EP.30

『……そんな生物、空飛ぶ名刀じゃないか。冗談にしても悪趣味だぞ』

 

 その間にもトンボは向きを整え、三回目の突撃に入ろうとしていた。そのはねが水晶製であるなら、まともに受け合うのは分が悪い。


「リコ。月華は?」

「ダメです。複眼に錯覚は見せられない」


 トンボの複眼ふくがんは数万の眼から成る。その全てに入る光子を制御することは、変換杖といえども、不可能だった。


『ダムに飛び込め!』


 その時、ゆず葉が叫んだ。

 三人の行動は早かった。

 水面まで十メートルの高さを躊躇ためらいなく踏み切る。しかし、トンボも隙を見逃さない。重力に引かれて緩やかに落ちる解に迫る。体勢を崩しながらも解は変換杖を振った。展開された刃をトンボは易々と避ける。しかし、十分な時間は稼ぐことができた。

 着水。

 ずぶずぶと暗い湖底に沈んでいく。見上げれば水面は青く光っていた。解は夢中で手を掻き、足をばたつかせ、上を目指す。頭が水面を突き破った。リコとリツも、水面に顔を出した所だった。三人は大きく口を開け、胸一杯に空気を吸い込む。

 こんな無防備な三人をトンボは襲おうとしなかった。上空を緩やかに旋回するばかり。


「どうして?」


 その疑問に、ゆず葉が答えた。


『トンボは高速で獲物に近づいて、六本の脚で抱きつくようにして捕らえる。あの速度に加え、あれだけの巨体だ。水面の獲物を捕らえようと思ったら、水に脚なり翅なりを取られて、バランスを崩して墜落する』

「そんな適当な……」

『進化は無秩序なんだよ。闇雲にバリエーションを増やしてみて、上手くいった者が生き残る。それの繰り返しさ。牙が大きすぎて亡んだ獣のようにね。大きくなりすぎたことがあだになったようだね。彼も、やがて滅びゆく種族なのかもしれない』


 きっと、この「森」にはそんな生物が幾らでも居るのだろう。人知れず生まれ、人知れず死んでいく。

 解たちは仰向けに浮きながら、孤を描いて飛ぶトンボを眺めていた。青い空を背景にしても、瑠璃色の昆虫は、なお青い。危険さえ無ければ美しかったのだろう。畏敬の念と言うのだろうか。そんな感情さえ抱く。


「ひゃいっ!」


 突然、リコが悲鳴を上げた。


「な、何かが、私のお尻を!」

「大洋?」


 リツが疑惑の目を向ける。


「違う!」

「触りたいなら、言ってからにしなよ」

「だから違うって!」

「痛っ!」


 リツがお尻を抑える。

 不審に思った解は水に潜る。眼を開けばぼやけた視界の中、無数の流線形の物体が高速で行き交っている。


「魚だ!」


 頭を出すなり解が叫んだ。

 トンボとの戦闘で負った浅い切り傷。そこから漏れたわずかな血液。彼らは、それを嗅ぎつけた。魚が渦を巻き、その中心に解たちが取り残される。

 ノコギリのような歯と、刺々しいヒレが、この魚たちがスズキ科であることを物語っていた。日本の淡水に生息するスズキ化の魚と言えば、代表的な種はブラックバスか。「森」が東日本を覆う以前から、各地の生態系を乱していた外来種は、より獰猛さを増していた。

 群れは渦を巻き、その中心に解達を閉じ込める。時折、渦から数匹が飛び出し、解たちに喰らいつく。さながら凶暴なペンチの群れだった。そのペンチの群れが解たちをついばむ。


『グレネード! 壁だ!』


 ゆず葉が叫んだ。

 姉妹はすぐに理解した。リコは意を決して水に潜る。顔にまで集るブラックバスを追い払いながら、リツの足元に回った。そのまま、バレーボールのレシーブの要領で、姉の足裏を受け止める。そして、リツが思い切り蹴った。反動でリコがズブズブと水に沈み、反対にリツが水面から飛び出す。


「リコ。上出来」


 空中でリツが言った。彼女の手には手榴弾。安全ピンは既に抜かれていた。

 投擲とうてき

 その黒い円筒は四十五度の綺麗な放物線を描き、数十メートル先、ダムの壁面に着弾した。

 轟音。

 噴き出した爆炎が、波打つ水を赤々と照らす。破片が水面に、雨の如く突き刺さった。余りの音と衝撃に、解の心臓がバクンと跳ねた。


「……何が?」

 

 最初、解は状況を呑み込めないでいた。しかし、辺りを見渡してみると、ブラックバスは白い腹を上にして、次々と水面に浮き上がる。ピクピクと動いているのを見ると、死んではないらしい。

 魚類は、主に側線という器官で音を聞く。名前の通り、エラから尾にかけて、身体を横切るように伸びる線だ。言うなれば、魚は全身が耳のような生物なのだ。だから、外敵の存在を巧みに感知する。一方で、こうした衝撃には滅法弱い。強烈な爆発がダムの壁面を揺らし、その衝撃が水にも伝わった。結果、魚たちは気絶したのだ。


「さあ、今のうちに」


 リコに促され、三人は岸に向かって泳ぎ始める。腕で水を掻く度、気絶した魚に触れる。そんな惨状だった。時折、バチャバチャと飛沫が上がる。気絶して動かない魚など、肉の塊と同じだ。それを喰らいに、他の魚が集まって来た。生臭い血の匂いが漂う。


「急ごう」


 解が言った。

 その時だった。岸へと向かう三人の真下に、巨大な黒い影が浮かび上がった。それは、潜水艦もかくやというほどの巨大魚。水面に浮かぶ魚に釣られて、水底から浮かんできたのだ。最早、逃げられないことは明白だった。


「大洋くん!」


 リコが叫ぶ。


「分かってる!」 


 解は変換杖を抜いていた。

 揺らめく水分子。無秩序に動き回るそれを「秩序」のもとに整列させる。高い澄んだ音と共に、水面に氷塊が出現した。リツがすかさず飛び乗り、解とリコを引き上げる。

 解の足の裏が水面から離れた、瞬間、怪魚は巨体を横に倒しながら、大口を開けて水面を攫った。生きているモノも、死んでいるモノも、見境無く胃袋に流し込む。その地獄のような光景を、三人は氷の上から眺めて居た。


「助かりました……」


 リコは氷の冷たさも忘れ、ペタリと座り込んだ。濡れた髪が額に張り付いている。リツも同じく、手足を投げ出すようにして座り込んだ。しかし、解はそんな彼女たちを顧みることも無く、立ち上がった。


「いい加減、しつこい……」


 顔にまとわりつく水を手の平で拭いながら、うんざりした調子で言った。

空を見上げる。

 トンボ。

 その瑠璃色の怪物は、まだ解たちを諦めていなかった。ずっと空で待ち構えていたのだ。解たちが氷の上に乗ったことで、再び襲えるようになった。

 トンボは一直線、解たち目掛けて飛ぶ。

 広がる湖面。

 点のような氷の上。

 空にはトンボ。

 水の中には、潜水艦のような怪魚。

 逃げ場は無い。


「嘘でしょう……」


 リコの口から、そんな言葉が漏れた。

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