結香。この双子の姉妹はどちらもペルセポネー様の遠い血(けつ)胤(いん)。持っている魂の片鱗からもそれが見える。お前が彼女に固執する理由もそれだろう?」

「黙れ! 雷鳴よ轟け(トニートルア)!」

 突如として天空は黒い雲に覆われ、雷鳴が轟いた。タナトスは宙に浮かぶと右手の人差し指をモルペウスに向けた。指先にはパチパチと青い電気のようなものが走り、強大なエネルギーを蓄えた瞬間に放たれた。

「くっ」

 両手でタナトスの攻撃を防いだモルペウスも反撃した。

「植物よ目覚めよ(エクサイテレ・プランティス)」

 そう唱えるとモルペウスの周囲の地面が裂け、地中から幾千もの芥子(けし)の花がらせん状に空に向かって伸びてきた。そして彼が両腕を交互に絡めて瞳の前で組むと、今度は無数のイバラがタナトスの足元から生え、一斉に彼の手足に絡みつき傷つけた。

「血が……。私の尊い血が。よくも! 」

 タナトスの肩は怒りで震えていた。死神の矜持(プライド)はもしかすると、彼の仕える冥王・ハーデスより高いのかもしれなかった。次の瞬間タナトスは愛花を抱き寄せると、左腕を首に手を回し、右手の指を愛花のこめかみに当てた。震える指先は青い炎のような光を帯びている。

「今度、私の邪魔をしたらこの娘の魂は消滅するぞ」

「やめて!愛花があなたに何をしたというの?二度も愛花の魂を奪ったら私が許さない」

 タナトスは残酷な微笑みを見せた。

「結香といったな。お前は本当にそんな事を言える立場なのか?私は知っているぞ。この娘を死に追いやったのはお前だ」

「違う、違う! 私は……」

 結香はその場で泣き崩れた。

「タナトス、何を言っている?どういう事なんだ」

タナトスは愛花を羽交い絞めにしたまま話続けた。

「そのままだ。愛花の双子の妹であるこの娘の言葉が、愛花を殺したのだ」


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