月かたぶきぬ 2
「晴間、奥村監督がいらっしゃったよ」
「関山さん、ありがとうございます」
今日は出演が決まったドラマの制作について奥村監督と打ち合わせをする。事務所の一室でパイプ椅子と長机を縦に二つ合わせた簡素な会議室だ。大きな窓の側にはホワイトボードが置いてあって、日差しを遮っている。
連続ドラマ『ルールブルー』は
「今回の作品、ルールブルーについてなんだけど」
「はい」
「ルールブルーって言葉知ってる?」
「えっと、香水の名前ですよね」
「香水も有名だけど、元々はフランス語でね。日の入り前と日の出前の極わずかな青い時間、この時間に名前をつけたんだ。見たことある? そういう時間の空を」
「ああ……以前撮影で、なんとなく」
「そうか、晴間さんにとっては昔の話だもんね」
「いや、そんなつもりで言ったんじゃ」
「知ってるよ。記憶がおぼろげだとか」
「やれます! 撮影はやれます」
思わず上半身を前に出して叫んでいた。けれど、監督はそんな私に苦笑いで応えた。片手を顔の前でふらふらと振りながら。
「ごめんごめん、鏡野優夜を主演に据えるから、それで君の名前を思い出したんだ」
「私の、ですか?」
上半身が背もたれにつく。パイプは少し冷たくて、服を通じて情熱と世間の熱の違いを思い知る。お茶の間の人たちはもう私の名前なんか覚えていないだろう。
「うん。だから、安心して。それより! ルールブルーを人生に喩えるならどんな時間だと思う? これは宿題だよ」
「時間……宿題」
第一話の脚本の表紙は水彩の薄い青色で、筆にたっぷり水を含ませた後にほんの少しだけ絵の具をつけて塗り終わりの端みたいだった。そこに真っ白な文字でルールブルーと抜いてある。
「そう、それを考えながら脚本を読んで欲しい。そして現場に臨んで欲しいんだ。もちろん、晴間だけじゃなくて桶田にも、鏡野にも、役者にはこの話を直接してるんだ」
「……そうでしたか」
銀河くんのところへ先に行ってるのか。私は何番手なんだろう。高望みをしちゃいけないと思っていたけれど、彼は役者としてずっと遠くを走っているような気分になった。今見えてる背中があまりにも小さい。それは幼い頃のイメージを浮かべているからかもしれないけれど。身長も体重も成長した彼の姿はテレビや雑誌でしか確認していない。現実を見れていない。
「大丈夫そうかな? じゃあ、次の出演者の事務所に向かわなきゃだから。また現場でね」
奥村監督は私の腕をぽんぽんとはたくと眼鏡の隙間から瞳を向けてウインクした。
監督とはどうやら子役時代に一緒に仕事をしたことがあるらしい。もちろん連続ドラマの撮影だ。だけど、さっき監督も言ってたとおり、記憶がおぼろげで脳内で残像のようにゆらめく。
宿題はあまり好きじゃない。子役時代が忙しかったから泣きながら宿題をこなしていた記憶がよみがえる。今日は何を投稿をしようか。『高校を卒業したばかりなのに宿題が出されました』かな。打ち合わせ終了後に関山さんが監督を引き止めて、撮影をした。いつかのイソスタグラム投稿用だ。未来に向けて写真を撮影し管理して選択する。一人だけの写真を何十枚と撮影した。写りのよいものを関山さんと二人で相談して残す。今日、投稿するのはこの何十枚と撮影したうちの何枚かだ。
子役の頃を思い出す必然があるときは、ああ、こんな日は早く34292431-1111-3226さんのメッセージが読みたい。
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