EP.36

 最後の一音が夜に溶けた。耳にこびりつく歌声の残滓ざんしも、ビョウビョウと吹く風が洗い流す。背後から回された腕が力なくほどけた。温はどんな顔をしているのか。気になりながらも、解は振り向くことが出来ずにいた。このまま去ってしまおうか。解が思った時だ。背後で、鈍い音がした。


「……はる?」


 返事は無い。振り向けば、麦畑が波打っていた。ただ、夜の闇が広がる。


「温!?」


 辺りを見渡すと、遥か前方に、黒い影が見えた。眼を凝らすと、どうやら人らしい。何か大きなモノを背負っている。


「温!」


 解は駆けだした。麦畑をなぎ倒し、最短距離を全力で走り抜ける。それでも、影はみるみる遠ざかる。解が息を切らしながら校舎に飛び込んだ時には、人影は無かった。

 雪村温がさらわれた。

 心臓が痛いくらいに脈打つ。

森都に来てすぐ、宮藤は言った。


「正体とは? 君は「大島大洋」だ。それ以上でも、それ以下でもない。しかし、まあ、君があまり、妄想を垂れ流すようであれば、それは不幸なことになるだろう」


 温が攫われたのは、自分が「大島大洋」でないと、明かしたからなのか。


「温!」


 叫びながら、解は校舎を駆け回る。

 何処に向かえば良いのか、何処に向かっているのか、自分でも分からなかった。ただ、止まっていられなかっただけだ。校舎に残っていた生徒が、何事かと廊下に顔を出す。解はそんな事は気にも留めず、汗で顔をぐちゃぐちゃにしながら、走り続ける。

 やがて、気持ちに身体が付いてこなくなった。足がもつれ、廊下に転がる。ろくに受け身も取れなかった。痛みと共に、リノリウムの冷たさが肌に伝わる。解は床に手を突いて、軋む身体を起こした。その時だった。


「落ち着きたまえ」


 聞き覚えのある声がした。


「……先生?」

「大洋君。酷い顔だ」

「先生! 温が!」

「とにかく、ここは人目に付く」


 まだ花火が終わったばかりで、多くの生徒が校舎に残っていた。今も、遠巻きに様子を伺っている。ゆず葉は解を人気の無い階段の踊り場まで連れ込む。


「何が有った? 話してみたまえ」


 解は荒い息で、たどたどしく、温が居なくなった経緯を話す。 


「――――それで、君は自分の正体を、雪村君に話したのか?」


 解が頷く。


「うかつだったな……」


ゆず葉が呟きながら、前髪をくしゃくしゃと揉む。


「どうして私がここに居るか分かるか? 君は変換杖で鍵を開けただろう? 使用ログが送られて来た」


 非常時以外、変換杖による開錠は禁止されている。だからゆず葉は、解を懲らしめる為にここに駆け付けたのだ。


「君はね、監視されているんだ。当たり前だろう。君は「大島大洋」なんだ。唯一の枝枉の適応者だ。当然、理解しているものだと思っていたが。私が甘かったよ……」


「温は、どうなる?」

「死ぬだろうな」


 シヌダロウナ、という音が「死ぬだろうな」という言葉に変換されるまで、数秒を要した。


「死ぬって、どうして?」

「君の秘密を知ったからだ」

「殺すほどのことなのか!?」

「最重要機密だ。雪村君はそれを知った。しかも、彼女はメディアに露出する機会が余りに多い。生かしておく理由が無い」


 死体になった温。そんな情景が解の脳裏をよぎった。歌う事はおろか、笑う事もない。「大島大洋」に伝えられなかった思いを胸に、冷たくなった彼女は、彫刻のように横たわる。


「俺のせいだ……。全部……」


 星零の歌姫。その美しい歌声で、多くの人に希望を与えた。解だってその一人だ。そんな彼女の十六年の人生が、こんな終わり方であって良いのか。


「助けないと」


 解が言った。

 しかし、ゆず葉の表情はいつになく厳しい。


「無理だ」


 彼女は言う。


「森都は変換杖を隠す為に存在する。雪村君を助けるという事は、森都を敵に回すという事だ。枝枉が一本有ったところで、敵うはずが無い」

「それでも、行かないと」

「よせ。死人が増えるだけで、意味の無い行為だ」

「良いよ。温の為に死ぬなら」

「馬鹿な! それは雪村君を死なせることに対する責任感か? 自分も死ぬのが筋だとでも? だったら止めておけ。雪村君に関して君に責任は無い。確かに、正体を明かしたのは君だ。しかし、そもそも君が正体を隠さなければいけない状況が間違っている。悪いのは全て、複製など造り出した、この世界だ」

「だったら、余計に行かないと」

「何故だ!?」

「間違った世界のせいで温が死ぬなら、それこそ、もっと間違えてる」

「……そうか」


 何を語っても無駄だという事は、解の顔を見れば分かった。


「断じて、許容することはできない」

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