EP.33


 多摩川下流部。河口まで数キロという地点で解たちはボートを降りた。歩くこと十数分。旧地下鉄第二京浜けいひん線、西馬込駅。ここに地下通路の入り口がある。ツタに覆われて半ば隠された隔壁を開けると階段が現れる。それを降りると、真っ白い地下通路が伸びていた。

 打合せ通り、一台の装甲車が止まっていた。それを十数分も走らせれば、やがて森都に辿り着く。

 三人はすぐに森都総合病院へ移され、二時間ほど検査を受けた。リツが採血中に眠りかけて、医師が驚いていた。


「何故、眠れるのです……」


 リコはあきれていた。そうは言っても誰もが疲れきっていた。森都から青梅湖まで往復百キロ。道なき道を踏破し、異常進化生物を切り結んだ。疲れていないはずが無い。解も検査が終わると、すぐに泥のような眠りに落ちた。




 解が目を覚ましたのは、次の日の昼過ぎだった。コーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。


「おはよう。ダーリン。コーヒーが入ったよ」


 そんな寒いことを言う三十路が居た。ゆず葉はマグカップをサイドテーブルに置くと、自分もベッドに腰かけ、湯気の立つコーヒーに口を付ける。


「先生。検査結果は?」

「大した傷じゃない。全身打撲と、若干右腕を痛めているだけだね。今すぐでも退院できる」


 解もコーヒーを一口飲む。


「そうか」

「あれだけの任務をよくやり遂げた。私は君を誇らしく思う」


 そう言ってゆず葉は、解の頭を撫でる。疲れも眠気もまだ抜けていない。振り払うのも面倒で、解はされるがままになっていた。ふと、ゆず葉が言った。


「そうだ。結果と言えばこっちも届いていたんだ」


 彼女は、白いA4サイズの封筒を解に渡した。中身は、任務の数日前に受けた期末テストの結果だ。


「どうだった?」


 訊いたのは解だ。


「知るわけなかろう」

「見たんじゃないの?」

「主治医にそこまでの権限は無いさ。ほら。開けてみたまえ」


 解が封を開ける。中にはA4の紙が一枚きり。解はそこに印刷された無機質な表を、上から下に眺める。もう一度、眺める。


「どうだった?」

「……悪くない。いや。良かった」


 どれどれ、とゆず葉も覗き込む。


「うん。なかなか良いじゃないか。付け加えておくと、森都は教育にも力を入れている。防衛科といえレベルは低くない。君は良くやったよ」


 解は少し、気恥ずかしそうに言った。


「みんなのおかげだよ。みんなが、助けてくれたから」

「その言葉が自然に出てくるなら、君は大丈夫だ」


 ゆず葉はそう言って、解の髪をくように撫でる。


「そうだ。頑張ったんだから、ご褒美が必要かな?」

「別に要らない」

「ちなみに今、白衣の下は何も着てないよ」

「はあ!?」


 近寄ってくるゆず葉を解が押し退けた。勢い余って彼女がベッドに倒れる。


「い、いきなり、大胆だな」


 ゆず葉が言う。 


「顔を赤くするな!」


 そう叫ぶ解の顔の方が、真っ赤だった。その様子を見ていたゆず葉は、腹を抱えて、身体をくの字に曲げながら苦しそうに笑う。涙を拭いながらゆず葉は言った。


「……くくく。全く。そんな訳ないだろう。何を慌てているんだ」


 彼女が白衣のボタンを外すと、白いブラウスと、黒いスカートが現れる。


「……あんたなら、やりかねないと思った」

「君は私を何だと思っているんだ」

「変態」

「失敬な! ……ともかく、これで今夜は気兼ねなく出かけられるな」

「今夜? 何の事だ?」

「忘れたのか?」


 ゆず葉がカーテンを開ける。


「見たまえ」


 窓からは森都を見下ろせば、通りの左右に真っ赤な提灯が連なっていた。柱にも色とりどりの装飾が施されている。


「これは、ささやかながらご褒美さ」


 ゆず葉が差し出す紙袋を開けると、中から青い甚平じんべえが出てきた。


「あ、夏祭り」



 ◆


 森都は天井を屋根で覆われているため、季節の変化を感じにくい。そこで、時候に合った催し物をするのだという。

 道の両脇に並んだ出店のせいで、商店街は余計に狭くなっていた。それなのに人は普段より多い。行き交う人々は、浴衣や甚平じんべえを着こなしている。吊られた提灯に火が灯り始めた。解はその喧騒を足早にすり抜ける。時折、「大島大洋」に気が付く人もいたが、祭りの熱気と人混みが彼を隠す。

 開けた場所に出た。

 森都の中央には人造の湖が有る。その湖の周囲に森都中央公園は有った。湖を一周する周回道路は、普段はランニングや散歩をする人で賑わっていたが、今日は出店と提灯が並ぶ。そこから漏れだす色とりどりの光が湖面に写り込み、あいまいな像を結ぶ。幻燈げんとうのようだ。

 解が待ち合わせ場所に着くと、既に大方のクラスメイトが集まっていた。しかし、今日に限って、男子と女子は二つのグループに分かれている。そのくせ、お互いにチラチラと様子を伺っている。理由は明白。彼女たちが浴衣姿だから。中には、甚平姿の少年も居た。照れてしまって、お互いに話しかけられないのだ。

 その時、犬養いぬかいが解を見つけた。


「おい、大洋! 遅いぞ!」


 その声を聴いて、少年少女たちが解の周りに集まる。解に話しかける、という理由のおかげで、ようやく男女の敷居が無くなる。

 不意に、解は甚平の袖を引っ張られた。振り向くとリツが居る。


「どう?」


 白地にアジサイ柄の浴衣。彼女は両手を中途半端に伸ばし、戸惑いながらその場でくるりと回る。足元に覗くのはやはり黒いブーツ。


「……う、うん。似合ってる」 


 解はドギマギしながらそう返す。


「これ、お揃いなんですよ」


 隣のリコが言った。彼女の浴衣も白地にアジサイ。ただ、リコのアジサイは、姉のそれより色が濃い。紺青だ。


「似合ってる」


 解は繰り返す。何か気の利いた事を言いたかったけれど、あいにく、彼はそんな語彙を持っていなかった。解は気まずくなって次の話題を探す。


「そ、そう言えば温は?」


 途端に、姉妹の表情が曇る。


「二言目には「温」ですか? 浴衣の女の子が目の前に居るのに?」


 リツも無言で解をにらんでいる。


「……ご、ごめん」


 リコがため息を吐き、それから、半ば呆れた様子で言った。


「まあ、良いですけどね。女心も忘れてしまいました?」

「多分……」

「嘘ですね。元々、知らなかったでしょう」

「今の質問は意地が悪くないですか?」

「仕返しです」


 リコがにやりと笑った。

 ちなみに、温は野外ステージで歌っているらしい。終わり次第、解たちに合流する予定だとか。


「おーい、お前ら。そろそろ行くぞ」


 犬養が言った。解たちは、何となく集団になりながら祭りを見物する。何処からか、太鼓と笛の音が聞こえた。出店からほんのりと漂うソースの匂い。ふと、バムバムと妙な音がする。見れば、リツがヨーヨーを突いていた。小さなゴム風船に水を入れたアレだ。色とりどりのそれを、リツは山のように抱えていた。


「一個あげる」


 そう言って解に渡す。


「あ、ありがと」


 リツは取りすぎてしまった在庫を、クラスメイトに押し付けている最中らしい。


「大洋くん」


 リコの声がして振り向けば、眼前にもこもこした白い塊が現れる。解がぎょっとすると、その白い塊がひょいと退いて、後ろからリコが顔を出した。


「綿あめですよ。食べます?」


 リコは、自分が食べていた方とは逆側を、解に差し出した。解が齧ると、砂糖の雲はすぐに溶けて消えた。まとわりつくような甘ったるさが口の中に残る。


「凄いな……」


 喧騒を見渡しながら解は言った。絢爛とした祭りの様子に、ここが「森」の中である事を忘れてしまいそうになる。


「今年は特別、派手だけどな」


 犬養が言った。


「なんで?」


 解の問いに、むしろ犬養がきょとんとした。


「何言ってんだよ。お前らのせいだろうが」

「俺?」

「青梅湖!」


 解が森都を水没から救った事は、彼が一日、眠っている間に森都を駆け巡ったらしい。


「お前はさ、プレッシャーとか無いの?」


 犬養は屋台を物色する風を装いながら、解の方は見ずに訊いた。


「でも、それが俺の役目だから」

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