EP.15

「望月、詩灯……」


 少女の名前が解の口から漏れる。腕から力が抜け、ダラリと垂れさがる。銃口は床を指していた。


星零せいれいの歌姫」こと、望月詩灯。


 彼女の歌を、解は何度だって聴いた。それこそ、CDが擦り切れてしまうほどに。その彼女が今、解の目の前にいた。

 しかし、少女は言う。


「残念だけど、違うよ」

「……いや。……そんなはずは」

「違うよ。それは、舞台で歌っている時の名前。今は、雪村温ゆきむらはる。大洋のクラスメイト」


 確認するように、解は声に出す。


雪村ゆきむらはる?」

「そう。温だよ。ほら、いつまでも立ってないで座りなよ」


 温と名乗った少女は、ソファに身を預けると、ぽんぽん、と自分の横を叩いた。ここに座れ、という事らしい。解はその通りにする。

 「大島大洋」の部屋は角部屋だった。しかも、南東方向を向いている。ソファに座りながら、森都の摩天楼と、その先の「森」が見渡せた。解は、自分があの望月詩灯と並んで座って、景色を眺めている事が、まだ信じられないでいた。


「あの、どうして、こっちに居るんですか?」

「ん?」

「いや。どうして「壁」の東側に居るのかな、って」

「あー、そっか。そうだよね。ボク、もともと森都に居たんだよ。森都で生まれて、森都で育ったの」

「……そう、なんですか」


 解は最初、「壁」の西側にいた望月詩灯が森都に来ているのだと思っていた。実際は、森都に住んでいる詩灯が、時々、「壁」の西側に来ていたらしい。詩灯の出身地や通っている学校など、一切が非公開だった。その理由を解は今になって知る。


「……えっと、この部屋にはどうやって入ったんですか?」

「守衛さんに言ったら、入れて貰えた」

「え、そんな簡単に?」

「だって、ボク、国民的歌姫ですから?」

「で、ですよね」

「大洋はそういう時ね、うるせえ、って言って、頭をぐしゃぐしゃってやるんだよ」

「さ、最低ですね」

「そうだよ! 君は最低だ!」


 温はそう言って、解の目の前に頭を突き出す。艶やかな黒髪が光を弾き、天使の輪を作っている。


「ん」

「え、何ですか?」

「ん!」


 撫でろ、という事らしい。撫でるまで引き下がらない構えだ。


「……あ、あの」

「早く」

「あ、はい」


 解はシャツで手の汗をゴシゴシ拭うと、恐る恐る、その頭に手を置いた。本当に置いただけ。それでも、絹のように滑らかな感触が指先から伝わる。自分は、憧れの歌姫に、一体、何をしているのか。そんな解の心情など知らず、温は唐突に立ち上がると言った。


「あ、これ、おみやげ」


 ガラスのテーブルに、ポテトチップスの袋が山のように積まれていた。一部の封が空いている。カサカサ、パリパリ、という音の正体はこれだったらしい。


「やっぱり、お菓子は向こうの方が一杯あるよね」


 そう言って、温はポテトチップスの袋を引っ掴むと、封を開けた。


「向こうって、「壁」のですか?」

「敬語禁止」

「はい」

「大洋?」

「あ、ごめん。……うん」


 解が慌てて言い直すと、温は、よろしい、と偉ぶって答えた。


「昨日まで、西日本ツアーに行ってたんだ。詩灯ちゃんは、みんなの歌姫だからねー」


 今、目の前に居る、短パンとTシャツという余りにラフな格好の少女は、やはり「星零の歌姫」と同一人物らしい。そんな彼女は今、袋の底にたまったポテトチップスの欠片を取り出す作業で忙しい。


「そういえば、雪村さん」

「温」

「……温さんは」

「温!」

「……は、温は、髪切ったの?」

「ああ、これ……」


 温が前髪を摘まむ。彼女の髪型はショートボブだった。しかし、ステージに立つ彼女は黒のロングヘアだった。観る角度や光の当たり方によって、時折、紺青こんじょうにも見える。そんな不思議な髪をしていた。事実、今日の入学式の時も、彼女は長い髪だった。


「あー、あれね。カツラ。お洒落しゃれに言うとウィッグね。……大洋さあ、本当はボクの事、覚えてたりしない?」

「……あ、いや、……入院してるとき、温、の歌を聴いたから。……元気がでた」


 解は即興そっきょうで嘘の話を作る。ただ、温の歌を聴いて元気が出た、という部分は本当だった。温はその話を聞いて、満足気に鼻から息を噴き、ニマリと笑う。そして、すすす、と解の傍に寄る。解の肩と、温の肩が、わずかに触れる距離。


「歌ってあげようか?」

「え?」

「何が良い?」

「今、ここで?」

「うん」

「そんな、良いの?」

「ほら。早くしないと、ボクの気が変わっちゃうかもよ?」

「じゃ、じゃあ、アメイジング・グレイス!」


 星が流れたあの夜、解が初めて聴いた詩灯の歌だった。


「ほほう。なかなか良い選曲ですな。それでは」


 解の隣で、温が歌いだす。温が息を継ぐ度、彼女の肩が、くすぐるように解の肩を小突くのだ。歌をつむぎながら、彼女はチラリチラリと解を見ては、いたずらっぽく微笑む。その度、解は視線を逸らしてしまう。

 あの望月詩灯が、解のすぐ隣で歌っている。世界で解だけが、その歌を聴いている。自分が大島大洋の複製だと聞かされた時よりも、異常進化生物を目の当たりにした時よりも、変換杖を握った時よりも、今この瞬間が、夢のように思えた。

 しかし、歌には終わりが有る。

 最後の一音が消えた。


「大洋、そんな残念そうな顔、しないでよ。もう一曲、歌おうか?」

「良いの?」


 解の顔が輝く。それを見て温は笑った。


「何曲でも。大洋。ボクはね、君の為なら幾らでも歌う。こんな声、枯らしたって良い」


 解は、彼女が吐き出した一連の言葉の意味を、よく理解できないでいた。

 温はソファの上で膝を抱える。そして、そっぽを向きながら言った。


「大洋。ボクはね、君が好きなんだ」


 解は自分の耳を疑った。


「今、なんて?」

「君は嫌な奴だ! こんな恥ずかしい事、もう一回言わせるつもりなんだね? ……君が好きだよ。……も、もう言わないぞ」


 温はただ、好きだよ、と言った。恋人になりたいだとか、そんな要求は一切無しに、ただ君が好きなのだと、その事実のみを告げる。


「君が死ぬかもしれないって聞いた夜は、本当に辛かった。大洋が生きてて、本当に良かった」


 想い人に伝えられなかった気持ちが、ずっと胸の中、おりのように沈んでいる。この気持ちを、どうすれば良いのか。こんなにもあなたが好きなのに。

 温が入学式で歌った恋の歌は、彼女自身のことだったのだ。あの時、目が合ったと解が感じたのは、間違いではなかった。

 温は、たおやかな腕を、そっと解の背中に回す。


「大洋……」


 温がそっと顔を近づける。

 彼女の吐く息が首筋に当たる。

 その時、潤んだ温の瞳に、解は写った自分の顔を見た。

 突き飛ばした。

 解は思わず、温を突き飛ばしていた。

 そうしてから、解は自分がしてした事に気が付く。真剣な温の顔を、解は真っ直ぐ見る事ができなかった。温が見ていたのは解ではなく、「大島大洋」だったから。


「ご、ごめん! 俺、なんてことを」


 解の顔からサッと血の気が引く。しかし、温は言った。


「違う。大洋は悪くない」

「え?」

「……大洋からしたら、ボクとは、今日、初めて会ったんだもんね。突然、こんなこと言われても驚くよね。ごめんね。……ボク、もう行くね!」


 最後の一言を、温は努めて明るく言った。しかし、上手く笑えていない。彼女もそれを分かっていたから、すぐさま解に背を向けた。


「待ってくれ!」


 とは言えない。伸ばし掛けた右手が宙をさまよう。引き留めたところで、自分に何ができるのか。結局、解は「大島大洋」ではない。


「……だったら、俺は誰だ」


 彼が呟いた。「御堂解」は死んだ。しかし、変換杖は制御できない。そんな俺は、一体、誰なのか。答えの出ない問いかけが、無人の部屋に吸い込まれて、消えた。

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