EP.19
三人は無言で森を歩く。
大樹が広げた枝葉。地面に張り巡らせた根。湿った森の空気と腐葉土の香り。そして、静謐。それらが、かつてここが東京であったことを覆い隠してしまう。「森」ができてせいぜい三十年。それでも、太古の昔からここに在ったかのように、「森」は厚かましくも、澄ました顔で佇む。
その時、リツが言った。
「疲れた。ちょっと休憩」
そのまま手近な樹に寄り掛かる。
しかし、リコは張り詰めた面持ちで言った。
「お姉ちゃん。絶対に動かないでください。いえ、本当に。ふり、とかじゃなくて」
解はゆっくりと視線を上げる。空へと伸びる樹の幹。その先端に顔が有った。縦に細長い瞳。二股の舌が、口から出たり入ったりしている。
「……ヘビだ」
「ヘビ? 何処?」
不思議そうな顔をするリツ。今、彼女が寄り掛かっている、それがまさにヘビだ。余りに巨大すぎて、リツは樹だと思っていたけれど。
「あー、もう! お姉ちゃんは、いつもそうなのです!」
リコが不機嫌そうに言う。彼女の手には
変換杖・
その半透明の杖は、宙に揺らめく光子を偏在させる。リコは、手近な樹の幹に赤外線を集中させる。赤外線もまた、光の一種なのだ。
ヘビは目が良くない。代わりに、ピット器官と呼ばれる口の上に開いた二つの孔で、赤外線を捉えるのだ。
大蛇のピット器官は、リコが樹の幹に照射した赤外線を捉えた。生物は赤外線を発している。だから、ヘビにはその樹の幹が、活きの良い肉塊に見えていた。
しかし、ただの樹の幹にすぎない。ヘビは喰らいついてから、その事に気付いた。もう遅い。牙が固い樹に食い込み、頭を振るが外れない。
リツは既に走り出していた。
ひらり。
そんな形容詞が似合いそうな身軽さで、ヘビの胴体に飛び乗った。
「ピット器官を狙ってください」
リコが叫ぶ
「なにそれ!?」
「鼻の
「だったらそう言ってよ」
リツは駆けた。
波打つヘビの背を、駆ける。
その先にヘビに頭が有る。
リツが跳んだ。
彼女のしなやかな脚を包むのは、変換杖・
右脚に灼熱を、左脚に極冷を纏う。
リツがヘビの頭に左足で着地。
瞬間、ヘビが動かなくなった。
氷結したのだ。
リツは止まらない。
蛇の頭を蹴りつけ、まるで水面に卵を産むトンボのように、トーンッと軽やかに
リツが軽やかに地面に降りた時には、ヘビの
「ザコめ……」
巻き起こされた風に髪を吹き乱されながら、リツは言った。
「何カッコつけているのですか。不注意ですよ」
「……だって、樹にそっくりだったし」
そのヘビの鱗はゴツゴツとした樹皮のような材質だった。所々、コケまで付いていて、確かに、これでは樹にしか見えない。その表皮はとにかく固い。しかし、
「これも
解が訊いた。
「はい。……この鱗は、セルロースですかね? ……動物なのに?」
リコが首を捻る。
「サンプル、採ってく?」
「いえ。今は私たちが帰る事の方が重要でしょう。さあ、行きましょうか」
解に向かって、リコが微笑む。
大蛇との
◆
日が暮れ始めた。森の中は暗くなるのが早い。リコが月華を抜いた。すると、光源が有るわけでもないのに、解たちの周囲の空間がぼんやりと明るくなる。まるで、空間そのものが光っているかのようだった。
「リコの変換杖、便利だよね」
リツが言った。
「お姉ちゃんの黒蓮も便利ですよ」
「そういえば、二人って双子なんだっけ?」
解が訊いた。
「そうですけど、どうかしましたか?」
「いや。双子なら遺伝子が同じだから、同じ変換杖を使えるのかなって」
しかし、リツは残念そうに言う。
「使えない」
「そもそも、一卵性の双子でも、完全に遺伝子が同じというわけではないのです。完全に遺伝子を揃えようと思ったら、それこそ、クローンでも造るしかないでしょうね」
その言葉に、解は一瞬、ドキリとした。
やがて、三人は
そこは、東京の中でもとりわけ巨大なビルがそびえていた。巨大な壁のような、渋谷マークシティ。そして、高さ二百メートルにも迫るセルリアンタワー。それらも今となっては、折り重なるようにして大地に倒れている。しかし、おかげで樹はいくらか
「「森」の中より、多少はマシでしょう」
リコが言った。
夜の帳が静かに降りる。今夜はここで夜を明かすらしい。
折り重なるように倒壊したビルの山。その頂上付近に、崩れたコンクリートが屋根のようになっている場所を見つける。リコはブレザーの下に着ていたカーディガンを脱ぐと、それを解き始めた。瞬く間に、毛糸の玉が出来上がる。それを周囲の瓦礫に張り巡らし、リツが拾ってきた木の棒を吊るせば、即席の
解はほとんど足手まといだった。彼が中学三年間、授業を聞き流しながら、窓の景色を眺めて時間を浪費する間も、この姉妹は
解が彼女達の横顔を眺めて居ると、視線に気が付いたらしい。リコが言った。
「月が綺麗ですね」
広がる樹々の海。黒く波打つ様は本物の海のようだ。その上に、ぽっかりと銀の月が浮かぶ。
「んー、この月の高さだと、森都に居たら見られませんでしたね」
リコがいたずらっぽく笑う。すると、リツが二人の間に割って入った。
「大洋。これ」
リツが差し出したのは、名刺ほどの大きさに折りたたまれた、銀色のシートだった。
「破れた」
折りたたまれたシートを貫通するように、穴が空いている。ただ、その穴の縁は余りにも滑らかだった。まるで、ナイフで串刺しにでもしたかのように。
「破いたのですか!?」
リコが言う。
「違う。破れた」
「嘘なのです!」
「これは?」
解が訊いた。
「サバイバルシートと言って、ポリエステルにアルミを蒸着したものです。身体に巻き付けて、熱が逃げるのを防ぎます。夜は冷えますから。少しでもカロリーを温存しないと」
「大洋。入れて」
「え?」
「私のシート。破れちゃったから」
破いたのでしょう、というリコの非難は聞き流す。
「……でも、そのシート、持ってないから」
突然、リツは解に身体を寄せた。そして、彼のブレザーの内側に細い手を滑り込ませる。
「え、何?」
「有るよ」
そう言って、リツは解のブレザーから何かを引っ張り出す。それは折りたたまれたサバイバルシートだった。解は入れた覚えなど無い。
「何で?」
「防衛科の制服だから」
そう言いながら、リツはシートをマントのように羽織る。
「ほら。おいで」
彼女が手招きした。このまま招かれても良いものだろうか、と解が
「あ、お姉ちゃん。偶然、ここに特大サイズのシートが有るのです。お姉ちゃんはそれを一人で使ってください。大洋くんは、こちらへどうぞ」
リツが
「そんなもの、何で?」
「備えあれば憂いなし、です。お姉ちゃんは、昔から行き当たりばったりですよね」
「ふーん」
リツは顎を上げるようにして、リコを睨む。
「何ですか?」
「別に」
リツは地面に座る、と見せかけて、動いた。一瞬でリコの懐に潜り込むと、二人用シートを奪い取る。同時にナイフが閃き、シートを切り裂いた。
「お姉ちゃん!?」
「シート、丁度、三人分」
リコのシートは綺麗に二等分されていた。
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