あなたが忘れている言葉で

両目洞窟人間

第1話

 かなこさんは高校からの帰りにドトールに行きます。あんまり良くないことだって思っています。周りのみんなが平気でやっていても、先生や大人の意見が聞こえてくれば、そちらの声も気になるのがかなこさんなのでした。

 とはいえ、かなこさんは大人の意見に従うことがいいとも思っていませんでした。

 むしろ、ただ従うのは嫌です。

 でも反抗を目的とした反抗も違うと思うのです。

 かなこさんはたまにわからなくなります。どこに自分を置けばいいのかわからなくなります。

 それで不安定になります。

 不安定になると、かなこさんは自分がまっすぐ立てていないって思いました。自分を貫いている棒が壊れているような気がしたのです。 まっすぐ立てていない時、かなこさんは壁によりかかったり、机に突っ伏したり、座り込んだりしました。不安定はいつもつきまとっていましたけども、人にどう伝えたらいいかもわからなくて「気分が悪い」とだけしか言えませんでした。

 かなこさんは高校からの帰りにドトールに行きます。あんまり良くないことだと思っています。

 それでも行くのは、不安定がドトールにいけば和らぐ気がするからです。完全に不安定が和らがなくても、少しはましになっていると思いました。

 学校帰りに一人でいつものドドールのいつも二階の奥の席に行きます。そこは空調が直接当たらないし、店員もあんまりやって来ないので、不安定を収めるにはちょうどいい場所だったのです。

 かなこさんはアイスコーヒーのSサイズを頼んで、二階の奥の席に座って、ぼんやりとしています。

 いろいろなことを考えます。

 その考えは繋がっているものじゃなくて、ばらばらで溢れ出します。

 繋がりもなくばらばらな考えが頭の中で溢れ出て、それをしばらくは見ています。

 考えを見ていると、その考えにちょっとした関連性を見出すことができます。

 それから少しは繋がっているものから線をつないでいって、繋がったものからさらに線をいくつもつないでいきました。

 次第に大きな絵になっていきます。

 でもそれぞれは関係のない考えです。

 それが一枚の大きな絵になるのが楽しくてかなこさんはよくそれをやってしまいます。

 それを授業中にやってしまうと大変なことになります。

 かなこさんは授業中にそれをよくやってしまって、黒板に書いてあることをノートに書ききれなかったり、授業がどこまで進んだかわからなくなりました。

 ちゃんと授業に出ているのに、重要なことをよく聞き漏らしました。

 そのせいで、テストの点数は毎回そんなに良くなくて、担任の先生からも心配されていました。

 かなこさんはよく悲しい気持ちになります。

 一応真面目に授業も受けているつもりなのですが、頭の中で火花のように飛び散る色んな考えを追っているうちに、そっちの世界に長くいすぎるのでした。

 そうしているうちに世界の進むスピードが早すぎて、かなこさんはいつも置いてけぼりをくらってしまうのです。


 でもドドールの二階の奥の席ではそれをいくらやっても大丈夫です。

 書き留めるべきこともなく、聞かなきゃいけない重要なこともありません。

 だから安心して頭の中で弾ける考えを追うことができました。

 今は家の冷蔵庫の氷を作る機能が弱っていることと、親戚に子供が生まれたことがまずは弾け飛びました。

 それから考えはどんどんスパークし、繋がっていき”よく進化した科学は魔法とは変わらない”って言葉が接着の役割を果たして「帰りにナイススティックを買おう」と思うのでした。


 

「あの、見学したいんですけども」かなこさんは言います。

「え、志田、今日も?」体育の先生が言います。

 かなこさんは体育の授業が嫌いでした。身体を動かすのも楽しいと思えなかったですし、小学校の頃から体育の時間に嫌な思いをすることが何度もあったのです。

 それに最近、不安定が強くなったり、日に何度もやってきたりしていました。

 不安定でいると、身体がとても疲れやすくなっていました。

 だからかなこさんはその日も体育を見学することにしました。

 先生は「ここのところずっとだよ」って言います。

 かなこさんは「今日もとてもしんどいんです」って言ったら先生は「じゃあ。そこで座って見てて」って言って体育館の階段を指差しました。かなこさんはそこへ移動して座っていました。

 かなこさんは階段に座って、手すりがついているちょっとしたコンクリートの壁によりかかりました。

かなこさんはそうしないと身体のバランスが取れないような気がしました。

 先生に頼み事をするのも、とても怖いことでした。怒鳴られるんじゃないかって毎回思ったり、怒られるんじゃないかって毎回不安に思いました。不安定なので休みたいのに、先生に休むことをお願いするのはより不安定が強くなってしまって疲れることでした。

 かなこさんは壁によりかかって、目をつむります。

 耳にはみんなの運動靴が体育館の床でこすれる音、沢山のボールがバウンドする音、それからみんなの叫ぶ声が聞こえました。

 近いところで鳴っているはずなのに、とても遠くで鳴っているような気がしました。

 それから少しだけ眠りました。かなこさんは日中に強い眠気に襲われるのです。

 毎日、とても眠たくて仕方ありませんでした。頑張って学校に来るだけで大変なのですが、みんなやっていることは評価されません。

 それどころか、日中眠たくなったり、授業中ぼーっとしているかなこさんはよく怒られていました。真面目にやっているつもりだったのですが、先生たちからは問題児の一人として思われていました。かなこさんはそのことにも気がついていましたし、それが少しだけ、ほんの少しだけくやしく思ったのでした。




 かなこさんは高校からの帰りにドトールに行きます。あんまり良くないことだと思っています。

 それでもいつもの二階の奥の席に座って、アイスコーヒーのSサイズを飲みながら、ぼんやりとするのです。

 何が間違っているんだろう?ってかなこさんは思います。

 真面目にはやっているつもりなのですが、全然上手くいかないなあって思うのです。

 歯車はそれぞれであるのですが、全く噛み合ってなくて、ばらばら場所で頑張って回っているような、そんな気がしていました。

 かなこさんはどうしたらいいのかなって思うのですが、その考えすらも、沢山の関係ない考えが一緒にスパークして、それぞれを追っているうちに大きな絵になってしまいます。

 いつも答えが上手くでなくて、その代わりにいつも変な考えにたどり着いてしまう。

 かなこさんはなんでこうなんだろう?って思いました。

 やっぱり私は馬鹿なんじゃないかなってかなこさんは思いました。

 かなこさんはよく人に馬鹿にされていました。でも、自分はどこか、人に言われているような「馬鹿な人」だとは思えませんでした。とはいえ「賢い人」だとも自分を認識しているわけでもありませんでした。でも「馬鹿な人」だと人から言われるとき、その言われていることと自分のことにズレがあるように思えたからです。

 でもやっぱり人が言うように私は馬鹿なんじゃないかな、ってかなこさんは思いました。

 そう思ってから、とても悲しくなりました。

 悲しくなったので、かなこさんはノートを取り出しました。普段授業では使っていないノートです。それは中学二年の時に、国語のために使い始めて、途中でなくしてしまったノートでした。最近、部屋を掃除していたら、そういったノートが沢山出てきたので、その一冊を今は適当なことを書くためのノートにしているのです。

 かなこさんはそこに言葉を書きます。

「私は馬鹿なんじゃないだろうか」。

 そのあとに、馬を書きました。それから鹿も書きました。それから”しか”から歯科ってことで歯医者の格好をした鹿を書きます。その鹿に吹き出しをつけて「虫歯を取り除くよ!」って言わせました。その歯医者の鹿の近くで口を開けて横たわる患者の馬も書きます。吹き出しをつけて「悲悲~ん」って言わせました。それから関係のない猫とうさぎも書きます。猫は「これは”にゃん”です!」と言っています。うさぎは「にゃんですか」と言っています。サンデーモーニング~♪と書き足します。ねことうさぎに支配されたサンデーモーニングです。それから絵柄のタッチが変わって、とてもリアルな絵柄で、人の口を書きました。かなこさんは人の身体はどこかグロいって思っていました。きしょいって思っていました。そのグロさを絵にするのがすきでした。口ってきしょい、って思いながら口を書き上げました。そのリアルな口の奥ののどちんこに、点で目をつけてあげました。ゆるキャラみたいなのどちんこの出来上がりです。そののどちんこに吹き出しをつけて「飲み込む力っ」って言わせました。

 それらの落書きを1ページの中に書いていきます。なるべく隙間を埋めていくように、それでいて、それぞれの絵が独立して見えるように。最初からそう配置するのを決めていたように、絵をどんどん書き足していきます。言葉も増やしていきます。

 「にゃんにゃんつけぼー」「白浜のマルケス」「金髪阿吽像」「わんにゃん銀行」「わんにゃん議事堂」「野盗の野党」「日本山賊党」「絶対に村々を襲うことを誓います」「野党のヤドン」「ヤドンの野盗」「平和っ!」「ラブ&ピース&ミュージック&エコロジー」「ねこのパリコレ」「ぴょんこれ(平壌コレクション)」「ねこモデル」「ねこのプラモデル」「ねこプラ」「ねこブラ番組」「笑いのニューウェーブ陣内智則「あーここが猫カフェかー!猫もふもふしたいし入ってみるかー!」「冤罪智則「あー!やってもない殺人で起訴されてもうたー!どうしよー!どうやって無罪勝ち取ったらええねーん!」

 それらの言葉と、付随した絵を1ページの中にびっしりと描き込んでいきました。

 それらは全てばらばらでしたが、描き込みと配置と隙間のない構成で、まるで1枚の絵のようになっていました

 一通り文章と絵を描いた満足感で我にかえると、外は夜でした。

 お母さんから「暗くなったら危ないよ」って言われていたのに、またこんな時間になっていました。かなこさんは慌てて帰ることにしました。

 ノートをかばんにしまって、氷がとけて薄茶色の水が底に少し溜まっているコップを返却口に返しに行きました。

 かなこさんは集中すると時間を忘れてしまいました。

 というよりは時間の経過だとか、周りの世界だとかを感じなくなりました。

 集中してこんなふうに落書きをしているとき、不安定なことだとか、馬鹿って言われたことだとか、そういういろんな自分にまとまりついているいやでべたべたしているものを振り落として、自分の自分的な部分だけで生きているような心地よさをかなこさんは感じるのでした。

 家に変えると案の定、お母さんに怒られました。もっと早く帰ってきなさいと言われて、かなこさんは悲しくなりました。また不安定がやってきました。でも不安定がやってきてもどうやって伝えたらいいかわかりません。それにお母さんが正しいからです。

 だからちゃんとしなきゃと思います。でも、集中すると時間への感覚が無くなってしまいました。

 仕方がないことなのです。そしてかなこさんは仕方がないことって伝えるのは難しいってのもわかっていました。



 寝ようと部屋を暗くして、毛布を被りました。暗くて底がわからなくなった部屋の天井を見つめます。かなこさんはなんでこんなに上手く行かないんだろう?って何度も何度も思ったことをまた思いました。

 全然歯車が噛み合わない。

 一つ一つは全力で回っている歯車が全然噛み合わない。

 かなこさんは「えーんえーん」と泣いたふりをしてみます。

 かなこさんは「わーんわーん」と泣いたふりをしてみます。

 かなこさんは凄く悲しくなった時に、わざと、わざとらしい泣き真似をすることで、その感情をやり過ごすのです。そうしないと本物の悲しい気持ちに飲み込まれてしまうのです。

 かなこさんは「えーんえーんえーんえーん」って毛布を被りながら言いました。少しだけ本当に涙が出ました。そうしているうちにかなこさんは眠りにつきました。



「あの、見学したいんですけども」かなこさんは言います。

「え、志田、今日も?」体育の先生が言います。

 体育の時間がやってきました。不安定が今日も強いので、かなこさんは見学したいとお願いしにいきました。先生は「うーん」と言いました。それから「そんなに休んでいたら、成績悪くなるよ」って言いました。

成績が悪くなるのは嫌でしたが、出ていたとしても、そんなにいい成績にならないしって思いました。

かなこさんは体育館の階段に座って、手すりがある壁に身体をもたれさせました。さっき少しだけ先生に嫌なことを言われたのが、少し響いていました。不安定が強くなっているのを感じていました。

かなこさんは目をつむります。運動靴が擦れる音、ボールがバウンドする音、みんなが叫ぶ音、それから「そんなに休んでいたら成績悪くなるよ」って言葉が聞こえていました。


「志田さん」

 かなこさんは話しかけられて目を開けました。

「はい」とかなこさんは言いました。

 普段、あんまり呼ばれないので、かなこさんはびっくりしていました。この体育の時間ならなおさらでした。一瞬だけでも寝ていたせいか、目が上手く開きませんでした。何度も瞬きをしながら、かなこさんは呼びかけてきた人を見ました。

 同じクラスの望田さんでした。

 望田さんもよく体育の授業を見学していますが、それ以外はかなこさんと違っていわゆるよく出来ている人でした。望田さんは丸い眼鏡をかけていました。かなこさんは望田さんの眼鏡を見て、黒いフレームがシャープでかっこいいなと思いました。

「志田さん、寝てた?急に話しかけて、ごめんね」

「あ、大丈夫、です」

「あの今、大丈夫?」

「うん。全然。寝てただけですし」

「あ、本当、志田さんのことで気になったことあって、あのさ、志田さんってこの前、ドトールにいた?」

 かなこさんの胸が痛くなりました。高校の帰り道にドトールに行っていたことを怒られるんだって思いました。

「え、あ、やっぱ帰り道に行くのってだめなことだよね。ごめんなさい」

「え、あ、違うよ。全然だめとかじゃないよ、私も行ってたし」

「そうなの」

「うん。C組の藤野さんと行ってたんだけども、藤野さん知ってる?」

 かなこさんは首を横にふります。

「私、本当、他のクラスの人、しらなくて」

「全然大丈夫だよ。私も前いた合唱部の繋がりの子で、それはいいんだけども、あの、志田さん、そのとき、なんか集中して絵?凄い集中力で描いてたよね」

「あ、うん、描いてた」

「帰ろうって思ったら、奥にいる志田さんを見つけたから、あ、志田さんだって、挨拶しようと思ったんだけども、ずっと集中して絵を描いてて、凄いね、あんなに集中して。普段と違うからびっくりしちゃって」

「あ、うん。入りこんじゃってた」

「一応、話しかけたんだけども、気づかれなくて」

「え、本当、ごめん。本当、知らなかった」かなこさんは言います。

「全然。いいよいいよ。あれって、なんかに出すやつ?」

「なんかって?」

「そういうコンクール?っていうの?なんかそういうのってあるじゃん」

「全然」

「違うの」

「うん。本当、暇つぶしっていうか」

「そうなんだ」

「うん」

「もしよかったら絵、見てもいい?」望田さんは言います。

「え、あ、うん、うん」かなこさんは言いました。

「えーありがとう、あの、いつでもいいし」

「あ、このあとでも、大丈夫だよ。あ、あの絵描いてたノート、持ってきてるし」

「本当?じゃあ、授業終わったら見せてもらってもいい?」望田さんは言いました。

 かなこさんはうなずきました。


 かなこさんは凄く嫌でした。

絵を見せて望田さんに何て言われるかわからなかったからです。まず人に自分の絵を見せるのもいやでした。人に見せるために描いていたわけではなかったですし、絵を見せて何か意見を言われるのも嫌だったのです。何よりも自分の内蔵を見せるようでとても恥ずかしかったのです。

でも断れませんでした。それどころか自分からノートを持ってきているとも言ってしまいました。知らないふりをすればよかったのに、その瞬間、望田さんに嫌われるのが嫌で、いい顔をする方を選んでしまったことももっと嫌になりました。望田さんと喋ったのなんて、本当数えるほどで、嫌われても全然大丈夫だったのに。

 かなこさんはそれから体育の授業が終わるまでずっと憂鬱でした。死刑執行を待つ死刑囚ってこんな気持ちなんだろうか?と思いました。それから死刑を執行するときは数人が同時にボタンを押して、誰が死刑を執行したかわからないようにしていることを思っていました。誰がわからないって思ってもタイミングがずれて「あ、自分だ」って思う日もあるだろうなって思いました。少しのズレで、嫌な気持ちになる日もあるんだろうなって思いました。



 授業が終わって、みんなが着替えている中、もともと着替える必要のないかなこさんはノートを望田さんに渡しました。

「あの、そのノート、途中までは中二の時に使ってたノートだから、そこは飛ばしてくれたらいいから」って言って渡しました。

 望田さんはノートをめくります。望田さんは言われたように中二の時に使っていた部分は飛ばして、絵が描いてあるページを見つけました。

 望田さんは驚いた表情を見せました。

かなこさんは「うわー、描いてあることに引いてるんだろうな」って思いました。

 後悔しました。かなこさんはそれと同時に望田さんの丸い眼鏡の奥のまん丸な目を見ていました。

 望田さんは一ページをじっくり見たあとに、ページをめくりました。ページをめくるたびに様々なバリエーションの驚いた表情を望田さんはしました。

 かなこさんは驚く表情ってこんなに違いがあるもんだなあって思っていました。

 何ページが見たあとに望田さんが口を開きました。

「これって、全部志田さんが描いたんだよね」

「うん」

「なんか見たりして?」

「たまには見るけども。パーツとか漫画の一部とか」

「それはページの全体?こういう漫画があるの?」

「え、全体?」

「全体的っていうか、こういうデザインとかは、何か、見て描いてるの?」

「ううん。特には何も」

「え、凄いじゃん」

「そんなことない。それこそこういうのよくあるし」

「そうなの?」

「たぶん、あったと思う」

「でも、うーん、なんだろう、あったとしても、これは凄いと思う」

 望田さんはかなこさんにノートを返しました。

「志田さんって絵、得意なんだね」望田さんは言いました。

 かなこさんはノートを受け取りました。

「あ、ありがとう、ございます」かなこさんはぎこちなく頭を下げました。

次の授業が始まるのでかなこさんは席に戻りました。その日は何度か望田さんのその言葉を思い出しました。何度か思い出して、かなこさんは自分って絵が得意だったんだ、と思いました。




 それから10年が経ちます。かなこさんは27歳になっていました。

かなこさんは今でも絵を描いていました。絵を仕事にはしていませんでしたが、生活の中で絵を描くのは続けていました。

あれから10年の間、かなこさんの人生にはいろいろなことがあって、いろいろな日があって、なんにもないような日々もあって、何かがありすぎる日もありました。

いろんな人に出会って、いろんな人と別れて、多くの場所に行ったり、多くの時間を特定の場所で過ごしたりしました。

沢山の良いこともあれば、沢山の悪いこと、それから絶えず不安定もありました。

かなこさんはかなこさんの時間を生きていきました。

そんな時間を生きていく中で、かなこさんは時間を作ってはまた絵を描いていました。何かを思うように、何かを吐き出すように、何かを考えるように、何も考えないように絵を描いていました。

 27歳のその日、かなこさんはまた色々と考えを追いかけているうちに、10年前のことを思い出していました。

 何にもうまくいっていなかった頃でした。正確には何度目かの上手くいっていない頃の一つでした。

 かなこさんはよく体育の時間を休んでいたことを思いだしました。

 そしてある時、見学をしていたら突然望田さんに話しかけられたこと、それから望田さんに授業を終わってからノートを見せたことを思い出しました。

「志田さんって絵、得意なんだね」

 望田さんはそう言いました。



 かなこさんは望田さんにあのとき「絵、得意なんだね」って言われていなくても、多分絵は描いていたのだろうと思います。

 でも、望田さんにそう言われたことは、10年前から今に至るまで、絵を描くことを少しだけ前向きにさせました。

 望田さんとは、それから少し仲良くなりました。何度か学校終わってからドトールに一緒にいったこともあります。C組の藤野さんと三人でドトールに行ったり、遊んだこともありました。

 でも高校を卒業してからは会わなくなりました。いつか会おうって言いながらも、気がつけば会わないままでした。

 望田さんが今どうしているか、全く知りません。寂しいですけども、そういうものだと思うのでした。



 絵を描いていることで、望田さんとは仲良くなりました。でもそれも長くは続いたわけではありません。大きく見れば一瞬だけのつながりだったのかもしれません。

 それから絵を描いていることが、学校の生活を大きく変えることも、大きく生活を変えることも、その後のかなこさんの人生の何かを決定づけることはありませんでした。

 でもただそこに居続けました。

 10年間もただそこに、絵を描くことがあったのです。

 かなこさんの10年に、絵を描くことは。



 10年後の27歳のかなこさんもドトールに行きます。職場の近くだったり、家の近くだったり。あの頃とは違う場所の違うドトールに行きます。別にそれ以外の喫茶店も行くようになりましたし、好きな場所やお店も増えました。でもなんだかんだでドトールに行ってはそこでまた考え事を追いかけます。しばらくするとかばんから手帳を取り出して、そこに絵を描くのでした。

 今日は驚いた顔をする丸い眼鏡をかけた女の子を描きました。そこに「絵、得意なんだね」って吹き出しをつけました。

 それからかなこさんはその隣に照れた表情の猫を描き添えるのでした。

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あなたが忘れている言葉で 両目洞窟人間 @gachahori

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