EP.21

 夜半。かつて東京の一部だった巨大なコンクリートの端に、リコは腰を掛けていた。夜の「森」と、そこに沈む廃虚を眺める。夜風が彼女の柔らかな髪を撫でた。


「良い月ですね」


 リコが言った。彼女の背後にリツが居た。見張りの交代に来たのだ。


「怖いの?」


 リツが訊く。


「どうして?」

「何となく、そんな気がした」


 リコははにかんだ。


「……流石、お姉ちゃんですね。少しだけですよ」


 夜が明ければ、森都を目指して十数キロの道を行く。数字だけ見れば大した距離ではない。しかし、「森」の中の十数キロだ。そこに何が潜むのか。変換杖へんかんじょう枝枉しおうは無い。月華と黒蓮だけでは火力不足だった。


「大丈夫」


 というリツの言葉に、根拠こんきょが無い事は分かっていた。それでもリコは、静かに微笑んだ。夜は音もなく、ただ過ぎていく。

 


 ◆


 やがて、東の空が白み始める。解はほとんど眠れなかった。彼が目を開けると、リコは既に起きて、自分の指をくしの代わりに髪を整えていた。


「あ、大洋くん。おはようございます」

 

 解が立ち上がり、一歩リコに近づくと、彼女の笑みが何故だか引き吊る。


「どうかした?」

「いえ」

 

 そう言いつつも、リコは解と距離を取る。解が一歩踏み出すと、リコが一歩下がる。二人の間に流れる沈黙。その時、リコの後ろにリツが現れた。


「あそこで見張ってた」


 背の高いコンクリートの塊を指す。今、戻って来たらしい。


「リコ。汗臭い」


 突然、リツはそんな事を言った。リコの顔がみるみる赤くなる。


「い、言わないでください!」


 解は事情を理解した。三人とも、ほとんど一日、身体を洗っていない。


「……いや、緊急事態だし」


「ですよね。あはは……」


 リコは乾いた声で笑った。しかし、リツは


「私は気にしない」


 とのたまうと、解のすぐ隣に立った。十センチも距離が無い。確かに、酸っぱい汗の匂いが微かに空気に混じる。


「お、お姉ちゃん!?」


 リコは姉をそばの傍から引きはがそうとした。しかし、そのためには自分が解に近づかなければならない。体臭が、解に届いてしまうかもしれない。近づきたくても近づけない。


「う、うう……」


 リコがうなるが、リツは少しも気にしない。


「ほら、大洋。行こう」


 そう言って解の手を引く。リコは二人を睨みながら後に続いた。

 昨日と引き続き、森の中を行く。

しばらく歩いた頃、解が泉を見つけた。地下へと続く階段。そこに澄んだ水が溜まっていた。どこから来たのか、透明な魚がゆらゆらと漂っている。


「「水!」」


 昨日から一滴も水を飲んでいない。解とリツが飛び付く。しかし、リコが立ち塞がった。


「ダメですよ」

「独り占めするつもり!?」

「しませんよ……。お姉ちゃんも、大洋くんも、ここが何処だか忘れたのですか?」


 階段のそばで朽ちた看板には、こう書かれていた。


『東京メトロ 副都心線』


「ここは旧東京ですよ。澄んだ水も、何が溶け込んでいるのか……」


 この「森」は、一千万人間が暮らしていた都市の墓場だ。つまり、重金属や化学物質が水に溶けて出していないとも限らない。

 しかし、リコにだって、その澄んだ水は酷く魅力的だった。

 早く森都に戻らなければ。お姉ちゃんはともかく、大洋くんはまだ万全ではない。いつの間にか、リコは唇を噛んでいた。その不安を振り払うように、殊更、明るく言う。


「森都に帰るまでの辛抱しんぼうです。恐らく、この階段は明治神宮駅ですね。もう一駅分は歩きましたよ」


「へー。リコ、詳しいね」

「お姉ちゃん。旧東京地図の暗記は必修なのです……」


 歩き続けると、やがて前方に、森ではない巨大な構造物が現れる。


「橋?」


 解が呟く。しかし、橋にしては長すぎる。終わりも、始まりも、見当たらない。


「この高架線、JR山手線ですかね? この辺りは壊れてなかったのでしょうか……」


 リコが言った。

 その高架線は、樹々が広げた枝葉の、やや下あたりを伸びていた。三人は壊れかけた階段を見つけて上る。

 そこは草原だった。真っ直ぐ、帯状に伸びた草原。土壌どじょうが薄いせいで、樹は満足に根を張れないらしい。代わりに背丈の低い草で覆われていた。錆びた線路が見え隠れしている。かつては、人間を満載まんさいした電車が行き来していたのだろう。今は風が吹き抜けるだけ。


「歩きやすい」


 リツが言う通り、はい回る根も、コンクリートの破片も転がっていない。


「これなら、日が暮れる前には森都に着きそうですね。迷う心配も無いですし」


 リコが言った。

 真っ直ぐ北へと伸びる線路に沿って歩き続ければ、やがて原宿を経由し、新宿に辿り着く。そこから少しばかり西へ行けば森都だ。


「映画みたい」


 リツはそう言って、びた線路の上を、両手を広げてバランスを取りながら歩く。「うぇんざなーい」と、あいまいな英語の歌を口ずさむ。その様子を眺めていると、解も真似してみたくなった。リツの隣の線路に乗ってみる。

 両手を広げる。

その腕の下を風が通り抜けていった。

 視線を横に向ければ、樹々が広げた枝葉が隣に有った。


「飛んでるみたいだ」


 解が言った。その様子を見て、リツがクスクスと笑う。その笑い声も風が吹き流す。

 その時、足元に振動を感じた。

解の乗った線路が震えていた。振動が靴底を通して伝わる。何か巨大なモノが、この線路の上を移動しているのだ。山手線は東京が「森」になって以来、運休中のはずだ。解が異常事態だと理解した時には、既にリコは変換杖を抜いていた。


「大洋くん。私の後ろに」

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