EP.7

「どうかしましたか?」

「……いや。カレー、美味いなって」

「良かった。お代わりもありますから、いっぱい食べてくださいね」

「おかわり!」


勢いよく器を突き出したのは、三十過ぎのゆず葉だった。


「この年で独り身だとね、こういう家庭料理、それも誰かに作って貰ったものなんて、なかなか食べる機会が無いんだよ。この塩分がキツイ、安っぽいルウがなかなかイケる……」


 ゆず葉は聞かれてもいない事を語り始める。リコは可哀かわいそうな人を見る目で、彼女の皿にカレーをよそった。

 いつの間にか鍋は空になった。代わりに、リコが淹れた紅茶と、クッキーがテーブルに並ぶ。弛緩した空気が漂っていた。森都でも壁の西側と同じテレビ番組が見られるらしい。クビになって田舎に戻ったOLが、そこで十年ぶりに再会した幼馴染の農家との恋に落ちる、という筋書きのドラマが放送されていた。ゆず葉とリコは画面に見入っていた。


「なんでこんな男にれるかなあ? 優しいだけの男なんて、お呼びじゃないんだよなあ」

「だから結婚できないのでは?」

「君もそのうち分かるさ」

「分かりたくもないですけどねえ」


 その虚構きょこうがまるで現実であるかのように、二人は批判ひはんを加える。


「眠い」


 不意にリツが言った。


「あ、お姉ちゃん。寝るならシャワーくらい浴びてくださいよ」

「えー。面倒なんだけど……」

「臭いと大洋くんに嫌われますよ」

「大丈夫」

「ダメですよ。何を根拠に……。お風呂は突き当りを右ですよ」


 ふらふらとした足取りで、リツがシャワールームへ消えた。


「今の、どういうこと?」


 解が訊いた。


「お姉ちゃん、昨日は眠れなかったみたいで。大洋くんに久しぶりに会うから」


 寝るのが早くないか、という意図の質問ではなかった。しかし、リコが余りに平然としているので解は何も訊けなかった。しばらくしてリビングに戻って来たリツは、ジャージ姿だった。


「お姉ちゃん」

「歯なら磨いた」

「化粧水くらいつけないと。乳液も」

「んー」

 リツは手慣れた所作で、半分眠っている姉の顔に化粧水と乳液を塗り込む。終わりましたよ、とリコが言うと、リはあっという間にベッドに潜り込んでしまった。


「えっと、泊まるの?」

「そうですけど?」


 何でもないように、リコは湯気ゆげの立つ紅茶を啜った。


「ふざけるのも大概にしたまえ! 聞いてないぞ!?」


 怒り始めたのはゆず葉だった。


「男女七歳で同衾どうきんせずと言うだろうが!」

「別に同衾はしませんけど……」

「とにかく駄目だ。大洋君に、そういうのはまだ早い!」

「二階堂先生。明日も仕事でしょう。そろそろ帰られたらどうですか? 先生くらいになると、朝が辛いのでは?」

「だいたい大洋君はまだ病み上がりなんだぞ? さわがしくしちゃ迷惑だ」

「病み上がりだからですよ」

「どういう意味だ?」

護衛ごえいです」

「……宮藤が君たちをよこしたということは、そんな事だろうと思ったが。ん、何だ?」


その時、ゆず葉の携帯端末が震えた。彼女は画面を一瞥いちべつするなり顔をしかめた。それから壁際かべぎわまで解を引っ張っていくと、リコには聞こえないように言った。


「気をつけろよ。君は女の子に免疫めんえきが無いから」


 それだけ言い残し、ゆず葉は部屋を後にした。


「うるせえよ」


 閉まった扉に向けて、解は呟く。

 ふと、甘い香りがした。解が振り向くとリコが居た。


「二人になってしまいましたね」

「あ、うん」

「そんなに緊張しないでくださいよ」


 そう言ってリコは笑う。


「紅茶のお代わりは?」

「大丈夫。それより護衛ってどういう事だ?」

「そうだ。トランプでもしませんか? 私、強いんですよ?」

「ちゃんと答えてくれよ。護衛ってどういうことだ。俺は――」


 どうして森都に連れてこられたのか、と言いかけて、その先は言ってはいけないと気付く。


「――俺は、一体、何者だ?」

「……そのうち嫌でも分かる事です。だったら、今日の夜くらい、ただの子供でいましょうよ。お菓子でも食べながら、くだらないテレビを見ましょう。ね?」

「それでも、今聞きたい」


リコがため息を吐いた。


「失言でしたね……。分かりました。少し長くなりますよ?」


 二人はテーブルを挟んで対面に座る。リコは腰にくくり付けた棒状の物を外す。丈の長いカーディガンに見え隠れしていたそれを、解はベルトか何かだろうと思っていた。しかし、そうではないらしい。


「これは?」

「エントロピー変換杖(へんかんじょう)。普段は縮めて、変換杖と呼んでいます」


 その細長い直方体を握りながら、リコがささやいた。


月華げっか。起きてください」


 瞬間、その黒い直方体が白くけた。半透明の直方体の中を、葉脈ようみゃくのような銀色の筋が走っていた。例えるならトンボの翅のようだ。巨大なトンボの翅を直方体に切り出したら、こうなるのかもしれない。


「これが、変換杖?」

変換杖です。適応者てきおうしゃ、変換杖を使える人の事ですが、適応者ごとに形は違います」

「その変換杖ってのは何ができる?」

「それも適応者によりますね。私の変換杖は光子干渉こうしかんしょうに適性が有ります。……そうですね、私の手を触ってみてくれますか?」


 そう言ってリコは手の平を差し出す。解のそれよりも一回りは小さい。


「大丈夫ですよ。痛かったりはしませんから」


 リコは穏やかに笑う。その柔い手に何が有るのか。解は手を伸ばし、そっと触れる。しかし、感触かんしょくが無い。試しにその手を握ってみる。


「……すり抜けた?」

「大洋くんには、そう見えるでしょうね」

「どういう?」

「例えば、水を張ったグラスに物を入れて上から覗き込むと、光の屈折くっせつのせいで、実際より大きく見えますよね? あれです」

「じゃあ、君の手が、実際よりも大きく見えてるってこと?」

「はい」

「変換杖が光を曲げて?」

「そうです。そして、大きく見えている分、近くにあると錯覚さっかくしているのです。あと五センチ、手を前に出してみてください」


 解が恐る恐る手を伸ばす。すると、指先が柔らかい何かに触れた。リコの手だ。


「月華。もう良いですよ」


 リコは黒い直方体に戻ったそれを腰に収めた。

科学は日進月歩にっしんげっぽ。人類は月にさえ行った。しかし、リコの腰に吊られた直方体が、未だに人には過ぎたモノで有る事は解にも明らかだった。

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