EP.11
「ようこそ。第三十七研究所へ」
「すごい……」
解が呟く。扉を一枚隔てて、まるで別世界だった。
白を基調としたエントランスホール。広大なホールの中央には、ガラス張りの温室が有った。約五メートル四方のガラスの立方体。その構造物は一切の柱も骨組みも持たない。中には、若い
「さあ、こっちだ」
「また降りるのかよ」
「これで最後さ」
異様に長いエレベーターに乗り込む。辿り着いた先に巨大な扉。その先の部屋は、プラネタリウムに似ていた。静謐の詰まったドーム状の空間だ。部屋の壁面には、等間隔で丸く黒い扉が並んでいた。その数、合計十六。そのうちの一つをコンコンと叩きながら、ゆず葉が言う。
「この金庫はロケットランチャーでも破れんよ。一つ一つにエントロピー変換杖が保管されている」
人間は居ないはずの「壁」の東側。そこに密かに造られた森都のさらに地下。廃墟の奥。これは気づくはずがない、と解は舌を巻く。
「ちなみに、金庫のうち四つは空だな。内二つの中身はそこの双子が持ってる。後の二つの適応者は、まあ、そのうち会う事もあるだろう。残りの十二振りが、この扉の中で適応者を待っている」
「俺の変換杖も?」
「その金庫の中だ」
そう言って、ゆず葉は「一」と書かれた金庫を指す。
「扉にパネルが有るだろう? それに触れたまえ。君の指紋と光彩パターンを読み取って勝手に開く」
解は言われた通りにする。重厚な扉が気だるげに開いた。
「……これが?」
「そうだ。変換杖・
それは黒い直方体だった。長さ四十センチほど。リコのそれより一回り大きい。
「触っても良いか?」
「もちろん。君のモノだ」
解がその変換杖をそっと手に取る。
「重い……」
そう感じた。実際、その直方体は一キロにも満たない。それでも重いと感じた。解の持つ遺伝子配列だけが、枝枉を起動させることが出来る。それこそ解が造られた理由。今、彼の心臓が脈を打つ理由だった。
◆
「君が何故、君であるか。分かるかな?」
ゆず葉の問いに、解は
「分からない」
としか返せなかった。しかし、その答えは予想以上にシンプルだった。
「遺伝子だよ」
スクリーン上に、二重らせんを描く遺伝子模型が映し出される。
「アデニン。グアニン。シトシン。チミン。この四つの塩基が三十億個、並んだモノが人間の遺伝子だ。ところで、塩基の並べ方は全部で何通りあるか分かるかい?」
解は首を振る。
「無量大数は六十八桁だが、塩基の並べ方の総数は、ゆうに十億桁を越える。そして、その天文学的な組み合わせの中で、ただ一通りの遺伝子だけが、君という人間を実現させる」
これこそ、同じ人間が存在しない理由だった。二人の人間が、たまたま同じ組み合わせの遺伝子を持つ可能性は限りなくゼロだ。だからこそ、同じ遺伝子を持つ人間を生み出そうとしたら、クローンを造るしかない。
「凄まじい「
「秩序?」
「三十億個もの塩基が定められた順番に並ぶ。そんな遺伝子が、六十兆の細胞の中に一つずつ存在する。そして、六十兆全ての細胞が、遺伝子の指示に従って決められた役割を果たす。そうする事で君と言う人間が成立する。これを「秩序」と呼ばずして何と呼ぶ? 人間はこの小さな身体の中に、天文学的な「秩序」を内包しているんだ。どんな
「分かった。それで、その秩序が、この変換杖とどう関係してるんだよ?」
「エントロピー変換杖は、「秩序」を身体の外に与えるんだ。……まあ、見た方が早いな。東雲妹」
「はい」
ゆず葉は白衣のポケットから、一掴みのサイコロを取り出した。その数、十二。リコはサイコロを受け取ると、右手で腰に吊った変換杖に触れる。そして、サイコロを放った。
「・」「・」「・」「・」「・」「・」「・」「・」「・」「・」「・」「・」
整然と並ぶ、十二個の一の目。その確率、約二十億分の一。
「面白そう」
そう言って、リツもサイコロをかき集め、放る。一の目が、冗談みたいに十二個、並んだ。一の目が二十四個連続して出る確率は、四百
解は一つのサイコロを摘まみ上げる。何の
「サイコロには仕掛けなんて無いさ」
ゆず葉が笑う。
「さっきも言った通り、生命は天文学的な「秩序」を持つ。その一部をサイコロに与えたんだよ」
「そんな事が?」
「可能だ。変換杖がそれを可能にする。現に彼女達はそうやって一の目を十二個、出して見せた。君はリツ君が黒蓮を使う所を見たのだろう?」
「ああ」
ゆず葉がその仕組みを説明する。
気温とは即ち、空気中の分子の運動の激しさだ。しかし、二十五℃の空気分子が全て、同じ激しさで運動しているわけではない。激しく動く分子と、穏やかに動く分子が入り乱れている。二十五度、というのはそれらの平均だった。
変換杖・黒蓮は、空気中の分子に「秩序」を与える。激しく動き回る分子ばかりが右脚の周りに、穏やかに動き回る分子ばかりが左脚の周りに、集まっている状況を造り出す。その結果、右脚は高温を、左足は極冷を纏う。
「黒蓮が空気を操るのに対し、月華は光子に「秩序」を与えて、思うままに操る」
「なあ。ちょっと待ってくれよ」
「何だ?」
「「秩序」を他の物に与える、ってことは分かった。じゃあ、与えた分、身体の中の「秩序」が減るってことだよな。それって、身体に害は無いのか?」
「すぐにそこに思い至るとは流石だよ。君、地頭は良いな」
「大洋くんは成績も良いですけど」
リコが言った。ゆず葉が、げふんげふんと咳払いする。
「だからこそ、誰もが変換杖を使う事ができない」
「じゃあ、俺たちが使えるのは何で?」
「そもそも生物には遺伝子の自己修復機能が備わっている。君たち適応者は、とりわけその自己修復機能が強い。だから、変換杖を使う事ができる」
「……だいたい理解した。人間は体内に「秩序」を持っている。そして、それを使って、普通なら起こらない現象を引き起こすのが、エントロピー変換杖」
「その通りだよ。人間の「秩序」を、外部の現象に変換しているから、変換杖というわけだ」
「待ってくれよ。じゃあ、エントロピー、ってのは?」
「エントロピーとは即ち、「秩序」のパラメーターの事さ。エントロピーが小さければ小さいほど、「秩序」が存在するという事だ」
「エントロピー。秩序のパラメーター……」
解が呟く。そろそろ、彼が処理できる情報量の限界を越えようとしていた。しかし、ゆず葉は構わずまくしたてる。
「変換杖とは、極めてイレギュラーな存在だよ。かつてシュレディンガーは、負のエントロピー、すなわちネゲントロピーを提唱し、否定された。しかし、世界には質量を担う素粒子が存在するように、負のエントロピーを担保する「何か」が存在するのかもしれないよ? ゾクゾクするねえ。ふふふ」
ゆず葉が鼻息荒く語った。解は
「……それより、使い方を教えてくれ」
「おっと、すまない。……つい熱くなってしまったよ。仕組みなど分からないでも、車に乗ってる奴は腐るほどいるからな。とにかく、使えなければ話にならない」
第三十七研究所の最下層。そこに広がる、百メートル四方のプールは、満々と水を湛えている。このレクチャーは、そのプールサイドで行われていた。
「さて、実技指導に移ろうか」
「じゃあ、ここからは私が」
「私も」
東雲姉妹が歩み出る。
「別に構わないが……君たちは、どうして水着なんだ?」
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