きりえちゃんのこと

両目洞窟人間

きりえちゃんのこと


「網戸が外れやすいのは、外れやすく作っているからです。この絶妙なさじ加減が難しいのです。そもそも不思議だと思いませんか。沢山、本当に数え切れないほど、家はあって、網戸もあるのに、その全てがちゃんと外れやすいなんて」

 高校時代、現代文の先生がそんなことを言っていた。高校生だったころ、ずっと眠たくてほとんどの授業は全部起きていた試しがなくて、授業はだいたい夢と夢の隙間に聞いているものだった。その時の現代文もそうで、夢の隙間にちょうどその網戸の話ははまった。

 先生は続けて、多分ちゃんと網戸は外れやすいように網戸協会みたいなのがあって、絶妙な大きさをルールとして定めているんだろうね。まあ調べてないから仮説どころかただの妄想だけどもと話した。

 それから授業はそのころやっていた昔の小説の第二段落に戻っていった。私はまた眠ってしまったのだけども、その時、私は全日本網戸協会の夢を見た。

 全日本網戸協会は網戸を守っている団体なのだ。人知れず網戸周りのことを守っている人たちなのだ。

 この世界には網戸がいつまでも外れやすいように、網戸周りのルールであったり、法則を定めて守っている人がいるのだ。

 誰も気にはしていないけども、でもこのルールや法則があるから、生活の中のある部分は維持されている。

 それはなんとなく生まれてはじめて「世界は凄いなー」って思った瞬間だった。世界は私の想像よりも広い。思っているよりもずっと広い。

 そんな感動を、そんなことをたまに思い出す。特に年末に。

 掃除しなきゃなと思ったりするときに。とはいえ、網戸は全然触ってなかった。網戸の掃除は面倒くさいからだ。





 きりえちゃんがリビングでエアコンの説明書を読み込んでいた。

「エアコン?」と聞くと、きりえちゃんは「フィルターを掃除しようと思って」と言う。

「なんか調子悪いの?」

「効き目悪くない?全然冷えないし」と言ってきりえちゃんはエアコンの説明書を読み込んでいた。きりえちゃんが掃除を、しかもエアコンのフィルターの掃除をしようとするのは、結構意外であったけども、きりえちゃんの血走った目を見て納得はする。

「きりえちゃん、今日二日目のほう?」

「二日目半」

 なるほどーと思って「それだったら、無理したらだめだよ」と言って、とりあえずカフェオレでも作ってあげる。わかってる、わかってるときりえちゃんの返答が聞こえる。

 猫がベッドで横になっている絵が描かれたマグカップに牛乳とアイスコーヒーをほぼ半々。

 それをきりえちゃんに持っていく。マグカップに描かれた猫の絵の下に「Sleep warm,Sleep tight.」と描かれている。でもそれを手にしているのは徹夜をしているきりえちゃんで皮肉に取られてしまったら面倒くさいなって思うけども、ずっと家にあるやつだから猫の絵も、その下の「Sleep warm,Sleep tight」も当たり前に存在しすぎて、存在していないと一緒だからきりえちゃんは気にせずカフェオレを飲むのだった。ごくごくごく。





 私が妹をきりえちゃんと名前で呼ぶのは、妹が桐江って名前だからだけども、それ以上にきりえちゃんという響きが可愛くてずっとそう読んでいる。きりえという言葉は、桐江であって、切り絵と聞こえてくる。そうすると私は正月のお笑い番組で浅草の演芸場で、お客さんからのお題を受けて一瞬で切り絵を仕上げてしまう芸人さんのことを思い出してしまう。喋りながら、紙をはさみで切りながら、なんならその時々の時事をはさみながら、白い絵を何かに仕上げて、それを黒画用紙の背景に重ねるとそのお題を模した切り絵へ早変わり。

 私は子供の頃それを正月にテレビで見て、凄いなと思って、それから「切り絵」というのが魅力的になり、その同じ言葉の響きを持つ妹を「きりえちゃん」と呼ぶようになった。

 きりえちゃんは私がそう呼ぶ意図も知って、保育園時代から使っている刃の部分にセロテープの粘着が残っている青いはさみとノートをちぎった紙を持って、切り絵をやってくれようと頑張ってくれた。

「おだいをください」

「くまのプーさんで」

「なるほど……」

とジャキジャキジャキジャキと紙は真っ二つに切れて、きりえちゃんは「あっ」って呟いて、それ以降は切り絵をしていない。 

 そんなことが昔に、だいぶ昔にあったけども、それの残った名残も名残で未だに私は妹をきりえちゃんと呼んでいる。もう子供だったころは遠くになってしまって、忘れてしまったことやもうやらなくなったこともあったけども、きりえちゃんを「きりえちゃん」と呼ぶのは残ってしまった。簡単だったし、きりえちゃんは、きりえちゃんと呼ぶのが似合う可愛らしい子にどんどんなっていったからだった。




「YOSHIKIが、あ、YOSHIKIってX JAPANのだけども。その頭の中が、ライブ中のYOSHIKIみたいで、うん。頭の中でYOSHIKIが動き回ってて」

 病院から帰ってきたきりえちゃんは自分の症状を色々と説明してくれようとした。でもなかなかどう説明したらいいかわからなくなったのか例え話を提示してくれたんだけども、私は音楽を全然通っていない。だから例えが全くわからなくて、むにゃむにゃとした顔をしていたら、きりえちゃんはyoutubeを開いてライブ映像を見せてくれた。

「歌ってるのは?」

「TOSHI」

「じゃあ、YOSHIKIどれ?」

「首にコルセット巻いてる、ドラム叩いてる人」

「うわ。激しいね」

「うん。そうなんだよ」

 いくつか映像を見せてもらったけども、YOSHIKIは忙しかった。ドラムを力強く叩いていたかと思ったら、突然ピアノを弾きだして私は驚いてしまった。なんでピアノをドラムの人が弾いているんだろう。そうだと思っていたらまたドラムに戻って、首にコルセットを巻いてるのに首を振りまくっていた。

 大丈夫かいなって思っていたら、最後はドラムを破壊し始めた。とにかく忙しい人だった。

「YOSHIKIって人、なんか大変だね。毎回これやってるの?」

「ファンじゃないから毎回かわかんないけど、でも結構定番らしいよ」

「怪我しないの」

「するんだって」

「なんでするの」

「さあ…でもそれくらいしなきゃってなるんじゃない」

「そっか」わかってはなかったけども、職業意識ってやつなんだろうか、それならば納得するかもだなと心の中にハマる落とし所が見つかった気がした。

 そういえば、私達はなんでX JAPANのライブを見ているんだっけ?

 途中、ふとそれを思い出したけども、その疑問に立ち返ることはなかった。というのも「私が赤い髪の人かっこいいね」と言ってから、その人の話を聞かされたり、その人の映像を見せられたりしたからだった。リビングのテレビをyoutubeに接続できるようにしてから、そんなことが増えた気がする。きりえちゃんの好きなものは全部youtubeにあるんだと思う。





「修理できそう?」

「修理じゃないよ、フィルターを掃除するだけだよ」

きりえちゃんは血走った目で説明書を読みながらそう答えた。

頭上のエアコンがぶおーんと唸ってる。

ほんとうは、もっと効き目がよくてもいいはずなんだって。だって良い性能なんだよ。でも、たぶん効き目が悪いのは買ってからいままでフィルターの掃除をしたことないからなんだよ。だから、やろうと思うわけだよ。フィルターは昔、バイトで掃除したこともあるから大丈夫なんだけども、でもこのエアコンって機能がいいから下手にやったら壊れるかもしれないし、ときりえちゃんはまくしたてたけども、私はぼんやりとしか聞いていなかった。

別に掃除しなくてもいいんじゃないの?って思ってたけども、きりえちゃんは活動的な方のきりえちゃんになってるし、きれいになるんだったらまあいいかと思った。

「なにか手伝うことはある?」ときりえちゃんに聞く。

「うーん。大丈夫だけども、でもエアコンからフィルターを取り出すときに椅子に登るから、支えてほしい」っていうから、椅子を持ってきて、近くに待機する。きりえちゃんはなるほどなるほどと言いながら、説明書を見て、頭の中で想像をする。ふふふときりえちゃんは笑う。「ワックスオン、ワックスオフ、ワックスオン、ワックスオフ」

なにそれ?と聞くと「ミヤギさんだよ。ベスト・キッドの。」「映画?」「うん」「なんで今?」「なんかフィルターの掃除の工程を考えてたら、ベスト・キッドみたいって思って」それからまたきりえちゃんはふふふっと笑った。きりえちゃんは私の知らないことをよく話してよく笑う。

「おねえちゃん」

「うん」

「エアコンの掃除で強くなれたらいいのにね」ときりえちゃんは言った。

「掃除できるようになったらめっちゃ便利だよね」と私が言うと、きりえちゃんはふふふとまた笑った。





 駅の改札を出たら甘い匂いがしてきょろきょろしてたら、ベルギーワッフルのお店が改札の近くにできていた。普段、こっちの駅から帰ること無いしなあ、知らなかったな、と思いつつ、ベルギーワッフルを買って帰ることにした。プレーンと、メープルと、いちごのワッフルをそれぞれ二つずつ。買いすぎかもと思いつつ、それぞれ一つはきりえちゃんの分だし、と手に感じる重さから生じる不安に理由をぶつけて納得させていく。

 強い雨が降っている。トタン屋根に雨が当たって、頭の上がだんだらだんんだらと鳴っている。バス停は私と同じく、歩いて帰るのを諦めた人が集まっていて、なかなかバスに乗れそうもない。

 私はバスを待っている間にワッフルを一つ食べることにした。ちょっと甘めの方がいいなって思ったからメープルのワッフルを選ぶ。バス停から産まれた長蛇の列のしっぽの方で、私はワッフルをこぼさないように頑張っていた。今日は集中して仕事をしていたからね。頭が疲れてるのよね。とワッフルの甘さが脳に届いている気がした。同時に頭に届くってなんだろうって思った。成分が血の中を通って…みたいな想像もできたはずだけども、先に思い浮かんだのはマッサージ師が脳に直接手を突っ込んでもみほぐしている様子だった。

「お客さん、こってますね。事務作業ですか?」

「そうです…細かい作業が多くて…」

「1円単位の管理、難しいですよね」

「そうなんです…」

「こここってますね」

「うわあ…すごい…」

「ここ海馬なんですよ。こりこりしてますよ」

「うわあ…」

なんてことを考えていたら、バスがやってきた。こんな長蛇はバスに乗れないだろうと思っていたけども、バスにはどんどん人が入っていけて、私も乗り込むことができてしまった。

とはいえ、長蛇が狭いバスに入ったので、ほとんど隙間はなくて、隣の人の傘の水分を私の服が吸い取り始めていた。バスは動き始めた。ここから家までは10分くらい。

 ふと、脳の疲れをほぐすマッサージ師のことを思い出して、それからきりえちゃんの脳の中で暴れまわっているX JAPANのYOSHIKIさんのことを思った。きりえちゃんの脳の中のYOSHIKIさんもマッサージを受けたらいいのに。

「こってますね」

「ドラム…叩いてるんで…」

「こことかどうですか」

「…はい…いいです…」

「ここ、右脳です」

「へえ…右脳…」

いや、待て待て、きりえちゃんの脳の中を暴れまわっているYOSHIKIさんの脳のマッサージって、マトリョーシカのマトリョーシカみたいな、コピー用紙のコピーのコピーみたいな、そういう入り組んだ感じになって徐々に混乱し始めたところで、家の最寄りのバス停についた。



 「きりえちゃん、ワッフル買ってきたよ、ワッフルー。食べるー?」と家に帰って大きな声を出したけども、返事はなくて、あれどこかへ出かけてるのかな、でもこんな雨だしなって思ってたら、きりえちゃんの部屋からぼんやりした音が聞こえていて「そっか、今日は一日中寝ている日の方だ」と納得した。

 きりえちゃんの部屋を少し覗いたら、やっぱりベッドできりえちゃんは寝ていた。というより寝込んでいた。今日は一日中寝ている方の日。今朝まで三日間起きてたきりえちゃんは、ここから一日半寝続ける。きりえちゃんいわく、三日間おきてるんじゃなくて、三日間寝られないんだよ。頭の中でX JAPANのライブが三日間連続であるんだよ。で、三日目終わったらYOSHIKIさんは一日半倒れ込むんだよ。

 だからきりえちゃんは明日の夕方くらいまで起きない。ちょこちょこと起きてくるけども、完全に起ききることはなくて、また睡眠に戻っていく。

 なのでワッフルはそれまで残しておくことにした。全然明日の夕方まで持つと思うし。とはいえ、ワッフルは冷蔵庫にいれるべきなんだろうか?それとも常温保存でいいんだろうか?それがわからなくて、とりあえずリビングのテーブルに置いてしばらくぼんやりしていた。ガラス戸から打撃音が聞こえるほど、雨音がうるさくて、仕事の疲労感とさっきお腹に入れたワッフルと雨音が相まって眠たくなって私もしばらく眠ってしまった。

 夢の中でワッフル屋はマッサージ店になっていた。奥行きが一キロメートルほどあるそのマッサージ店にお客さんがずららららと寝転んでいて、みんながみんな脳みそをほぐされていた。




 エアコンのフィルター掃除がうまくいったことに気を良くしたきりえちゃんは、水で濡らしたフィルターが乾くまでの間に他の掃除もする気になってしまっていた。

「網戸」

「網戸?網戸はいいよー」

「最後に掃除をしたのっていつ?」

 いつだろう。去年の年末はしてない。一昨年の年末も掃除していない。ずっと網戸は掃除してない。でも、そんなこと言ったら2日半起きているきりえちゃんの衝動を余計に刺激するだろう。だから「一昨年にやったよ」と嘘をついた。

 それからきりえちゃんは家にある洗剤やらで網戸を洗う方法をネットで調べて、いらないTシャツを使って網戸を拭き始めた。ベランダに出て、きりえちゃんは網戸を拭いていく。網戸は明らかにどんどん明るくなっていって、きりえちゃんの持ってる古着のTシャツはどんどん汚くなっていった。

 きりえちゃんの頭の中にはYOSHIKIさんがいる。

 そのYOSHIKIさんも今のきりえちゃんくらい激しく動いてるのかもしれない。

 YOSHIKIさんは三日三晩、激しく動き回って、一日半倒れ込む。

 だからあと半日もしたらYOSHIKIさんは倒れて、そしてきりえちゃんも倒れちゃうのだ。

「きりえちゃん」

「なに?」

「もう休んだら」

「やり始めたばっかだよ」

「でも、うん、休んでいいよ。うん、というか休もう」

「最後までやるし」

「そこはお姉ちゃんが、続きをやるよ」

「でも、お姉ちゃん。掃除苦手じゃん」

「苦手だけども、引き継ぎくらいはできるよ。今の職場だって今の仕事未経験だけども引き継ぎでやってて、なんとかなってるし、」

「……」

「だから、きりえちゃんは休んでいいよ」



 それからきりえちゃんは、自分の部屋に戻ったから、私はマグカップに注いだカフェオレとベルギーワッフルを持っていく。ワッフルは前に買ってきて以来、私もきりえちゃんも気に入ったのだ。それとカフェオレの組み合わせはとてもよいのだ。だから、きりえちゃんをねぎらうためにも持っていったら、もうきりえちゃんは眠っていた。

私はきりえちゃんが夜中に起きた時のために、ワッフルとカフェオレを近くのテーブルの上に置いた。マグカップに描かれた猫の寝顔ときりえちゃんの寝顔を見比べる。スリープウォーム、スリープタイト。

 それからリビングに戻ってきた私はフィルターを外したエアコンと、掃除途中の網戸を見てしばらく呆然としてしまう。

「きりえちゃん」と叫びたいのをぐっとこらえて、私はエアコンの説明書を睨んで、エアコンのフィルターをあるべき場所に戻す。そして網戸の掃除の続きを始める。途中、力が入りすぎて「がこっ」と音がして網戸が外れた。私は呆然としてしまったけども、その時全日本網戸協会のことを思い出した。私はこの網戸も誰かによって守られたルールや法則によって外れやすいだけなんだと考えた。

 少し、力を込めて網戸を移動させたら、網戸はまた元通りの位置に戻った。

 きりえちゃん、この網戸も全日本網戸協会の網戸だったよ。と私は伝えにいきたかったけど、それは我慢した。

 伝えたところでなにそれって言われるだろうし。

 でも、誰かによって丁寧に守られた網戸だよ。それが家にあるんだよ。ねえそれって

「凄くない?」と誰に言うでもなく呟いた。

 きりえちゃん、凄いんだよ。たぶん、世界はもっと凄いんだよ。

 起きたらまたその話がしたいから、それまでおやすみなさい。

 そういえばやっぱり全日本網戸協会はないけども、一般社団法人日本サッシ協会は本当にあるんだって。

 やっぱり凄いよ世界、思ったよりも広いみたいよ。

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