EP.6
「大島大洋」
かつて、その死体は、そういう名前の人間だった。
「今日からは、君が「大島大洋」だ」
宮藤はそう言って、解の肩を叩いた。
日が沈みきる前に茶会は終わった。その後すぐ、解は病室へ移された。
「この柱、病院だったのか」
「
ゆず葉が答えた。
「一つだけ?」
「ああ。だが地上五十階、地下五階建てだ。医師は六百人。森都の人口は三十万人だから、一人当たりの医師数は壁の西側より多いな」
解が想像していたよりも、森都の暮らしは豊かだった。
「これで病室?」
「VIP専用さ」
病室と言う名のそれは、3LDKだった。和室や見舞客用の寝室まである。森都における自分の立場を、解は身を以って感じていた。
「「大島大洋」って何者だよ?」
ゆず葉は少し迷ってから答えた。
「難しい質問だね。……一言で表すなら、英雄、だろうか」
「英雄? どういうことだよ?」
「君が「大島大洋」として成すべき事は、そのうち嫌でも分るさ。とにかく今は休みたまえ。色々あって疲れているだろう」
ゆず葉は半ば無理矢理、解をソファに座らせた。それが想像以上に柔らかくて、解は思わず息を吐いた。ソファに身体を預ける。そして、気だるげに訊いた。
「……そもそも、何で俺は壁の西側に居たんだよ? こんなまだるっこしい事をしなくても、最初から、森都で複製として育てれば良かったはずだ?」
「危険を分散させる為だよ。森都に何か有った時に、二人ともこの都市に居ては、共に失ってしまうかもしれない」
「なるほどね」
この森都で「大島大洋」として生きることは、それなりに危険らしい。現に、「大島大洋」本人は死んでしまっている。
「それは分かったけど、何で普通の生活をさせていたんだ?」
「木を隠すなら森の中、というやつさ。結局、数千万の市民に紛れ込ませてしまう事が、最も確実だと結論した。隣人がクローンだと疑う人間なんて居ないだろう? もちろん、監視は付けてあったがね」
「それが先生だった」
「そうだよ。……怒っているかい?」
「何を?」
「君を
「別に怒ってはない」
確かに、自分が造られた人間だと知った時は驚いた。しかし、彼は「御堂解」という人間に、大して価値を感じていなかったらしい。繰り返す日々は、携帯端末が吐き出す詩灯の歌声だけが美しかった。今回は、その事実を改めて突き付けられただけだ。怒りは無い。虚無感。解の身体は柔らかいソファにズブズブと沈む。
その時、チャイムが鳴った。モニターに映し出されたのは、二人の少女だった。
『お見舞いに来た。開けて』
モニターの中で少女が言う。
「面倒なのが来たぞ」
ゆず葉は苦々しい顔つきで言った。
少女達は同じ顔をしていた。そして、二人は解の姿を認めるなり、まるで猫のように彼に飛び付いた。
「大洋くん。良かった……」
そう言って腕に抱き着いた方の少女は、涙ぐんでいた。もう一人の少女は、ただ無言で解の袖を掴み、彼の肩口に額を押し付ける。
「今すぐに離れたまえ」
「あら、先生、居たのですか? 感動の再開に水を刺さないで欲しいのですけれど」
腕の方の少女が言った。さらに強く解の腕を掴む。
「空気読んで……」
もう一人の少女も呟いた。彼女達の体温や甘い香りに、解は
「大洋君はまだ
ゆず葉が重々しい口調で言うと、二人は渋々、手を放した。解は改めて彼女たちを見る。解と同じくらいの年齢だった。そして、二人とも同じ顔をしていた。解はドキリとする。それに気づいたゆず葉が言った。
「彼女たちは双子だよ。本物の」
最後の一言に含みが有った。確かに二人とも、そっくりな顔つきだ。スッと真っ直ぐに伸びた鼻筋。目は切れ長で涼しげ。いずれにせよ、美人と呼んで差し支えない。
「東雲リコです」
腕にしがみついていた方の少女が名乗った。こちらの少女は穏やかな表情のせいか、目はやや垂れて、どこか柔和な印象を与える。髪は栗色。長く伸びた柔らかな猫毛が、滑らかに波打っている。
「リツ」
そう名乗ったのは、額を押し付けていた方の少女だ。彼女の方は、表情は乏しいのだが、元々の造形が整っているだけに、むしろ美術品めいた美しさを帯びていた。
「……えっと、久しぶり、なのか?」
「本当に、忘れてしまったのですね」
リコが沈痛な面持ちで言った。リツも、羽織ったデニムジャケットのポケットに手を突っ込み、下を向いた。
「君は記憶喪失だ」
夕刻のお茶会で宮藤は言った。
曰く、単独任務中に大怪我を負った「大島大洋」は、どうにか立ち上がれるまでには恢復した。しかし、その時の傷が原因で記憶を失くしてしまった。
そういう「設定」だった。
誰かに正体を打ち明けたらどうなるの、と解は訊いた。
「正体とは? 君は「大島大洋」だ。それ以上でも、それ以下でもない。しかし、まあ、君が妄想を垂れ流すようであれば、それは不幸なことになるだろう」
宮藤は言った。不幸が何を指すのか、解は
「ごめんなさい。
リコが言った。
「あ、いや」
「大丈夫なのです」
リコは目に溜まった涙を、指先でそっと拭った。そして、解の眼を真っ直ぐと見据えながら、毅然と言う。
「私はあなたの味方です。それは確かです」
「私も」
リツもそう言って、再び解の
「大島大洋」という人間は、随分と他人に好かれていたらしい。解は、微笑みや優しい言葉を向けられる度、どこか居心地の悪さを感じた。遊園地で着ぐるみの中に入っている人間は、こんな気分なのかもしれない。
「すごい! 素敵なキッチンですね!」
ふと、別の部屋からリコの声が聞こえた。病室備え付けの大型冷蔵庫には、新鮮な食材がぎっしりと詰まっている。
「お夕飯は?」
「まだだけど」
「カレー、好きでしたよね」
好物はカレー。解は脳内にメモする。
「おいおい。大洋君は病人だぞ。病院で用意する」
「でも、もう普通の食事で大丈夫なのですよね? 藤十郎さんからも、久しぶりに温かい手料理でも食べさせてやってくれ、と言われているのです」
「あのオヤジめ。余計なことを」
ゆず葉は
二人の少女は、にぎやかに料理に取り掛かる。解はゆず葉と、そんな二人をダイニングから眺めて居た。
「ほら、お姉ちゃん。エプロンつけないと」
病室に有った無地のエプロンは、シンプルで味気なかった。それでも少女が身に着けると、突然に映える。少し大き過ぎるエプロンを着て野菜の皮を剥く彼女たちを、解は自然と目で追ってしまった。
「大洋君。鼻の下が伸びてい《》るぞ」
「の、伸びてない」
解が慌てて口元を抑える。
「全く、君は女の子に免疫が無いからなあ」
「うるせえよ」
間もなく、テーブルにカレーとサラダが並ぶ。もちろん付け合わせも抜かりない。流石にラッキョウは無かったらしいが。代わりに玉ねぎで作った浅漬けが用意されていた。
「美味しいですか?」
「……うん。美味しい」
良かった、とリコがほほ笑む。いわゆる普通のカレーだ。市販のルウで作る、ニンジンとジャガイモがごろごろ転がったカレー。これが、やたらと美味い。
ふと、解は自分の家の事を思い出した。解が両親だと思っていた人達と、彼は血の繋がりが無かった。当然である。解は複製なのだから。あの人達は政府の人間で、解を育て、監視することが仕事だった。
彼らが本当の両親でないと予想していた、と言えば大げさだが、そうだと言われて驚かないくらいに予兆は有った。
酷い親だったのではない。むしろ、あの二人は完璧だった。母は毎日、味や栄養に気を配りながら食事を作ってくれた。家は常に清潔で、ホコリなどは一切、落ちていなかった。一方、父は毎日忙しく働きながらも、たまの休みは家事を手伝う。疲れた、なんて言葉が口から出たことは一度だって無い。その上、解は両親が
人間臭くないのだ。完璧さの裏に有ったのは、仕事としての義務だ。彼らは解を愛してなどいなかった。その事を、解は薄々感づいていたのかもしれない。
「あ、お姉ちゃん。ニンジンも食べてください。身体に良いですよ」
「そう。身体に良い。だからリコにあげる」
「私は食べてます!」
何故だろうか。この賑やかな食卓が、解にはとても好ましく思えた。
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