EP.2


「学生さん?」


 男が訊いた。


「違います」


 解は咄嗟とっさに答えていた。


「お説教するつもりは無いんだ」


 男は湯気の立つコーヒーを美味そうに啜った。


「高校生?」

「……中学生です」

「思ったより若いね」

「一応、春から高校生ですけど」


 と解は付け足した。


「高校生ね。懐かしい響きだ」


 リーマン風の男の顔がほころんだ。そんな彼の様子を見て、解は問う。


「高校って、楽しかったですか?」

「別に」

「え?」

「何もなかった。いつの間にか終わっていた。君もそうだろう?」

「え?」

「朝起きて、学校に行く。放課後はテレビを見たり、ゲームをしたり、漫画を読んだり。何となく時間を潰して寝る。それの繰り返し。そんな毎日に焦って夜の街に繰り出してみる。何か変わらないものか、とか思って。だけど何も変わらない。それで、今はコンビニで見知らぬオジサンとコーヒーを飲んでる、と」


 図星だった。解はリーマンの方を向く。リーマンはにやけていた。


「まあ、自分も似たようなものだけどね」


 解に語り掛けているのか、それとも独り言なのか。あいまいな口調でリーマンは言う。


「何だかね、ぼんやりと毎日が過ぎていくんだよ。多分、分からなかったんだ」

「何がですか?」

「……分からなかった。……何て言うか、夢中になれる何かっていうか、大げさに言えば、生きていく理由、みたいな」


 生きていく理由。

 ぼんやりとしたこの毎日。その繰り返しは、果たして意味の有るモノなのか。その先に何が待っているのか。そもそも何か有るのか。解にはさっぱり分からなかった。


「あの、何で生きてるんですか?」


 男がき出す。


「凄い質問だ」

「あ、……すいません」

「大丈夫。質問の意味は分かってるから」


 男は思案しあんを巡らせながらコーヒーをすする。解はその様子をジッと見守っていた。やがて、男は答えた。


「無いや。たぶん、死ぬのが怖いだけだ」


 ◆


 解は胸にもやもやしたモノを抱えたままコンビニを後にした。それはわずか数分の出来事だった。しかし、やけに印象に残った。先ほどの会話が頭の中で何度も繰り返される。

 死ぬのが怖いだけだ。

 その答えは、解を戦慄させるのには十分だった。

 解はいつの間にか公園に足を踏み入れていた。家への近道なのだ。昼間は賑やかな場所だが、今は誰もいない。

 しかし、後ろから足音が聞こえた。

 砂利を固い靴で踏むような音。ザリ、ザリ、ザリ、と規則正しく響く。解は自然と早歩きになる。すると、足音も速度を上げた。解が走り出す。足音もついてくる。思い切って後ろを振り向いた。

 街灯をスポットライトのようにして、先ほどコンビニで会ったリーマン風の男が立っていた。解は足を止めて尋ねる。


「あの、何ですか?」


 リーマン風の男は、ズンズンと近づいて来た。解の目の前で止まる。男の身体には変に力が入り、強張こわばっていた。


「ふ、ふふ……」


 笑っていた。


「だから、何ですか?」


 解が問う。

 返事は拳だった。

 男の握り拳が解の顔面にめり込んでいた。拳を突き出した勢いで、上半身までふらつくような不格好ぶかっこうなパンチ。それでも、口の中が切れたらしい。鉄の味が広がる。

 解は逃げた。男は追う。異様に速い。革靴を脱ぎ捨てると、ますます速い。跳んだ。男は解の足首に飛び付き、地面に倒す。そして、解に馬乗りになった。そのままでたらめに殴りつける。

 痛い。

 意味が分からない。

 解は両腕で自分の頭をかばう。もがくけれど抜け出せない。解は叫ぶ。


「何のつもりだよ!?」


 すると、突然リーマンが笑いだす。彼の目は焦点が定まっていなかった。半開きになった口からヨダレが垂れている。薬でもキメているのか。


「お前、「何で生きてるんですか?」とか聞いてたよな? 人生の意味みたいな? 考えちゃってたな!? 最高に面白かったぞ! 考えたって、もうすぐ死ぬのになあ!」


 リーマンが拳を振り下ろす。

 解は状況が理解できなかった。ただ、目の前の男が自分を殺したがっている事だけは分かった。ふと、言葉が口を突いて出る。


「……して」

命乞いのちごいか?」


 苦しそうな声を聞いて、リーマンは嬉しそうに笑う。しかし、解の言葉は命乞いではなかった。


「……どうして……俺を殺す? ……俺を殺して、何になる?」


 法治ほうち国家で殺人を犯すという事は、自分の人生を壊すという事だ。それだけのリスクを負ってまで、何の為に殺すのか。解の命にそれだけの価値が有るのか。解はそれを知りたかった。しかし、解の言葉が命乞いでないと分かると、リーマンはますます激しく彼を殴り始めた。

 目の前に自分を殺そうとしている人間がいる。薄れゆく意識の中、ただ、その事実だけが有った。そして、動物的な本能。その本能に突き動かされるように、解は動いた。スッと左手を前に突き込む。躊躇ためらいいは無い。落ちた小銭を拾うような自然さ。彼の指が、男の眼球と眼窩がんかの間に刺さる。


「ヴぉっ!」


 男が悲鳴を上げた。解はじ込んだ指を曲げて、伸ばす。生暖かいナメクジがまとわりつくような感触。気持ち悪さに、思わず手を引き抜いた。その穴から血があふれる。


「え、痛っ! 痛い!? 血、血が、……止まれ。……止まれ! うおおおおおおおお!」


 男は両手で、爪が肉に食い込むほど目を押さえ込む。しかし、出血は止まらない。指の間をすり抜けて、赤い血が糸を引くように垂れる。解の服に染みを作った。解はもがきながら男の下から抜け出す。


 救急車、救急車、とリーマンはうめいていた。零れた血が男のシャツを赤く染めている。相当な量に思えた。このまま放置したらリーマンはどうなるだろうか。


 死。


 解の脳裏に、そんなイメージが浮かぶ。

 心臓が、とくり、と跳ねた。

 解は自身に問いかける。

 このままここを離れたら、罪になるだろうか。


「……ならないだろ」


 解は呟いた。男は赤子のように背中を丸めて、地面にうずくまっていた。


「大丈夫。これは正当防衛だ。俺は悪くない」


 自分自身に言い聞かせるように、解は言った。

 鼓動こどうが速い。

 夜の街は、いつもと違って見えた。

 何かが起きる気がした。

 そして、今、人が死ぬかもしれない。

 間接的とは言え、解が殺す。

 彼は思う。

 自分はこの後、罪の意識に苛まれるのだろうか。

 その苦しみはきっと、命の重さだ。

 知りたい。

 感じてみたい。

 つばを呑み込んだ。

 解がゆっくりと男に背を向けて、この場を去ろうとした、その時だった。突然、強烈な光に照らされて、目がくらむ。


「そこで何をしている!?」


 自転車に乗った警察官がいた。血まみれで転がる男と棒立ちの少年。警官の目に、この光景はどう写ったのか。

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