東雲

「おはよう、綺月。昨日は本当にごめん」

「おはよう! 怒ってないよ」


 これは本当だった。銀河くんとのことよりも鏡野さんや34292431-1111-3226さんのことで頭がいっぱいだった。それに不意に鼓動が早くなった自分に驚いたから、きっと私に触られた銀河くんはもっと驚いたはずだった。


「ごめんな……久しぶりの連続ドラマの撮影なのに怖い思いさせて」

「本当にいいって。怖くないし怒ってないよ」


 マネージャーに叱られた、と銀河くんはこぼした。


「鏡野さんと共演するの二度目って知ってるだろう?」

「なんだっけ、学園ものだっけ。鏡野さんが教師役で」

「見てくれたんだな。ありがとう……なんて綺月は鏡野さんが目当てか」


 座ってというように、右手をパイプ椅子に差し出した銀河くんはどこからかもう一脚探し出して距離を置いて座った。その物理的な距離は心の距離でもあるように感じた。


「以前の撮影で、鏡野さんに『全然できてない』って罵倒されたんだ」

「へ?」

「真顔のまま近づいて、肩押されて『そんなんでやってるつもりなの?』って詰問されて怖かった。あの人、目が大きいだろう。つい視線逸らしたら『怖がり、バーカ』……そんな風に言われたら怖くてもっと演技ができなくて悔しかったんだ」

「共演NGにしなかったんだ」

「若かったからかな。いつか見返してやる! 悔しいけど、この人の前で絶対いい演技してやる! 唸らせるような演技してやる! って頑張りすぎてたところがあったんだ」

「へぇ、銀河くんが?」

「綺月は子供の頃しか知らないからな。綺月がいなくなってちょっと寂しかったんだ。ライバルがいなくなったみたいで。同い年でキャリアも同じくらいで、綺月も戻ってこない組なのかなって」

「……そんな風に思ってたんだ」


 進学組は芸能の仕事から離れると、やがて別の道を探し出して未練を捨ててしまう。


「元から戻ってくるつもりだったんだよ。でも、今の事務所に入ってマネージャーにしか話してなかったから、みんなにはそういう気持ちは伝わってない」

「そっか。このドラマ、けっこう監督がキャスティングに力入れてて、俺や綺月が鏡野さんと共演するの偶然じゃないみたいだ」

「ふぇ?」

「綺月はあんまり覚えてないかもしれないけど、子役の頃から『鏡野優夜が憧れの女優です』ってバラエティ番組で発言してただろ。少しの間だけど。綺月、そのあとすぐに一切の仕事から降りたからな」


 子役時代……撮影とは早朝から始まって私が眠くなるまでだった。その頃のマネージャーは母が担当していて、子役事務所に所属していた。始めたばかりの三歳の頃はモデルの仕事をぽつぽつと受け、四歳になるとオーディションを何度も受けては落ちた。どうやら私がテレビを指さし「やりたい!」と叫んだらしい。その頃の記憶はそれこそないが、演技のレッスンは楽しくてこれをずっと続けていきたい。

 五歳になってすぐ受けたオーディションに合格し、連続ドラマへの出演が決まってからだった。ドラマ自体がヒットし、子役の私にも注目が集まった。単発ドラマへの出演が続々と決まった。台本を読むのは楽しい。違う役になれるのは楽しい。私じゃない人だと見てくれる爽快感。そんな言葉は知らなかったけれど、悪い感情を持ったことはなかった。

 私はまったく覚えてないのだけど、小学三年生にあがる頃に母が仕事をやめさせようと苦心したらしい。学校生活を楽しく過ごした記憶は確かにある。中学生にあがる前に母と喧嘩したこともうっすら覚えている。


『仕事してたらあんたバカになるよ!』

『うっるさいな! 私の夢を邪魔しないで!』

『あんたのこと心配してるのよ。局の廊下で倒れて』

『やだ、その話は嫌だ……思い出したくない』


 頭痛が始まるから喧嘩をやめる。その繰り返しだった。


 中学二年だった。私立中学へと進学した私は、芸能活動に興味のある友人を集めて情報交換用のグループを結成した。私を覚えている人間もいたし、幼少期から思春期へとさしかかり顔が変わったと名乗ってもわからない人間もいた。オーディションの情報、スカウトに出会いやすい駅、場所、危険人物の情報、すべてを手に入れた気分でいた。だけど、その前に母を納得させる行動を取らなくては、と料理の手伝いを始めた。サラダの野菜を手でちぎるだけとか、ポテトサラダをマヨネーズで和えるだけとか、小学生でもできるような内容ばかりだったけど、それが母なりにその時代にそういうことをさせてあげられなかった贖罪なのだと気づいた。うさぎ型に皮を落としたりんご、タコさんウィンナー入りの炒めもの、キャラクターに成形したおにぎり。夕飯の手伝いが楽しくなった。皿洗いを志願したものの、とっくの昔に導入していた食洗機の前になすすべもない。食洗機が終われば、少しだけ時間を置いて一人で棚へと片付けた。芸能活動がもう一度できるならば一人暮らしをしようと考えていたからだ。母と折り合いがつかないなら、いっそ家を出てでもやれるだけやってみたい。一人暮らしができそうにもない娘を家から出すわけもないだろう。活動ができれば学費も稼げる。そんな考えだった。

 母に内緒でモデルと役者業務の実績がある事務所を探し、面接を受けた。経験からここはダメだ、口だけだとわかると自分から連絡を絶った。事務所に登録料としてお金だけ払わせて、仕事を取ってこない、マネージメントしない、登録者は極貧バイト生活。そんな事務所はごまんとある。親に内緒で面接を受けている身だから、登録料だけ取る事務所が許せなかった。


「初めまして、関山と申します」

「あの、前に使っていた芸名の晴間綺月は使えますか?」

「ええ。以前の契約を一緒に確認しましょう」

「はい!」

「それから親御さんと一度確認させて欲しいの。あなたの芸能活動を了承しているのか」

「……はい」


 しょうがなく母に一緒に買い物しようと誘い出し、事務所へ連れて行った。


「どういうことなの!? もうやらせないって決めたのに」

「私は、私は続けたいの!」

「……鏡野優夜ね」

「誰?」

「覚えてないのに。役者の仕事がやれるとは思えない」

「モデルの仕事から始めたいと思ってるんだ。だから、ここの事務所を選んだの」

「……わかったわ。やれるだけやりなさい」


 母は渋々と了承し、部屋の隅でのほほんと様子を眺めている関山さんがいた。五歳年上の鏡野優夜は学園ものの生徒役の一人であり、子役から地味に活動を続けている役者の一人だった。だから名前を言われても私にはピンとこない。きょうのゆうや、という名前の響きさえ忘却の彼方だ。


 鏡野優夜の名を次に知るのは、十七歳のときだ。二年前の連続ドラマの主演に抜擢されたとき、顔を知るのはそのドラマを鑑賞したとき。半年前から化粧品の広告に使われてから気になる顔だと眺めるようになった。


 ◇


「覚えてないかもしれないけど、鏡野優夜を憧れの女優に挙げて良かったな。俺は鏡野さんの態度が怖い。いつ気に障って罵倒されるかわからないし。けど……見ちゃったんだ、俺」

「……?」

「鏡野さんが監督にお願いしてたんだ。綺月と一緒のシーンを増やして欲しいと監督に頭下げてお願いしてるのを見ちゃったんだ。だいぶ驚いたよ」

「へ、へぇ……そうなんだ」

「良かったな。憧れの女優に鏡野優夜の名前を挙げてきて。良い思い出できそうじゃん」

「な、なに言ってるかわかんない」


 撮影が進んでも頭痛はなかった。ただ、私が子役時代に何があったのか周りの人間は覚えていて、心配してくれる。鏡野さんも知っているのだろうか。それとは違う、会いたくて一緒に仕事がしたくて私の前では笑っている。銀河くんが知った鏡野優夜と私が知っている鏡野優夜は違う。

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