EP.32


 解は引き上げなられながら、上空を見た。

 そして、呟く。


「勝ったよ」


 黄色い刃の正体は硫黄いおう。その刃がトンボに触れた瞬間、解は硫黄の結晶構造を操り、刃の形を変えた。硫黄はツタのようにトンボに絡みつく。同時に、刃と変換杖の接続を切り離す。瞬間、内蔵された発火装置が作動した。

 硫黄の英名は、ラテン語で「燃える石」に由来する。トンボに絡みついた硫黄は、その名に違わず轟々と炎を噴き上げる。それでも怪物は翅を震わせ、懸命に空を目指す。その翅さえも燃えていた。先端から塵となり、風に吹かれて散る。


「大洋くん。怪我は!?」


 気づけば、リコとリツが隣に居た。


「大丈夫。二人は?」


 リコは既に半泣きのようになっていた。


「馬鹿!」


 解に抱き着く。リツも無言で解に引っ付いていた。


「あんな無茶、二度としないでください」


 嗚咽おえつ交じりに、リコは言う。

二人に抱きしめられながら、解はぼんやりと上空を眺めていた。

 青い空。

 トンボは赤々と燃える炎に包まれながら、花が散るみたいに、ポトリと湖面に落ちた。水面が慌ただしく波打つ。魚が群がってトンボをむさぼっているのだ。

 数分後、巨大な虫は跡形も無く消えた。

 湖面には波紋が残るばかり。 



 ◆


 その後の仕事は順調だった。ダムの上に戻ると、解は変換杖を足元のダム壁に接触させた。この世界で大概のモノは結晶になり得る。適切な条件さえ整えば、複雑なDNAですらも結晶になるのだ。つまり、結晶構造を操る枝枉は、世の中のほとんどのモノに干渉できる。

 ダムが枝枉と触れている。そして、その枝枉を解が握る。巨大なダム壁は、解の手の上に在ると言っても良かった。

 ケイ素、カルシウム、炭素、酸素、硫黄。ダムを組み上げる無数の原子が、解が思い描くままに整列する。巨壁のど真ん中に直径一メートルほどの丸い穴が空いた。水はその穴から、轟々と音を立て吐き出される。吐き出された水は滝となり、地に落ちる。その振動が腹の底に響く。


「枝枉がどうして最強なのか、理解したよ」


 解は言いながら、この事態を引き起こした武器を腰に収めた。これで上流の奥多摩湖が決壊したとしても、青梅湖が壊れることはないだろう。


「はあ……」


 解は両手足を投げ出して、ダムの上に座り込んだ。水飛沫が風に巻き上げられて、ここまで届いた。それが火照った身体を冷やす。心地よい。


「大洋! 虹だよ!」


 リツが言った。


「本当だ……」


 滝が撒き散らす水飛沫が、ダムの上に虹を架けていた。

 その時、リツがおもむろに上着を脱いだ。袖を腰のところで結び、スカートのように纏う。彼女は両手を広げて水飛沫を浴びながら、くるくると回る。回りながら笑う。

 濡れたインナーが肌に張り付き、彼女のほっそりとした肢体の輪郭が、青い夏空を背景にくっきりと浮かぶ。はしゃぎまわるリツを眺めていると、突然、視界が真っ暗になった。


「大洋くん。鼻の下、伸びてません?」


 リコが後ろから手を廻し、解の眼を塞いでいた。


「え、いや、そんなはずは!?」


 解の慌てぶりに、むしろリコの方が驚いていた。


「冗談だったのです……」


 解が固まる。


「お姉ちゃんに見惚みとれるということは、私にも見惚れるということですよねぇ?」

「え?」

「だって、見た目は同じですから。双子なので」

「あ、そうか……」

「安心して見惚れて良いのですよ。はるには言わないでおいてあげますから」


 そう言ってリコは笑った。駆けだした彼女も、既に上着を脱ぎ捨てていた。リツと一緒に水飛沫を浴びてはしゃぎまわる。


「にわか雨が降らねえんだよ!」


 いつか教室で、犬養いぬかいは悔しそうに吠えていた。

 なるほど。彼はこういう光景が見たかったのかもしれない。解はそんな事を思った。

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