EP.31
「嘘でしょう……」
リコの口から、そんな言葉が漏れた。
解は短く息を吐いた。目を逸らしたくなる現実を前にしても、解は淡々と、迫り来るトンボを見据えていた。
一歩、踏み出す。
解の背中を押したのは勇気ではなかった。
義務感。
握ったその変換杖が、かつて「大島大洋」が振るったその刃が、お前は英雄なのだと一方的に告げる。そして、その声に背くわけにはいかない。何故なら、それこそ、解が生きている理由だったから。
解はタングステンロッドを取り出すと、変換杖に繋いだ。
そして、ただ、前を向く。
迫りくるトンボを見ていた。
リコは、そんな彼の背中を見つめていた。枝枉に繋がれた銀灰色のロッド。それが鈍く光る。何て痛々しいのだろう、とリコは思う。彼女はずっと、「大島大洋」は特別に強い人なのだと思っていた。
しかし、彼は記憶を失くしてしまった。
英雄に関する記憶ばかりを。
まるで、英雄で有る事を拒否するかのように。
記憶を失くしたところで、それでも彼は英雄を辞めることなんてできない。彼が呼吸を続ける限り、その遺伝子が、右手の枝枉が、「大島大洋」で有る事を証明し続ける。
考えてみれば、死ぬのが怖くない人間なんて居ない。バケモノと戦うよりは、暖かい布団で丸くなっている方が良いに決まっている。それはきっと「大島大洋」だって同じだ。
リコにはそれが見えていなかった。
見ようともしなかった。
彼は強い人なのだと、勝手に思っていた。
リコは彼の真横に並ぶ。
そして、言った。
「大洋くん。大丈夫です。私も居ます」
隣に居ます、と心の中で呟く。せめて貴方の辛さを、少しでも減らせるのなら。そんな祈りを込めて彼の隣に立つ。
「大洋。私も居るから」
ふと、そんな声が聞こえた。
見れば、「大島大洋」の隣には、自分の姉も立っていた。
それが頼もしい。
「太洋くん。私たちが居ます」
リコは言った。
解は姉妹の声に振り向かず、ただ、頷いた。
左右に並び立つ姉妹は「大洋」と名前を呼ぶ。
そうだ。
俺は大島大洋。
変換杖・枝枉の遣い手にして、森都の英雄。
そして、「
それが、俺だ。
自分は何者か、解は心の中で繰り返す。
迫り来るトンボ。
解は変換杖を振るう。
刃を格子状に張り巡らせ、追い返す。しかし、いつまでも均衡は続かない。霧状に展開したタングステン原子は、いずれ風に吹き散らされて拡散してしまう。既に二本目のタングステンロッドを消費していた。
「リコ。リツ。作戦が有る」
解が早口で語るそれを姉妹はすぐに理解した。そして、一切の迷いも無く実行に移す。
リコは月華を起動。光を束ね、トンボ目掛けて投射する。複眼を持つトンボに錯覚を見せる事は叶わない。
トンボは蛇行しながらも、着実に距離を詰める。
しかし、解にはその時間で十分だった。
枝枉を自らが乗る氷塊に触れさせ、氷の足場をテニスコートほどの広さに拡大する。さらに、自分達の左右に一枚ずつ、氷の壁を成長させる。盾ではない。むしろ、その逆。トンボの進路を限定するためだ。解たちを挟むように氷壁が有れば、トンボはその間を通らざるを得ない。
「あとは、タイミング勝負だ」
多分、と解は心の中で付け足す。
「リコ。もう良い」
リコが光の投射を止める。鬱陶しい光が無くなったことで、トンボは直線飛行に戻った。水面ギリギリを滑るように翔ける。気づいたときには、トンボは氷の足場に差し掛かかっていた。
「リツ! 今だ!」
リツは左足だけで立っていた。右脚を足の裏が天を向くほどに高く上げている。その脚の周りの空間が揺らめいていた。それは
高温の右脚を、リツは氷塊に振り落とした。
その熱で、氷塊の表面が瞬間的に蒸発する。表面積を増やすため、氷にはタングステンブレードで切れ込みが入れてあった。そこから水蒸気が爆発的に噴き出す。
視界が真っ白に染まる。
トンボの複眼も効力を失う。
それは解も同じだ。
しかし、氷の壁のおかげで、トンボの飛来する方向は分かっている。
だから、ここでタングステンブレードの網を展開すれば、トンボは避け切れない。
甲高い、澄んだ音が聞こえた。
翅と刃が交錯する音。
そして、周囲を砕けた刃が散乱する。
姉妹は頭を抱えて伏せる。
その頭上を高速で刃が飛び交う。
やがて、音が止んだ。
その時には霧も晴れていた。
リコは恐る恐る顔を上げ、周囲を見渡す。
トンボの死骸が見当たらない。
「ダメです!」
リコが叫んだ。
確かに、トンボは傷を負っていた。しかし、致命傷ではなかったようだ。体液を垂らしながらも、折れた羽で上空へ飛び上がる。そのまま空中で静止する。時折、よろめきはするが、リコたちにとって、それがまだ脅威であることに変わりはなかった。
「大洋くん」
リコが呼ぶ。
彼女に何か策が有ったわけではなかった。
ただ、彼の名前を口に出していた。
しかし、その彼は居なかった。
突如、湖上に氷の柱が突き立つ。
空へと斜めに突き出したそれは、氷の階段だった。
「リコ! 大洋が!」
リツが指さす。
見れば、氷の階段を解が駆け上っているところだった。
その階段は、枝枉で、水分子を配列させて作り上げた巨大な結晶だ。
当然、支柱は無い。
巨大な構造物は重力に引きずられて、ゆっくりと傾いていく。
しかし、解はそれよりも早く氷柱を伸ばし、駆け上がる。
自分は英雄なのだ。
森都の英雄、大島大洋。
だから、彼は踏み出す。
踏み出さなければならない。
階段は次第に細くなる。
その先は青い空。
跳んだ。
空中で新たなロッドを枝枉に繋ぐ。
瞬間、新たに鮮やかな黄色の刃が展開された。
眼前。
空中に浮かぶ巨大な敵。
解は
変換杖を振り抜く。
刃は青空を滑るように切り裂き、そして、切っ先がトンボに届く。
その刃で、トンボの細長い胴体を撫でる。
瞬間、刃が形を変える。
網のようにトンボに絡みつく。
そして、そこが頂点だった。
そのまま解は落ちる。
ドボン、と湖面に水柱。
それもすぐに消え、後には円状の波が残るばかり。
「大洋くん!」
リコは叫ぶ。
リツはすでに湖に飛び込んできた。
そのまま水を掻き分け、解を回収に向かう。
迫る巨大魚を、リコが拳銃でけん制する。
一発、当たったらしい。
魚が巨体をくねらせる。
その波に煽られながらも、リツは解を氷に引き上げた。
解は引き上げなられながら、上空を見た。
そして、呟く。
「勝ったよ」
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