第2話 悲しみの音色
〖人間界 七月中旬 東京都・お茶の水〗
都心は今日も静かな喧噪に満ちていた。御茶ノ水駅を降り、明大通りを過ぎて一歩裏道に入った所にその店はあった。銅製の小さな看板には「Larmes d’un ange /ラルム・ダンジェと書いてあり、涙型の大きなクリスタルがはめ込まれている。緑のツタに覆われたレンガの壁二階に入り口があり、ドアを開けると南国風のきれいな音のするチャイムが鳴った。
少し薄暗い店内には、大きな観葉植物がいくつかあり、明り取りのステンドグラスに、雰囲気の良い洋風のガラス製ランプがほんのりとともされて、優しい光で少女の顔を映し出していた。
だが、彼女の顔は冴えない。何かに苦悶しているような、それを隠しているような表情をしていた。
「はい。これね、『オレンジ・ベルガモットティー』。少し気持ちが落ち着くかもしれないよ?まぁ試しに飲んでみて」
午後四時過ぎの店内は人気もなく静かだった。店主の青年が、所在なさげにカウンターに腰かけている少女にお茶を出した。少女は恐る恐る一口飲むと、はぁっと息をついた。
「で、どうして、あの橋から飛び降りようとしていたのかな? 」
「あの橋」とは、この喫茶店、ラルム・ダンジェから程近いお茶の水橋のことである。神田川に架かるその橋は水面からの高さは、ゆうに二十メートルを超えるだろうか。どちらにしろ、人間が落下して無事で済む高さではない。
「飛び降りるなんて、そんな……。私はただ……」
「ただ? 」
「ここから飛び降りたら、どうなるだろうって、そう考えていただけで……」
実行する気はなかった、と。そういうことだろうか。
「だが君は、僕がその手に抱えているバイオリンを川に投げ入れようとしたとき激しく抵抗した。」
「それはっ……! 」
少女は途端に声を押し殺して泣き始めた。
「君はそのバイオリンの持ち主ではないんだろう? 」
「どうしてそれを?バイオリンってどうしわかったんですか?それにこのバイオリンは私のものです、今は……」
「質問攻めだな」
喫茶店の店主はそう言ってクスリと笑った。
「俺は天野(あまの)朔夜(さくや)。この喫茶店ラルム・ダンジェの店主だ」
そういって微笑む天野の顔は少年のような、そしてまた年老いて成熟した男性でもあるような不可思議な揺らぎがあった。
「君の名は?」
「私は、鳴宮(なりみや)結香(ゆいか)。高校二年生です。このバイオリンは……。とても大切な……」
「無理に言わなくてもいいんだよ」
「いえ、大丈夫です。」
結香(ゆいか)は両手のこぶしをぎゅっと握りしめて、唇を震わせながら次の言葉を口にした。
「このバイオリンは私の双子の姉の、愛(あい)香(か)のものだったんです。でも姉は……病で一年前に亡くなりました。それで私がこのバイオリンを受け継いだんです」
「そうか……」
「だが君は、そのバイオリンを殆ど弾いていないね?」
結香は天野の視線が自分の左の首当たりにあるのに気づいて、ハッとして手で押さえた。
「なぜそれを……? 」
「君の顎の下には、バイオリンやビオラを挟むときにできる痣が殆どない。手に持っているその楽器を弾いていないか、若しくはバイオリン以外の楽器を弾いているかのどちらかだ」
結香の黒く大きな瞳が瞬かれ、動揺がみてとれた。
「なんでもお見通しなんですね」
結香が伏し目がちに俯くと、明るい栗色の長い髪が揺れた。そしてテーブルに涙がぽたぽたとこぼれ落ちるまでにそう時間はかからなかった。
「あ、ちょ、ちょっと泣かないでよ、ごめんごめん」
そういうと朔夜は、手元にあった布巾を渡そうとして、慌てて引っ込めた。「ええと、これじゃまずいよな。何かないかな?これだ!この紙ナプキンで! 」
そういって更に慌ただしく紙ナプキンを鷲掴みにして結香に手渡そうとした。すると結香はますます下を向いて肩を震わせたので、朔夜はもうどうしていいかわからなかった。
「す、すまん。俺こういうの苦手でさ、どうしていいか……」
そういって頭を掻きながら詫びる天野は心底困っているようだった。
「ふふ……あは、あはははは」
結香はそのまま腹を抱えてケタケタと笑い始めた。
「……? あれ?笑ってる? 」
「天野さんて、変な人。それにカワイイ」
「か、かわいい?この俺が?」
まったく人間の女ってのは、どうして笑ったり泣いたり、どうしてこうも忙しいのだろう?その上、この俺様がかわいいだと?不遜な。
「人間の女?」
「へっ?あ、ごめん。声に出てた?あ、いや別に深い意味はないよ。女の子ってのは、ころころ表情が変わって面白いな、と」
何しろ人間界でいう所の、「神話の女神」たちの恐ろしいこと。身震いするほど残酷で、そして目もくらむほど美しい。だが身命を賭して壮絶な愛に生きる彼女たちは、美しいがまた、かなり嫉妬深く、驚くほど凄惨な末路を辿る者も少なくない。だからこそ、人間以上に人間らしさをもった神々の物語に心惹かれるのだろうが……。
かく言う俺も本当はその「神」の一柱なんだけどね。それがどうしてここでこんな事をしているのか。ま、今それは置いておくとして。
「正直にいうとね。君と君のお姉さんの事を当てて見せたのは、本当は音楽の知識があったから、という事だけじゃないんだ」
「……? 」
「俺は人や、人の触れたものから、その人の『夢』を読み取ることができるんだ」
「……それはつまり、ここはスピリチュアルなお店ってことですか?私、そういうのあんまり信じてないんです」
結香はあからさまに不審そうな顔をしてみせた。
「だろうね、まぁ、それが普通さ。俺も普段はこんな話を若い子にしたりしないんだけど、何故だろう。たぶん、君たち姉妹の『悲しみの絆』がそのバイオリンから『見えた』からかな」
「悲しみの絆……」
結香はその言葉に射抜かれて傷ついたかのように眉をひそめた。
「ごめん。傷つけるつもりはなかったんだ。許してほしい」
「……いえ、本当のことですから」
「話を続けていいかい」
結香はコクンと頷いた。
「僕はね『夢』のプロなんだ。訳あって、この能力の秘密のすべてを打ち明けることは出来ないけれども。だが他人(ひと)の夢を解き明かしたり、悪夢を祓うこともできる。君は今、姉妹の大切な絆を貶め傷つけるような悪夢に苦しんでいる。それが橋での自殺未遂に繋がった。違うかい? 」
結はあっけに取られたかのように、朔夜をみつめた。いや、まだわからない。ここまでなら偶然の当て推量でもできることだ。
「信じられないわ、そんなこと。じゃあ、これは?私のこのバイオリンに触れて、私の夢を当てて見せて」
「いいとも。だがこのバイオリンのかつての持ち主の夢も見えてしまうかもしれない。それでもいいかい? 」
朔夜は大切な宝石に触れるようにカウンターに置かれたバイオリンのケースに触れた。しばらく目を閉じて静かに指先を動かして、口元で何かを唱えているように見えた。
「これは……」
朔夜は一瞬右手の指を離しかけて、また戻してはを繰り返した。
「シベリウスのコンチェルト……。そして君は」
結香の瞳が暗く光った。
「君の姉さんを殺した。夢の中で」
「……そうです」
「それも昨晩だけじゃない、何度も繰り返し……」
「もうやめて!そうよ、たとえ夢だとしても愛花を殺すなんて耐えられない」
「君がそのバイオリンを弾きたがらない訳がこれでわかった。高校ももう二間近く休んでいるんだろう?」
「そんなことまで夢から?」
「それは違う。この時期多くの音楽学校では試験が行われているはずだ。君の指の腹には弦を抑えたときにできる痕もなく、顎の痣もほぼない。加えて練習もせずにこの通りを私服でうろうろしているのは学校に行ってない証拠だろう? 」
「うぅ。ごもっとも……」
結香は悔し気にうなった。
「君に一つ提案がある。俺にその悪夢を『退治』させてくれないか? 」
「え、でも……」
「大丈夫、君は未成年だしね。お代は要らないよ。あぁ、もちろん今日のハーブティーも俺のおごり」
結香は朔夜を怪訝そうに見つめている。話し方がちょっと軽い感じだけど、よく見ると端正な顔立ちをしている。それもあまり日本人ぽくはない感じ。くすんだアッシュ系のウェーブした髪に少したれ目の濃い二重と青みがかった瞳。ハーフ?なのかしら。
「あ、もしかして新手のナンパかなにかと思ってる? 」
結香は真っ赤になって否定した。
「ち、違います!そうじゃなくて……。なんでこんなに親切にしてくださるのかなって。申し訳ないというか、ご厚意に甘えてしまっていいのか、と」
「……どうしてかな。君はたぶん俺のよく知っている人に似ているんだ。名前も持っている雰囲気も。他人事とはおもえなくてさ。まぁいいだろう、理由なんて」
結香は、納得がいかなそうに少し首をかしげた。
「大丈夫。俺しばらく恋人とかそういうの作る気ないから。興味ないんだ、今は。いますぐ決められないなら、それでもいい。もし悪夢を祓って欲しくなったらまたここに来ればいいさ。いつでも待っているから」
「はい」
「あ、それと『無料で解決』が、申し訳なくて気になるってことだったら、こうしてくれないかな? 」
結香はきょとんとした。
「君の『夢の一部』を俺にくれないか」
「夢の一部を? 」
結香はわけがわからないという風に怪訝な顔をしてみせた。
「……わかりました。少し時間をください」
結香はそういって、お礼を述べてお辞儀をすると、大切そうに楽器を抱えて店を後にした。
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