EP.24

「大洋くん! もう良いのです!」


解の手から変換杖が零れ落ちる。彼はリコに身体を預けるようにして、気を失った。


「もう、大丈夫、だから……」


 解を支えながら、リコは言った。




「死にはしないだろう。死ぬほど重傷だが」


 ゆず葉の言葉に、リコは安堵あんどのあまり立っていられなくなった。

リコ自身は結局、ただの脳震盪だった。CT像を見ながら、


「問題無さそうだ」


 と、ゆず葉が下す診断が酷く恨めしかった。肝心のところで大洋くんを守れなかった、という自責の念。自分が呑気に気を失っている間、大洋くんはどんな思いをしていたのか。悔しさばかりが募る。

 一方、リツは内臓に損傷を負ったものの、命に別状は無いらしい。実際、あの後、意識を取り戻した彼女は、森都まで自力で歩いた。幸いなことに、あれ以降、異常進化生物と出くわす事も無かった。

 VIP病室のベッド。意識が戻らない解は、管に繋がれて眠っていた。


 頭に包帯を巻いたリコが、その傍らの椅子に座って解の寝顔を見守っていた。

「リンゴ食べたい」


 ふと、リツが言った。

「……ダメですよ」


 リコが呆れながら答える。

 解の隣のベッドに、リツは寝ていた。


「大洋と同じ部屋じゃないと嫌だ」


彼女が頑なに主張したため、二人には同じ病室が宛がわれた。内臓が傷ついたとは思えない食欲で、リツはリンゴを要求する。

 時刻は夜の九時。普段であれば、夕食を終えてくつろいでいる頃か。病室には重い空気が立ち込めていた。暗めに設定した照明のせいだけではない。


「「おう」の意味を知っていますか?」

 

ふと、リコが呟く。


「オウ?」

「大洋くんの、変換杖の」

「知らない」


リコも分からなかった。それで、辞書を引いて、愕然がくぜんとしたのだ。


「いわれなき罪」

「何、それ?」


 リコは目を伏せる。彼女も、何故そんな名前を付けたのか疑問だった。変換杖は全て、「森」の最初の一本である、「木」の枝から造られている。十六振り存在する変換杖の中でも、最強の一振りが枝枉しおう。「木」の中の「王」だから「枉」。リコは最初、そう考えていた。だけど、違うのかもしれない。


「大洋くんは記憶を失くしましたよね?」

「うん」

「でも、全てではない」


 実際、記憶喪失に陥った人間が、全ての記憶を失くすとは限らない。一部の記憶だけが消えるという事は起こる。その結果、靴紐の結び方は覚えていても、恋人の名前が思い出せない、といった事態が起こり得る。


「大洋くんは、例えば、カレーとか、トランプとか、テレビは覚えていました。彼が忘れたのは、「森」、森都、異常進化生物、変換杖、そして、私たちのこと。……森都の英雄という、大洋くんの役目に関わることばかりなのです」


 解の寝顔。額が汗で湿っている。リコはハンカチで、そっと拭った。


「……辛かったのでしょうか」

「辛い?」

「英雄で在ることが。……いつもは明るく振る舞いながら、本当は辛かったのかもしれません。……いえ。辛くないはずが無い。だから、大洋くんは変換杖に関する記憶ばかりを失くしたのです」


 それでも彼は、英雄で在る事を止める訳にはいかなかった。たとえ記憶を消し去ろうとも、「大島大洋」を成す三十億の塩基対の配列が変換杖を発動させる。そして、再び彼を戦場へといざなう。その度に、こうして傷つくのだろう。

彼が、彼であること。

 それはつみなのか。

 枕元に置かれた変換杖は何も答えない。


「せめて、私がもっと強ければ……」


 その時、リツがガバリと起き上がった。リコの左右のほっぺたを、指でつねる。


ひゃひふふほへふはなにするのですか!?」


 リツは妹の頬をつままみながら、彼女の顔をまじまじと眺めた。


「リコはブスだなあ」


 姉の指を払う。


「私がブスなら、お姉ちゃんだってブスじゃないですか。双子なんだから同じ顔でしょうに」

「でも、私はそんな表情かおしない」


 リツは言った。


「隣でそんな顔されても、嫌なことが増えるだけだよ」


それだけ言い切ると、リツはまたベッドに寝転んでしまった。


「お姉ちゃんは、強いですね……」

「別に……。たぶん、リコもできる」


天井を見ながらリツが呟く。


「……はい」

 

リコは、目の端に溜まった涙を拭った。


「うん。それじゃあリンゴ剝いて」

「それとこれとは話が別なのです」

 

ちなみに、この後、数日間、リツの食事は流動食になる。固形物に飢えた彼女は狂ったようにつまみ食いを試み、リコを悩ませる。それでも今は、疲れと森都に帰り着いた安堵から、間もなく、穏やかな寝息を立て始めた。



 ◆


 解が目を覚ましたのは、夜明け前のことだった。上半身を起こそうとすると、身体中が痛む。


「……ここは、……帰って来たのか」


 白い壁と天井。解は安堵する。彼はベッドに寝かされ、身体には包帯が巻かれていた。横を向けばリコが居た。彼女は上半身をベッドに乗せ、すがり付くようにして眠っていた。解を見守っているうちに眠ってしまったのだろう。

 リコの背中がゆっくりと上下していた。隣のベッドにはリツも居た。点滴の管が腕に繋がっているものの、呼吸は穏やかだ。

二人とも生きていた。

解が助けたのだ。


「そうか……」


 解は自分の手の平を見た。変換杖の重みがまだ残っている。自分は枝枉を制御した。そして、異常進化生物を斬り伏せた。こうして、姉妹が生きていることが、それを証明していた。


「リコ」


 呼んだけれど目覚めない。スー、スー、と穏やかな寝息を立てている。少し悩んで、彼女の背中に解はそっと触れた。リコがハッと目を覚ます。


「大洋くん!? 身体は?」

「大丈夫だよ」

「良かった……」

「風邪ひくから。客間のベッド、使いなよ」


 リコが頷く。去り際、彼女は言った。


「大洋くん。雰囲気、変わりました?」

「え?」

「私の名前、久しぶりに呼んでくれましたね」


 指摘されて初めて、解はその事に気付いた。リコの言う通りだ。解は無意識のうちに、彼女たちの名前を呼ぶことを避けていた。それだけではない。彼女たちに「大洋」と呼ばれる度に身構えてしまう自分が居た。しかし、今は自然と、リコの名前を呼ぶことができた。

 何故だろうか。解がぼんやりと考えているうちに、いつの間にか、再び深い眠りに落ちていた。疲れのせいもあっただろう。森都に来て以来、解は一番深い眠りに落ちた。

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